四小節目
先生が学校を去ってから数か月が経った。彼女がいなくなった後も、俺は時々音楽室へ入ってはピアノに触れた。
放課後。誰もいない音楽室でピアノを弾いていると、携帯に着信が入った。
『冬樹君、久しぶり。元気だったかい?』
久しぶりに聞く男の声は、ほんの少し疲れているように感じた。だが、それは自分も同じだった。
「俺に何の用ですか?」
『今日は、君に頼みがあって電話したんだ』
男から電話があった次の日、俺は姉がいるという病院へ向かった。
「失礼します」
病室の扉を開けると、柊木真冬がいた。柊木真冬が自分の腹違いの姉であったことにも驚いたが、それ以上に、たくさんのチューブに繋がれた彼女の姿に絶句した。
「二か月前からずっとこの状態なんだ」
「そう、ですか」
「真冬。君の弟が会いに来てくれたよ」
男がもう一度、眠っている彼女に呼びかけようとしたので、俺は慌てて阻止した。
先生に、俺が腹違いの弟だと知られるのが怖かった。俺が、愛人の子供だなんて、知られたくなかった。
病室を出た後、男は俺に名刺を渡した。
「名乗るのが遅くなったね。私の名前は、柊木冬真。今日は、私の我儘を聞いてくれてありがとう」
別れ際、俺は男に二つの頼み事をした。もし彼女が目を覚ましたとしても、自分が来たことは内緒にしてほしい。そして、彼女が亡くなった時はすぐに自分に連絡してほしい。その二点を伝えると、男は頷きながらも、少し寂しそうな顔をしていた。
高校三年の夏、先生は息を引きとった。彼女が亡くなったと知らせを受けた俺は、すぐに術の準備に取り掛かった。
術の準備をしながら、祖父から言われた言葉をひとつずつ思い出した。
一、ひとつの魂につき、身体を貸すことが出来るのは一度きり。
二、死後、一週間以上経った魂に身体を貸すことは出来ない。
三、身体を貸した後、自分の魂が再び身体に戻るまで時間がかかる。
先祖のなかには、術の使用中に亡くなった者もいるらしい。死ぬリスクがあったとしても、俺は先生に時間を与えたかった。それぐらい、彼女のことを愛していた。
「悪い生徒でごめんなさい」
術を発動させると同時に、視界が真っ白になった。
どうか、少しでも長く先生が現世に留まれますように。そう願いながら、俺は意識を手放した。
次に目を覚ました時、俺は病室のベッドの上にいた。検査を受けてどれも異常なしと判断された俺は、その日のうちに退院した。その後、俺はなるべく先生のことを考えないようにと受験勉強に専念することにした。
「私、今の人と結婚するから」
母親がそう言ったのは、志望校に合格した日の翌日だった。
「だから、あんたは今日中に出て行って」
「今日中になんて、無理に決まってるだろ。せめて物件が決まってからじゃないと困る」
母親は愛用のブランドカバンに手を突っ込むと、しわくちゃになった紙を俺に押しつけた。
「これは?」
「道で倒れていたあんたを病院まで運んだ後、毎日のように見舞いに来ていた男の名刺。行く当てがないなら、その男に電話でもしてみれば?それじゃあ、私は仕事に行くから」
母親が家を出て行った後、俺は手の中にある小さな紙を広げた。
「小鳥遊、遥翔」
名刺に書かれた名前を呟いた瞬間、自分の知らない記憶が一気に呼び起こされた。
満開の向日葵畑。月明かりに照らされたピアノ。パチパチと弾ける線香花火。
意識が戻った後、全身の力が抜けて地面に倒れた。
「ははっ。なんだよ、これ」
身体が熱い。心臓がバクバクと鳴り、呼吸がうまく出来ない。
会いたい。小鳥遊遥翔に会いたいと、心が叫んでいた。
先生の想いが、俺の身体のなかにまだ残っているのだ。
「迂闊に手を出すんじゃなかったな」
壁に身体を預けながら、再び手の中の名刺を見た。
先生は結婚後、柊木から小鳥遊へと苗字が変わった。だから、彼は先生の夫で間違いないだろう。
携帯を手に取り、名刺に書かれた電話番号を押した。三コール目にして、自分の愚行に気づいた俺は、即座に終話ボタンを押した。
彼が会いたいのは、柊木真冬であって、俺じゃない。
「・・・・・・馬鹿か、俺は」
もう二度と、小鳥遊遥翔に関わっていはいけない。
俺は名刺を小さく破った後、ゴミ箱へ捨てた。
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