5、溶暗

 ──滴る水の音が耳朶を打つ。


 重い瞼を開ける。まだ視界がぼやけている。


 周囲に在るのは吸血鬼の暗視を以てしても見通せぬほどの暗闇。この黒々とした粘り気のある闇を、エリザベートはよく知っている気がした。


 状況を確かめようと歩き出そうとするが、体が動かない。それどころか首から下の、体の感覚がないことに気づく。


 ──何が起きている。


 現在に至るまでの記憶を順に辿ってゆく。瓦礫に埋もれ、動けなくなったところで首を斬られようとしていた。剣を振り下ろす騎士に、下僕の少女が背後から近寄り、短剣を突き立てた。


 少女の虚ろな瞳に宿っていたのは、主への忠誠だったのだろうか、それとも──。


 記憶はここで途切れていた。


 不確かな記憶を反芻するエリザベートは、近づいてくる小さな足音に現実へ引き戻される。一面の暗闇に、ぽつりと灯りがひとつ揺れている。


 姿を現したのは下僕の少女だった。


 これは何事だと問おうとするが、発せられたのはくぐもった唸り声だった。


 轡を嚙まされている。


 少女が持つランタンの灯りに、石造りの壁と吊り下げられた鎖が照らし出される。城の地下牢だった。


 消えていた体の感覚が、痛みを伴って徐々に返ってくる。水たまりに反射する自らの姿を見て、自分が置かれた状況を理解し始める。エリザベートは磔台に鎖で固定されいた。四肢は胴から分かたれたまま、先端には鉄製の器具が取り付けられている。かつて自らが少女に取り付けさせた義肢だった。


 何のつもりだと憤慨するが、噛みしめた轡の隙間から涎が垂れるばかりで、言葉にならない。身体に力を込めても、胴を無様にくねらせるだけだった。


 少女は身動きのとれぬ主人の傍に寄る。


 淀んだ瞳でエリザベートを見据えたまま、胴に短剣を差し込んだ。


 心窩のあたりに孔が開いた。悶絶するエリザベートに少女は反応することなく、刃を捻って孔を広げる。孔が十分な大きさになると、体内に手を差し込み、内臓を愛撫し始める。ぞりぞりとした不快な快感がエリザベートの身体を駆け昇り、全身が痙攣する。轡の間からだらだらと汁を垂らしながら、飛んでしまいそうになる意識を必死に押しとどめる。


 ──なぜこんなことを。


 ぐるりと目を剥いた視界の端に、机に並べられた道具が映る。鋏や針、ねじ締め器や肉叉。それらはすべて、自らが少女に使った物だった。


 下僕は、自らが受けた責め苦をのすべてを、主人に返すつもりなのだろうか。


 エリザベートの想像は現実のものとなった。少女は日に一度は地下牢に降り、時間をかけてエリザベートを責め立てた。主が気を失えば目覚めるまで待ち、体が傷つけば癒えるまで待ってから次の責め苦を与えた。少女は主の血を舐め、逆に自分の血を与えることで主を生かした。


 これは今までの仕打ちへの復讐なのだろうか。それとも、吸血鬼の血を口にした者の嗜虐性の発露なのだろうか。あるいは忠誠心の歪んだ顕れなのだろうか。

 

 エリザベートが何を問いかけても少女が口を開くことはなく、瞳もまた何も語らなかった。


 責め苦は何日も続いた。何日も、何日も、何年も続いた。







 終わりのない苦痛の中、エリザベートは生まれて初めて許しを請うた。


 ──お前の苦痛はわかった。私が悪かった。


 ──弟と妹を殺めたことも謝る。償いのためならなんだってする。


 ──だから、だから、もう許してくれ。


 ──お願いだから、許して──。


 エリザベートの叫びは少女の心に届くことはなく、行為はいつまでも、いつまでも続いた。






 自分を見失ってしまいそうな闇の中、エリザベートは思った。少女はいずれ、受けた責め苦のすべて返し終わるだろう。では、その後は?その後私はどうなるのだろう。


 どうあっても、エリザベートは少女から逃れられないことを知っていた。


 少女は、生涯主の傍を離れぬという誓いを守り続けていた。


 エリザベートは瞳を閉ざした。


 主と下僕は、深い深い闇の中に溶けていった。






 二人の姿を見た者は誰もいない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒き誓約 新谷四季 @araya_shiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ