4
3度目の夏。高校最後の夏。
文芸部には一人の新入部員が入部し、私たちは最高学年として後輩を指導する立場になっていた。遠藤さんが部長、私が副部長だ。
遠藤さんは、部長として後輩の指導をそつなくこなしている。赤入れをしたり、原稿が遅れている部員に催促をしたり。
それに、部誌の編集責任者は彼女である。櫻井がやめてから荒れた中村の手綱を握り、原稿を受け取る手腕は卓越している。
私は、簡単なアドバイスをしたり、求められたら感想を言ったりなど、それくらいのことはするが、それ以外は名前のない雑用ばかりをしている。
中村は、櫻井がやめてから荒れに荒れた。元からわがままというか少し子供っぽいところはあったが、それがよりひどくなった。今では暴君として部に君臨している。だが、作品からは彼の日常の人柄が読み取れないのだから、不思議だ。
中村の書く作品は、以前より人間味が薄れ、まるで神の目で見たものをそのまま書いたような雰囲気があった。登場人物の言動は視点を変えれば悪にも善にもなるという、どこか冷めた書き方が、文章の美しさも相まって人間らしさを感じなくさせているのだと思う。普段の中村を知る私には、それが逆に感情を押し殺して書いているようにも読めた。
3年生は、進路に向けて行動しなければならない季節でもある。
教室で中村と二人で話しているときに、たまたまそんな話になった。
「中村は進路、どうすんの?」
中村はちっと舌打ちをした。
そういう時期だし、他の友達ともそういう話をする。
他愛ない世間話のつもりだった。
それから、少しの沈黙のあと中村は「おまえは?」と呟いた。
「私?」
質問を質問で返されると思っていなかったので、とっさに聞き返す。
「そ、おまえ」
大した答えは期待していないが、自分だけ手の内を晒すのは癪に障る、そういう目をして中村は私を見た。
「私はこのままマユ芸の文芸学科に進学して、教員免許とろうかなって思ってる。ほら、学園の卒業生は入学金免除とかそういうのあるんだよ。だから、それでいいかな、って」
「マユ芸」とは、黛芸術大学の通称である。
高校3年間、進路のことなんかまともに考えてこなくって、なんとなくで決めてしまった。特にやりたいこともなく、他の人より秀でたものは持っていない。だから、無難に適当に決めたのだ。
「櫻井は留学するって。アメリカだったか、イギリスだったか。通訳目指してるんだってさ」
電車で櫻井と同じ車両に乗り合わせたとき、今回と同じように進路の話をした。別にそこに他意はないし、この時期に話す話題といったら、大概進路の話だ。そこまで接点がなければ、なおさら。
留学する、と語った櫻井の目は生き生きとしていた。
ああ、彼は夢を見つけたのだと思った。
そのとき、降りる駅は同じなのに、彼だけ先に行ってしまったような気がした。彼は、行先をそれがいいと選んで、目的地に向かって歩き始めている。
私はどうだ。それでいい、と投げやりに決めて、ただ流れに身を任せているだけ。なんだか、自分が情けなくなって、そのあとは黙り込んで、一言も喋らなかった。
中村は「ふうん」と言って、窓の外を見た。
宮澤賢治の詩みたいに、嵐が吹き荒れている。
ゲリラ豪雨、というやつだ。
「マユ芸の――」
遠くのほうで雷が鳴る。
聞こえなかったので、「え?」と聞き返すと、中村は「マユ芸の文芸学科」と繰り返した。
「学科は違うけど親が卒業生なんだよ。……おまえは才能があるんだから、ここに進学しろってさ」
中村は面倒臭そうな口ぶりでそう言った。
「学費が安くなるからって俺の意思は無視だぜ、無視」
冗談めかして言っているが、目は笑っていない。
「天才っていうのも、楽じゃない」
そう呟いて、中村は笑った。
ぞくりと、背筋に寒気が走る。
櫻井がやめてから、中村は変わった。
思い通りにならないと癇癪を起こした。
地雷がどこにあるかわからず、後輩たちは中村を恐れるようになった。
物思いに耽ることが増えた。
以前より、表情が大人びた。
そして、こうして何かを誤魔化すように笑うようになった。彼がそういうふうに笑うのは決まって、誰かが彼を『天才』と呼んだときだ。
「『ボンジン』のおまえにはわかんないよ」
中村は、そう言って笑う。
中村の目に、底なしの深淵が見えた。
雷鳴が轟き、少しして遠くの空が光る。
『天才』と『ボンジン』、中村の引いた境界線は私を拒んでいた。
「今日、帰れるかな」
私は他人事みたいに呟いた。
10月のある日。
私と中村は職員室に呼び出された。先生方の言う「おめでとう」に、「ありがとうございます」と機械的に返す。
今年もとうとうこの日が来たのだ。
津島先生が告げた、白眉文学賞の結果は、中村は最優秀賞を、私は奨励賞を受賞した、とのことだった。
中村は退屈そうに話を聞いていた。堂々とした仁王立ちは吉報を聞く態度ではない。
私は私で、受賞したことが信じられなかった。去年と同じように、最低限やれることはやったつもりだ。だが、受賞するほどのものが書けたとは到底思えない。
中村は用が済んだらさっさと教室に帰ってしまった。
私も中村を追いかけるようにして職員室を出る。
廊下に出たとき、胸に湧いて出たのは後悔だった。
櫻井が書き続けていたら、どんな結果になったのだろう。
櫻井の才能を、私は醜く肥大した「好き」で潰してしまった。
――私がいなければ、よかったのだろうか。
風が出始めた。オープンスクールのときに見た、あの花があった場所には、別の芽が顔を出している。
――花の名前なんか、なんで知りたいと思ったのだろう。
わからない。
――なんで私なんかが受賞したのか。
わからない。
――なんで私なんかが文芸部にはいってしまったのだろうか。
私さえいなければ櫻井の努力は穢されなかったのに。
なんで、なんで、なんで。
風はどんどん強くなる。
次第に雨も降り出した。
窓ガラスに映った私の顔は、涙に濡れていた。
いや、雨の雫が窓ガラスについただけだ。
こんなことじゃ、いけない。
結露して濡れた窓ガラスを拭って、教室に戻った。
11月の文化の日。
本来であれば文化祭が行われているその日に、私と中村は津島先生の引率で、授賞式に出席するため、タクシーの中にいた。
中村はつまらなそうに車窓から見える風景を眺めている。6年間、毎年見続けた風景だろうから、もう見慣れているのだろう。どっかりと座って、タクシー運転手のふる話題にも、相づちを打つだけで会話をしようとはしなかった。
私も2年目とはいえ慣れない。緊張で吐きそうだ。去年は、中村と櫻井、見知った顔が二人もいたからなんとか頑張れたのに、今年は中村と二人きりだ。引率で津島先生がいるとはいえ、先生は他の引率で来た教員と談笑をしに行ってしまうから、当てにならない。
去年も去年で、中村と櫻井のことがあったから気が気ではなかったが、それで少し気がそれて、楽だったのも事実である。
ホテルに着いて、授賞式の会場前で受け付けを終えると、急に現実味が増して不安が大きくなる。授賞式が始まるまで、椅子に座っていていいと言われたので、その言葉に甘えて、椅子の背にもたれかかる。
はあっ、とため息をつく私を、中村は冷めた目で見ている。
「そこまで緊張しなくてもいいじゃん」
「こういう場所、慣れてないの」
私がそう言うと、中村は「2回目だろ、慣れろよ」と切り捨てた。
会場時刻になると、スタッフが呼びに来た。私たちは一塊になって会場に入った。それから、他校の一群と、個人応募で入賞したらしい受賞者が親を引き連れて入ってくる。
中学生部門、高校生部門、大学生部門、それぞれの部門ごとの受賞者が勢揃いだ。中学生は幼く見えるし、大学生は大人びて見える。ここにいるほとんどの人間が小説を書くと思うと、壮観な光景に思えてくる。
すると、中村に肩を叩かれて、「あんまりきょろきょろするな。みっともない」と小声で注意された。視線だけで謝り、まっすぐ前を向く。
表彰式は、主催であるマユ芸の学長の言葉から始まった。
「昨年見た顔も今年初めて見た顔も、それぞれありますが、何より嬉しいのがこの日本に文学に励む、若い才能がこれほどまでに多いことです。文芸の世界に、まだまだ未来があるのだと実感させられます」
学長が頭を下げて、降壇すると、中学生部門から表彰が始まった。中学生たちは、どことなくあか抜けない顔立ちをしながら、目には知性を携えている。最優秀賞を受賞した、3年生の女の子は、受賞後のスピーチで、中村が中学時代に書いた小説を読んで、それに憧れてこの賞に応募したのだと語る。
それを聞いている中村の表情は、暗がりの中でよく見えない。
高校生部門の表彰が始まると、一番はじめに中村が壇上に上がった。慣れた仕草で表彰状と盾を受け取ると、割れるような拍手が会場中に響き渡った。優秀賞、奨励賞、と順に名前が呼ばれ、私も壇上に上がる。
中村はスピーチをするときも堂々としていた。
「先ほど、僕の作品を読んで白眉文学賞に応募した、と聞きました。僕も多くの先達からたくさんのことを学びました。中学1年生からこの賞に応募し続けた僕も、高校3年生になって後輩を教え導く立場になりました。中学生の皆さん、学び続けてください。書き続けてください。過去から綿々と受け継がれてきた文学の潮流は、あなたたちを待っています」
優秀賞を受賞した2年生の男の子は、緊張した面持ちで、受賞した喜びを語った。次は私の番。拳をぎゅっと強く握りしめる。
隣からマイクを渡された。
咳払いをしてマイクに向かい、言葉を考える。
「あ」とか「えっと」しか出てこない。
視線を感じてそちらを見ると、中村が「思ったことを話せ」とアイコンタクトを送っていた。私はそれにうなずくと、もう一度咳払いをして、壇上の下を見る。
「緊張しています。こういう場には、あまり慣れていないので」
どっと笑い声が広がる。
「『
照明に照らされた壇上で、私は一人言葉を踊らせる。
「ここにいる方々は皆、優れた文学的才能の持ち主だと思います。まさに、『麒麟児』だと」
「そこで私は思うのです」と続ける。
「皆さん、『麒麟』を見たことがありますか? ……いえ、本物ではなく、たとえです。皆さんに、互いに切磋琢磨する友やライバルはいますか?」
その問いかけにちらほら手が挙がる。
「彼ら、もしくは彼女らは、あなたたちにとっての『麒麟』だと思います。『麒麟』を見たことがある人はとても幸運な人だと、私は思うのです」
中村に対する櫻井、櫻井に対する中村といったように。
「私は『麒麟』を見たことがあります。その『麒麟』は『麒麟児』でした。私はその才能に負けるのが怖くて、心を折られるのが怖くて、勝負に挑むことすらしませんでした」
中村と櫻井の才能を肌で感じて、「好き」なだけでいい、と諦めた。
「『麒麟』の才能を目の当たりにして、ときには心が折れそうになることがあると思います。けれど、『麒麟』はあなたの道しるべとなるはずです。つまり、言いたいのは……『麒麟』を見つけてください。以上です」
――ああ、こんな単純なことだったんだ。
一礼をして、マイクを隣に譲り渡す。
佳作を受賞した女の子は戸惑いながらも口を開いた。
大学生部門の表彰も終わり、懇親会が始まった。ビュッフェ形式で行われ、私たちのテーブルには入れ替わり立ち替わり人がやってくる。ほとんどが中村目当ての人だったので、私は抜け出して、食事を取りに行く。
ローストビーフに、ローストポーク、チキンもある。寿司もあるし、ごちそうと言われるものはほとんどここにあるような気がする。
色とりどりのケーキが宝石のように飾られている。バケツをひっくり返して作ったような、大きいプリンもある。
自分の分だけ持っていくと文句を言われそうなので、中村の分のケーキを持って、テーブルに戻る。私が皿に載せるものを吟味しているあいだに、テーブルの人波は落ち着いていた。
中村が「俺のは?」と案の定訊いてきたので、目の前にケーキばかり載せた皿をサーブしてやる。ついでにフォークとスプーンも置く。珍しく殊勝な態度で「ありがと」と言ったので、つい口をあんぐり開けてしまった。
中村は「なんだよ」と不機嫌そうに口を尖らす。私の開いた口にスプーンを突っ込むと、自分はそのままレアチーズケーキにフォークを突き立てた。
甘い。ねっとりとした濃厚な卵の風味に、ほろ苦いキャラメル。
プリンだ。
吐き出すのは失礼と思って、ごくりと呑み込む。
「私が甘いの食べらんないの知ってるくせに……!」
思わず背中をばしんと叩けば、中村はむせた。
気道に何かが入ったらしい。
「何すんだよ、ボンジン!」
中村は恨めしげにこちらをにらみつける。
彼は私を『ボンジン』と呼ぶ。
「うるさい、『キリンジ』!」
ならば、私も線を引いてやるのだ。
『凡人』と『天才』、『ボンジン』と『キリンジ』。
大した違いはないかもしれないが、それでも。
「私はいつかあんたを超えてやる! あんたが死ぬまで地の果てまで追いかけて、そして追い抜いてやる! 首洗って待ってろ!」
自分を『天才』と信じて疑わない、傲慢な男。
『麒麟』を失い、迷子になった、孤独の皇帝。
それはひどく腹立たしい。
自分より上がいないと思い込んでいるのにも腹が立つし、周りを見ようとしないのにも腹が立つ。
だから、私は彼の『麒麟』になる。
ライバルにはなれないかもしれない、友にすらなれないかもしれない。
けれど、蹴落とすと宣言することはできる。
「『キリンジ』はいつでも勝つんだろうけど、『ボンジン』だって負けないことはできるんだから!」
『キリンジ』はぽかんとしたあと、「やってみろ!」と笑った。
ようやく言えた。
そんな気がして、目の前が晴れた。
キリンジ・ボンジン ヤチヨリコ @ricoyachiyo0
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