3
季節は巡り、もう一度夏がやってきた。
私たちは2年生となり、文芸部には二人の1年生が入部した。
どちらも男子だったので、女子は私と遠藤さんの二人だけのまま。たまに可愛い後輩女子と楽しく文学談義に花を咲かせる妄想をすることもあるが、別に後輩男子が可愛くないわけではない。
あるとき、何故この学校に進学しようと思ったのか、という話題になったときのことだ。
「オレ、中村先輩の白眉文学賞の受賞作を読んで、『この人、同年代なのにすごい小説を書くなあ』って思って、憧れて、それで志望校をここにしたんですよね」
「ボクも、櫻井先輩の受賞作を読んで、『こういう作品を書く人はどういう人なんだろう』とは思いましたね」
昨年の白眉文学賞で、中村は最優秀賞を、櫻井は優秀賞を受賞して、ホームページに作品と名前が掲載されたのだ。
二人は「だけど」と付け加える。
「ボクァ、作品からうかがえる作者像と実際の作者がずいぶん違って驚きましたよ」
「そうそう。なんだろうな、作家先生みたいなのを期待してたら、全然違ったよな」
たしかに、中村と櫻井に関してはそうだろう。
私もうんうんと首を縦に振る。
中村は「期待したおまえらが悪い」とうんざりしたような顔で吐き捨てる。櫻井はそう言われるのは慣れているらしく「ごめんね、こんなで」とまったく悪びれずにそう言った。
「中村先輩は中学生部門でも最優秀賞を受賞されてるんですよね。しかも、2回。惜しくも最優秀賞受賞を逃した年も、優秀賞を受賞されてるし、すごいなあ」
中村は得意げに鼻を鳴らす。
「けど、すごいのは俺だけじゃない。このヒデだって、中学の3年間、ずっと入賞し続けてるんだから」
ヒデ、というのは櫻井のことだ。
櫻井の下の名前は
中村が櫻井の話題を出したことで、後輩二人は首をかしげて顔を見合わせる。
「けど、5年前の白眉文学賞のホームページに櫻井先輩の名前は載ってませんでした。3年間入賞してたら、載ってるはずですよね」
5年前。
となると、中村と櫻井が中学1年の年か。もちろん、私も中学1年生だ。
同じ年、私は何をしていただろう、と記憶を遡る。
後輩のうち一人が中村に反論すると、中村は「そりゃそうだ」と苦々しい口ぶりで答えた。
「ホームページには、最優秀賞と優秀賞の受賞者の名前しか載らないからな。これで1位、2位ってわけ。中学、高校、大学って部門が色々と別れてるから、受賞者全員の名前を載せるわけにはいかないんだろ」
そう言う中村の口調には、不愉快そうな心持ちが
「けど、毎回毎回入賞するっていうのは、なかなかできることじゃない。佳作に選ばれるのだってそうそうないことだ。その点、櫻井は3年間ずっと入賞し続けてる。これをすごいって言わないで何て言うんだ?」
本心から語った言葉なのだろうが、嫌味にしか聞こえない。
3年間ずっと入賞し続けているのは中村も同じで、櫻井の奨励賞より、中村の最優秀賞、優秀賞のほうが賞としては大きいのだ。なのに、「すごいのは俺だけじゃない」というのは、その前に「俺のほうがすごいけど」と言いたげに聞こえる。見下しているとしか思えない。
場の空気がピリリと張り詰める。
櫻井はここまで馬鹿にされて、何も思わないのだろうか。ちらりと彼のほうを見ると、いつも通りの感情の読めない顔をしている。ポーカーフェイスというより、顔かたちの作りがそういう雰囲気を生んでいるのだろう。
「まあ、私も
櫻井がそう言い切ったことで、場の緊張が一気にほぐれた。
私はそんな櫻井に不満を持った。反撃すればいいものを、どちらもすごいと言ってあやふやにした。これじゃ、中村に馬鹿にされてもいい、中村より「下」でいいと、そういうようにしか受け取れない。
何より腹立たしいのは、中村や櫻井の態度が癪に触っているにもかかわらず、割って入って庇い立てすらできない自分自身の傍観者的スタンスだ。
部活の前に買った、ペットボトルの水はぬるくなっている。
冷蔵庫に入れておけばよかった、と後悔した。
チャイムが鳴るのと同時に、顧問の津島先生が部室に入ってきた。
「はい、帰って帰って」
いつもより早い登場に、不満の声がそこかしこから聞こえる。
いや、たしかに早い。いつもは下校時間ぎりぎりまで見逃してくれているのに、今日は部活動終了のチャイムが鳴ると同時に来た。
「今日、職員会議だから。本当だったら今日は部活ないんだから、文句言わないの」
そういうことなら納得した。
うちの部がこうやってなんだかんだで色々と融通が効くのは、多少緩くても結果を出しているからだろう。
「あっ、平野さん」
荷物を鞄に詰め込む手を止め、津島先生のほうを見る。
もしや、何かやらかしただろうか。
すると、分厚く、ずっしりと重い茶封筒が手渡された。
「前に頼まれてた原稿、赤入れしといたよ。それから、1作ずつに感想と、全体には総評を書いといた」
「ありがとうございます」と頭を下げたあと、封筒を受け取る。
「太宰チャン、ボンジンの原稿なんか読まないで、俺の読んでよ」
中村が口を尖らせて抗議する。
『太宰チャン』というのは中村が津島先生につけたあだ名だ。
太宰治の本名が津島修治で、津島先生と一字違いだから、らしい。らしいというのは、そこのところをよく知らないからだ。
「やだよ。中村くん、ちょっと添削しただけでいちいち凹むんだから。平野さんはどんなに赤入れたって心が折れないから、やりがいがあるんだよ」
「ちぇっ、ひいきでやんの」と不機嫌そうに呟いて、中村はそれ以上何も言うことはなかった。
各々帰り支度を済ませ、津島先生が部室の鍵を閉めたあと、櫻井に声をかけられた。封筒の中の原稿を読みたい、とのことだった。最寄り駅も同じだし、この後特に用事があるわけでもないので、「いいよ」と答えた。
二人でファミレスに入って、ドリンクバーを注文した。櫻井が原稿を読んでいるあいだは暇なので、今日出された課題を終わらせてしまおうと、ノートを広げる。
途中途中で私が離席しても、櫻井は熱心に原稿を読み込んでいた。時折、何故こういう展開や表現にしたのか、と私に尋ねることがあったが、それ以外は黙々と読書に
原稿用紙300枚分を櫻井はさらりと読み切った。と言っても、全部が全部、同じ作品というわけではないし、長くても1作50枚程度だ。文字数換算だと2万字くらいだし、小説を書く人間だったらそれくらい普通に書いてしまう量のはずだ。
「これ、書くのに何ヶ月かかった?」
「だいたい1ヶ月くらいじゃない? 気にしたことないからわかんない」
それを聞いた櫻井の顔がややこわばる。
「でも、櫻井もこれくらい簡単に書くでしょ」
櫻井だって、津島先生や中村に作品を見せて感想をもらったり、遠藤さんに校正してもらったりしているのを、私は知っている。そうして、もうこの表現以外あり得ないとなるまで、改稿しているのも。
それに、以前プロットを見せてもらったとき、その綿密さに驚いた。
櫻井は「いや」と言いかけて、やめた。
「……どうして、書き続けられる? 前に、諦めたって言ってたじゃないか」
諦めた? ああ、前にそんな話をしたか。
「だって、書くのも読むのも好きだもん。自分が読みたいのを書いてるだけだよ」
自分で言っていて、ああ、私は好きなんだな、と気づく。書くのも、読むのも好きだと、そうでなければ、続けてなんかいられない。
「でも、先生に見せてるだろ。それって、好きってだけじゃないんじゃないのか? それ以上の、何かがあるだろ」
「いや、好きで書いてるだけだからさ。逆に気負わず見せられるっていうか……そういうかんじだよ。『好き』以上にない」
自分でも苦しいと思った。櫻井の求めている答えではない。それが、なんとなく彼の表情から察せられた。
櫻井は「そっか」と言って黙り込んだ。
櫻井の持ってきたオレンジジュースは、氷も溶けて結露で濡れている。
スマホを見ると、門限の時刻が近づいてきていた。
「私、帰るね。お金は置いてくから払っといて」
櫻井に断って、先に席を立った。返事が帰ってこなかったので、無言を肯定と受け取り、店を出た。
外に出ると、日が暮れかかっていた。
10月31日。世間はハロウィンで賑やかだ。
だが、中村と櫻井、それから私は、津島先生により職員室へと呼び出されていた。
私たちの顔を見ると、先生方が「おめでとう」と言うので、仔細を知らない私はあたふたしてしまう。中村と櫻井は、ここにいるのは当然だというようなすました顔をして、雑談に興じていた。
しばらくしてから、津島先生が来て、「おめでとう」と切り出した。
「中村くんは最優秀賞、平野さんは優秀賞、櫻井くんは奨励賞を受賞……。おめでとう。私も鼻が高いよ。まあ、私は何もしてないんだけどね。今回の受賞は三人の実力によるものだと思います。本当におめでとう」
私が、優秀賞。
あたりをきょろきょろ見渡す。聞き間違いだと思った。
「今年もヒデが2位だと思ってたんだけどな」
中村は拗ねたような声を出して、不満げに口を尖らす。
「私も、そう思ってたよ」
櫻井は無理に笑おうとしているのか、その口にたたえた微笑は引きつっているように見えた。
「なんでボンジンなんかに負けんだよ。俺、おまえにだったら負けてもいいって思ってたんだぞ」
今にも掴みかかりそうな勢いで中村が怒鳴る。「創作の世界に勝ち負けはないよ」と津島先生が宥めようとするが、それでも中村は止まらない。
「けど、作品の出来の優劣はありますよね」
そう言った櫻井の声は冷え切っていた。
いつになく感情の読めない顔をしている。
「私の作品のほうが劣っていた。だから、負けた。それだけだよ」
能面のような顔でそう言い切ると、櫻井は黙って出ていった。
去っていく背中に向かって中村が「おまえは俺のライバルなのに」と言ったとき、櫻井は一度振り返って中村のほうを見て、くすりと笑った。
それは中村に向けた嘲笑だったのか、自分に向けた自嘲だったのか、私にはわからないけれど、その笑みには諦めの色が浮かんでいた。
「おめでとう」と言われたとき、胸に湧いて出たのは歓喜だった。
白眉文学賞には、先生に「これ、いいね」と言われた作品を応募した。
あのとき、私の小説を読んでみたいと言った先生が、いいねと言った作品だ。読者がこれが好きだと言った作品だ。
それを評価されて、嬉しくないわけがない。
――だが、その裏に後ろめたさがあった。
本来は櫻井がとるべきだった賞のはずだ。
努力を重ねた天才に私が敵うわけがない。
私の『好き』は天才の『努力』に劣るはずだ。
いや、そうでなくてはならないのだ。
そうでなくては、私が諦めた意味がない。
堰を切ったようにとめどなくあふれ出そうになる言葉を、つばといっしょにごくんと呑み込んで、「ありがとうございます」と、社交辞令で返した。
授賞式には、津島先生の引率で三人揃って出席した。
中村と櫻井の様子は一見すると普段と変わらないようだった。だが、職員室でのやり取りを見ていたから、逆にそれが不穏に思えた。
「中村くんの作品は毎年素晴らしい。毎年、最優秀賞にするのは
審査員の一人が懇親会のときにそう話していた。
「櫻井くんの作品も素晴らしいんだが、毎年、最優秀賞には一歩及ばないねえ。文章も上手いし、良い作品を書くんだが、何かが足りない」
「今後とも精進いたします」と言って、櫻井はにこやかに対応していた。
審査員は毎年受賞する中村と櫻井に親しげな態度で接し、帰り際、私に「二人をよろしく」と言った。二人の良い刺激になっておくれ、と。二人の踏み台になれと言われたような気がした。
授賞式の翌週、櫻井は文芸部をやめた。
中村すらも知らなかったらしく、津島先生の胸ぐらを掴んで仔細を問いただした。だが、先生は首を横に振るばかりで櫻井の事情を話すことはなかった。
校内で櫻井を見かけることはあったが、声をかけることはなかった。私と櫻井の接点といえば部活だけだし、それがなくなった今となっては話す理由も意味もない。
関わらなくなっても互いに日常は続くのだ。
時折、櫻井のことを思い出しては、忘れようとする。忘れよう、忘れようと考えるたび、頭の中の櫻井の姿は明瞭になっていく。
それは、まるで恋だった。
違うとわかっていても、否定はし切れない。
頬に集まる熱を冷まそうと、アイスコーヒーを一口飲む。この冷たい苦みが、私の心を落ち着かせる。
――だけど、恋ではないはずなのだ。
放課後、部室に向かう途中。廊下で誰かとぶつかった。
ぶわりと香る、制汗剤のかおり。
それは、櫻井のものと同じだった。
彼の学ランの袖を掴んで、「待って」と叫ぶ。
彼は私の目をじっと見て、何も言わずに立ち去ろうとした。
櫻井、と名前を呼ぶと、彼は観念したように、「平野」と呟いた。
階段下の空白地帯に、二人して寄りかかる。櫻井の長い髪が、私の肩にかかる。
私が「元気そうじゃん」と軽口をたたけば、「おかげさまで」と返す。何往復かそういうやり取りをしたあと、櫻井はほっとため息を漏らした。
「部活やめた理由、訊かれると思ってた」
「別に。訊いたってどうせ話さないでしょ」
櫻井は苦笑する。図星のようだ。
「私、あんたに謝りたかったの」
眉をひそめて、櫻井は「謝る?」と首をかしげた。
「私なんかの『好き』で、あんたの『努力』を汚しちゃった」
一息にまくしたてた。最後のほうは、声が裏返ってしまった。
なんだか恥ずかしくなって、櫻井から視線をそらす。
「ただ、それだけ。それだけ謝りたかったの」
言うだけ言って逃げようとした。
だけど、今度は櫻井のほうがそれを許さなかった。
「言い逃げなんてズルいよ」
その声色には穏やかな響きがあった。
「私の話も聞いてくれないか」
櫻井はゆっくりと話し始めた。
***
ずっと、頭上に中村の存在があったのだという。
中学1年。
中村優、優秀賞。
――櫻井秀俊、奨励賞。
中学2年。
中村優、最優秀賞。
――櫻井秀俊、優秀賞。
中学3年。
中村優、最優秀賞。
――櫻井秀俊、優秀賞。
どれだけ頑張っても勝てない。
授賞式で顔を合わせる、いつも不遜な態度の同級生。
彼は、天才だった。
高校に進学したら、文芸部に入部しようと思っていた。
だが、進学先にはあの天才がいた。
高校1年。
中村優、最優秀賞。
――櫻井秀俊、優秀賞。
あの天才には、もう勝てない。
だけど、諦めることはできなかった。
自分のことを、天才は「
彼と肩を並べるため、櫻井はより一層努力を重ねた。
彼に失望されたくなかった。
いつしか櫻井は中村に奇妙な友情を感じるようになっていた。
高校2年になったとき、状況は一変する。
中村優、最優秀賞。
平野かなえ、優秀賞。
――櫻井秀俊、奨励賞。
自分と中村のあいだに、自分たちが「ボンジン」と蔑んだ女子生徒が座ったのだ。
***
「それが、君」と、櫻井は私に指をさす。
「もう敵わないって思ったんだよ」
敵わない、というのは私の台詞のはずだ。
『ボンジン』の私の台詞を、『天才』の片割れが口にする。
「天才にはもう勝てないって、気づいたんだ」
櫻井の口ぶりには、どこかふっきれたようなものを感じた。
「私も中村には勝てないよ」と芝居がかった口調で口ずさんでみる。
「君が『諦めた』って前に言ってたの、今でも覚えてる。結局、私は諦めきれなかった。どれだけ頑張っても中村には勝てない。いつしか、彼の友でいるために書いていた。君みたいに『書くことが好き』ではいられなくなった。……だから、文芸部をやめた。小説を書くのも」
櫻井の目に、ふっと懐かしさのようなものが浮かんだ気がした。彼が瞬きをするとそれは消えてなくなった。
「それとね」と櫻井は付け加える。
「君みたいに『好き』でい続けること、それも才能の一つだと思う」
私の「好き」はそう大層なものじゃない。天から与えられたギフトのようなものでも、努力で身につけたものでもない。ただ、勝つとか負けるとか、勝負の世界に身を投じて、負けて悔しい思いをしたくない、そのためだけの言い訳だ。
私が「そんなことない」と言いかけた、そのとき。
「君みたいな人を『天才』と呼ぶんだろうな」
櫻井は何気ない口ぶりで、私を『ボンジン』ではなく、『天才』と呼んだ。その瞬間、はしごを外されたような気がした。
日が暮れかけて、世界は群青に染まっていた。「じゃ、また」と手を振る櫻井は、まるで消えてしまうんじゃないかと錯覚するくらい、寂しげだった。
外の防災無線で、「夕焼け小焼け」が流れている。
私は、「またね」と口にしていた。
また、がいつ来るのかもわからない。
卒業するまでにあるか、それとも今日が今生の別れになるか。
そんな妄想が頭をよぎる。
ぶんぶんと首を横に振って妄想を振り払う。
櫻井は「また」と言ったのだ。
いつになるかわからないけれど私はそれを待とうと思う。
「また」の機会をつくる勇気は、臆病な私に阻まれて、はっきりとしないまま夕暮れの中へ消えていった。
結局、入学前のオープンスクールで見た、あの花の名前を知ることはなかった。あの花は根腐れを起こして、枯れてしまったのだという。
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