羊のいない夜・4
「ペネロペ!」
もっと早くそう言うことは言うべきでしょと非難を込めてブルーベルは叫んだ。
「ですからお早くと申し上げていたのです」
「それだけじゃ伝わらないと思うけど!」
「うう、奥さま」
ミズ・ペネロペはブルーベルに食い下がられると弱ってしまい、弁明するように言い返す。
「これでも最大限の特例なのです。客人と呼べども本来は我々が姿を現して彼らに助言することさえいたしません」
薄情でそうしているわけではないことくらい彼女の態度や言葉でわかっている。けれど。それでも急にこんなことを突きつけられるのは不条理だ。
この騎士が罪を犯したわけでもないのに。
「思ったよりまずいな」
当の本人はもう何にも動じないのか顎に手をやって、思案するような吐息混じりの声で呟いた。適応能力が高すぎる。
「何かないのペネロペ、もう少し情報は……」
侍女は目を伏せて首を振る。
「こればかりはご本人に委ねるしかありません。」
「……ならとりあえず引き続きやってみるか。ありがとう」
「…………」
死という行き止まりは必ず誰にも訪れるものだから、自分も受け入れかけた経験がある。人の生死に関して口を出すことは出来ない。
けれど彼の死はあまりにブルーベルの隣に近すぎた。
「浮かない顔だな」
「そういうあなたは落ち着いてますよね」
何故か向こうが気遣ってくるので軽めの皮肉で返すと、澱みなく彼は言った。
「軍属している以上いつか殉職するという未来は当然起こり得る。俺のような一兵卒が消えるなら戦って死ぬか、行方不明になるか。国にとってはどちらもそう変わらないさ」
「…………」
そうか、ブルーベルとはまた違った理由でそういうことを常に考えて生きている人もいるのか。国のためにいつも戦っている人たちは、ともすればブルーベルよりそれに近いのかもしれない。それにしても動揺が少なすぎる気がするが。
「そして君にとっても俺の死は関わりない。そう気にしなくても良いんだ。それに死ぬとは言われてないさ。手を尽くしてから失敗してここにいるしかないのなら、すまないが世話になるよ」
「退屈ですよ、ここは」
「そうだな、することがなくなったらしまいにはこの辺の玩具で遊び始めるかもしれない。昔甥っ子と遊んだみたいにな」
手近にあった馬の木像を馬のように動かして見せる。無邪気を装って似合わない振る舞いをしている騎士がおかしくなって。
ブルーベルはつい笑った。
*
「…………」
玄関ホールから正面の階段を上がった扉を開けて二階の廊下に戻ると、白樺の主がぼんやり立っていた。
「奥さまはあの客人をお手伝いされていますが」
「知ってる」
いつもおしゃべりな主人が抑揚のない声で短く返事をする。人間が迷い込んだことで羊たちが息を潜めているように、彼も言葉少なになっているのかとミズ・ペネロペは一度納得した。
しかし微かに聞こえた呼吸の漏れる音に、侍女の頭に別の理由が降りてくる。
「…………、もしかしてやきもちですか」
「うるさいよ」
長くこの屋敷に勤めてきたミズ・ペネロペは、初めて耳にする主人のむくれたような声に目を瞬かせた。
「あら……」
口元を手で覆って覗き込んでくる侍女の視線をよけて姿勢が低くなっていく。卯廊が座り込むと、身を包んだ上衣で真っ白な雪の塊のように丸くなった。
「何にも気付かずに眠っててくれればよかったのに」
「早晩知られていましたよ」
付き合いの長い侍女はスカートを整えながら卯廊の横に膝をついて。
「そんな顔をするくらいなら貴方が手を貸せば良いのでは?」
そうすればあの剣士もすぐに出ていくでしょう、と意地悪心が働いて余計な口を出してみると、白布が捲れた隙間から悩ましいしかめ面が垣間見えた。
「……無理だってば」
*
月があればいよいよ西に傾いて山際に触れ始めようという頃。
身体がだんだん重くなってきて、瞼が落ちないようにブルーベルの顔が険しくなる。
「お嬢さん、」
「……大丈夫です」
ここで眠って、目覚めた時にこの騎士がどうにかなっていたら自分は自分を恨むだろう。
「徹夜ってものを一度してみたかったのでちょうど良いですよ」
「はは」
騎士はブルーベルの強がりを軽く笑って流す。もう時間がないのに、この人はいつまでも平常心である。
「そろそろ朝ですよ。慌てないんですか」
「君は諦めてないだろ」
客人が確かめたものをブルーベルが分けていく。その作業をどちらも止めることなく、また話しだす。
「そりゃ、どうなるかわからないのは怖いことだ。それでも俺が恐怖に陥ったりせずやるべき事が出来たのは、君が近くにいてくれたからこそだと思うぞ」
「…………」
「何かたった一つからまだ見放されていないなら、人は勇気を絞り出せる」
ああ、ブルーベルは恵まれていたのかもしれない。
あちらにはいたのだ、彼女の病と向き合って、諦めないでくれた人たちが。それで力をもらえたのだろう?
まだ諦めないでいられるのだろう?
ブルーベルは青い瞳を瞼で覆う。
すると静寂が研ぎ澄まされて。
——カラン。
小さな呼び声が耳に届いたような気がした。
「あの、その辺り……」
「え」
客人はブルーベルが指差したあたりに視線を向ける。しばしそこを凝視していたが、ふと、人混みの中から古い知り合いに気付いたかのようにガラクタの山に手を突っ込んで、一つの品を引き摺り出した。
「……ああ、これか」
「見つけたんですか!」
彼の手に握られていたのは手のひらに収まる大きさの金属製の板だった。大きく彫られた国章と細かい装飾彫刻があり、重厚感のある鏡のようなもの。
「これは。……うっかり失くしてた国家騎士の勲章だな」
「そんな大事なもの失くしてたんですか!?」
「いやここに任務で来る前に身に着けていく必要があったんだがどこにやったんだか見つからなくてな。……この傷痕、間違いなく俺のものだけど、何故こんなところに……?」
ブルーベルは安堵と呆れで大きな溜め息が出る。
「って、早く試しましょう! もう本当に時間がないです、多分」
客人の背中を押すようにして物置を出ると、玄関ホールでミズ・ペネロペが待ち侘びていた。
「無事に見つかったようですね」
「ペネロペ」
騎士は扉に預けていた剣を手に取り戻し、取っ手を掴んでゆっくり押してみる。
扉は重苦しい音を立てて、客人を許すように開かれた。
「開いた……」
ほっと緩んだ騎士の笑顔を朝靄の光が包んで外へと誘う。
騎士は引き寄せられる足を少し止め、こちらを振り返った。
「ありがとうブルーベル」
本人しか探し出せないものをブルーベルが手伝っても何か役に立てた訳もなく、勘で指したところにたまたまあっただけだ。
「偶然ですよ」
「見つけてくれたのは君だろ。それに俺がこの屋敷にたどり着いてしまったのだって偶然だ、馬鹿には出来ない」
偶然を肯定するなら、この森で息をつなぐブルーベルという存在のことを何と言えば良いのだろう。
決めたことにぐちぐち言いたくないな。彼女は肩をすくめた。
「もう失くさないでくださいよ、それ」
「そうだな、食いっぱぐれるところだった。……いつか遊びにおいで。シューテンデルの都市もいいところだから」
「…………」
一瞬躊躇したが、はいと返事をしようとしたところで侍女の声が彼の背を押し出す。
「早くいきなさい。いつまでもいられると邪魔ですよ」
「ああ、ありがとう侍女の方」
カイン・ペイファはこうしてビルケ・ヴァルトの霧から抜け出した。
「……ばれてますよ。いつまでそうしてるんです」
隣に立つ背の高い侍女は妻の指摘を受けるとふわりと白い粒子に包まれる。そして霧が晴れた時に再び姿を表したのはミズ・ペネロペではなかった。
ひょいと白布を後ろへのけて満足そうなアイスグリーンの瞳を向けてくる。
「よく俺だってわかったな。愛かな」
「様子が違ったので。ペネロペじゃないならあなたでしょう」
「消去法かよ……。いつの間にペネロペにだけ懐いちゃったんだ」
あーあと残念そうに溜め息を吐く卯廊は、寒そうに上衣が前を開かないように引き寄せて閉じる。
「あれは運が良かったけど、時折ああいうのが訪れるんだ。それは誰が望んだからでもない。そういう場所だからだ」
「あ、ペネロペから聞いたので大丈夫です」
「説明さえ取られてる……」
あなたが来なかったからでしょう。
「……帰れなかった人はどうなるんですか」
誤魔化されたくない質問だった。神を見上げてブルーベルは問う。
「ブルーベルは客人じゃないから関係ないよ?」
「……知りたいだけです。どうなるんです?」
卯廊は彼女の深い青を見とれるように眺めた後、閉じ切った扉のレリーフへ視線を移す。
「その時は……まあ、羊が一人増えるだけ、かな」
徐々に賑やかになりつつある屋敷の中は使用人たちが目覚めているらしく、朝の訪れを訴える。
「さ、朝食の時間だ。一緒に行こう」
夜の静寂はあの客人と共に跡形もなく光に溶けて。
「先に行ってたらいいでしょう。後から行きます」
ブルーベルは白い絨毯の隙間から差し伸べられる手に気付かないふりをして、着替えをするために自室へ戻っていった。
迷霧のクリンゲル 端庫菜わか @hakona
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