最終話 あなたへ贈る曲
それは、先生の三回忌法要の帰り道だった。
駅の一角に置かれたグランドピアノを見て、父がピアノを弾いてくれた時のことを思い出した。先生の供養になればと、俺はピアノ椅子に腰かけ、あの曲を演奏した。
先生と過ごした音楽室での日々は、今でも鮮明に覚えている。先生の優しさ。笑顔。それらに、どれほど救われたことだろう。
曲を弾き終え、椅子から立ち上がろうとしたその時だった。
「真冬!」
近くで男性の声が聞こえた。俺はカバンを掴むと、すぐさまその場を離れた。
「真冬、待ってくれ!」
予想通り、その男は俺を追いかけてきた。
絶対に捕まってはいけない。その一心で、俺は人混みを掻き分け、無我夢中で走った。
小鳥遊遥翔。ずっと、ずっと、会いたかった人。何度も忘れようとした人。
頼むから、俺をその名前で呼ばないでくれ。
階段を上ろうとした時、足がもつれた。倒れると思った瞬間、何者かが俺の腕を掴んだ。
「真冬」
「その名前で俺を呼ぶな!」
男の手を振り払い、憎悪をこめて睨みつけた。
「あなたにだけは、会いたくなかった」
彼が会いたいのは、柊木真冬であって、俺じゃない。
俺が先生じゃないと知ったら、彼はきっと・・・・・・。
「ごめん。でも、俺はずっとお前に会いたかった」
小鳥遊遥翔に抱きしめられた時、一瞬何が起きたのか分からなかった。
「真冬に、妻に会わせてくれてありがとう」
彼の抱擁を振り払おうと思えば振り払えたのに、彼から伝わってくる心臓の音が心地よくて、俺はその腕を振りほどくことが出来なかった。
小鳥遊遥翔から渡したいものがあると言われたので、俺は彼の後をついていった。
「お邪魔します」
「どうぞ。左手が洗面所だから好きに使って」
手を洗った後、リビングの扉を開けた。部屋はいかにも男の一人暮らしといった感じで、テーブルの上には食べかけのカップ麺やビールの空き缶が散乱していた。
「悪いな。もう少しで片付くから適当に座って」
彼の言葉に従って椅子に座ろうとしたが、椅子の上には食べかけのポテチの袋が放置されていた。
「ポテチにカップ麺にビールって、こんな生活を続けていたら身体壊しますよ」
「そうだよなぁ。分かっているんだけど、なかなか止められなくて」
小鳥遊遥翔は頭を掻きながら笑った。
「やっぱり、俺も手伝います」
ゴミ袋を片手に片付けること一時間。ようやく部屋が綺麗になった。
「ありがとう。助かったよ」
「いえ、別に。それより、俺に渡したいものってなんですか?」
「ああ、そうだった。取ってくるから少し待っていてくれ」
彼が他の部屋へ行っている間、俺は先生の仏壇に手を合わせた。
「前から気になっていたんだが、お前と真冬はどこで知り合ったんだ?」
「学校です。先生はよく俺のためにピアノを演奏してくれました」
「へえ。仲がよかったんだな」
「ええ。彼女とは、先生と生徒。ただそれだけの関係でしたから」
「でも、それだけじゃないんだろう?」
仏壇から彼に視線を移した。
自分がスーツを着ていたことを思い出し、俺はため息を零した。
「聞かれなければ話すつもりはなかったんですが、実は、俺と先生は、腹違いの姉弟なんです」
「腹違いの姉弟?」
「はい。先生が学校を辞めるまで、俺はそのことを知りませんでした。先生が倒れて見舞いに行った時にはじめて、叔父から教えてもらいました」
「なるほど。だから、お前はあの曲を知っていたんだな」
「え?」
小鳥遊遥翔が俺に楽譜を渡した。『愛する我が子へ』というタイトルが付けられたその曲は、確かに先生が俺に弾いてくれた曲だった。
「これは、真冬の父親が自分の子供たちのために作った曲なんだと。真冬がそう言っていた」
彼の言葉が信じられなかった。いや、正確には、信じたくなかった。
楽譜の最後のページには、小さな茶封筒が貼りつけられていた。封筒を開けて中身を取り出すと、中から手紙と銀色の指輪が出てきた。
『私の大切な弟 冬樹へ この楽譜と指輪は、あなたが持っていてください。あなたの未来に、たくさんの幸せが訪れますように。 真冬』
はじめて音楽室で先生と出会った時から、彼女は俺が弟だと気づいていたのだ。だから、先生は何度もあの曲を弾いてくれた。父が子供たちのために残した、あの曲を。
「・・・・・・一度くらい、姉さんって呼べばよかった」
楽譜の上に涙が数滴落ちた。手で涙を拭うと、横からテッシュケースが差しだされた。
「真冬は幸せ者だな。心優しい弟に恵まれて」
「馬鹿言わないでください。俺ほど最低な弟はいませんよ」
「でも、真冬はお前に自分の大事なものを託すぐらい、お前を大事に想っていたのは事実だろう」
彼に手を引っ張られ、俺はリビングの席についた。
「俺がいいと言うまで、そこで目を閉じていろ」
目を閉じてから数分後、彼から目を開けるように言われた。
目の前には鏡が置かれていた。自分の首にネックレスがつけられており、銀色の指輪が鎖骨の辺りで揺れていた。
「真冬がつけていた物だが、よく似合っている」
「これ、結婚指輪でしょう?俺なんかに渡していいんですか?」
「真冬が望んだことだ。お前が持っていてくれ」
俺が礼を言うと、小鳥遊遥翔は俺の肩を軽く叩いた。彼から伝わってくる手の温もりは、どこか懐かさを覚えた。
「冬樹」
玄関の扉に手を掛けた時、彼が俺の名前を呼んだ。
「と呼んでもいいか?俺のことは小鳥遊でも遥翔でも、好きに呼んでくれたらいいから」
「冬樹と呼んでください。小鳥遊さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。今日はありがとう」
彼の名前を呼ぶのは、これが最後だと思うと、少し寂しかった。
「・・・・・・あの」
「なんだ?」
「楽譜を、この家に置いていてもいいですか?」
小鳥遊さんはきょとんとした顔をした後、小さく吹き出した。
「どうして笑うんですか?」
「ごめん。俺も、またピアノを弾きに来てほしいって言おうとしてたから」
俺はカバンから楽譜を抜き取り、彼に渡した。
「いつでも弾きにおいで。待っているから」
「はい。また来ます」
小鳥遊さんと別れた後、夜道をひとり歩いた。歩く度に、指輪が胸元で揺れた。
「先生。これからも、ずっとそばにいます」
その微かな重さが、自分が孤独ではないことを教えてくれた。
Forget me (not) 深海 悠 @ikumi1124
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