2
入学して数ヶ月が経ち、季節は夏。
部活は文芸部に入った。
それ以外の部活には入れなかった、とも言えるけれど。
他の部活、特に文化部は、執筆活動以外やったことがない私には厳しすぎるほど、ハードだった。厳しいとハードで「頭痛が痛い」みたいな表現になってしまったが、要は、それほどまでに部員も顧問も熱心なのだ。
別にその選択に後悔はしていない。
だが、入部して以来、ずっと思っていることがある。
「騙されたっ」
拳を大きく振りかぶり、思い切り机を殴った。そのまま衝撃が戻ってきて、手が痺れた。
「馬鹿じゃん」
「馬鹿だろ」
じんじん痺れる手をさすりながら、「馬鹿」と言った二人をにらみつける。その二人、
この中村と櫻井のせいだ。私の青春の行く末が決まったのは。
***
体験入部の際、私たち以外にも人がいた。執筆経験の有無を問わない、とあったから、楽そうだと思って来た未経験者もいたのだと思われる。
櫻井が言うには、津島先生目当てで来た女子生徒もいたんじゃないか、とのことだったが、私はそんなことはないと思う。たしかに遠目で見たら色男だとは思うが、ずっと顔を突き合わせていたら3日で飽きる顔だ。まあ、それは中村も櫻井も同じだが。彼らの場合、本性を知れば幻滅するタイプの美形である。
私は、先輩に教わり、同級生と競い合い、後輩には教える、そんな未来予想図を思い描いていた。仲間と切磋琢磨し合い、研鑽を積むのだと。
――だが、違った。
津島先生曰く、昨年の卒業生以外に部員はいないのだという。そのため、先輩はおらず、この先も部が存続していけるかはわからない。部を存続していくために、君たちの世代には結果を出してもらわないといけない。
「それでも、入部したいという奇特な人だけ残ってください」
津島先生は、そう言ってにこにこ笑っていた。
笑いごとではないような気がするが、まあ、いい。
後ろのほうで立ち上がる音がして、がらがらと扉が開く音がした。一人の足音に続いて何人もの足音がして、終いには部室にいる人のほうが少なくなってしまった。
「いいじゃん、やってやるよ」
真後ろから、声が聞こえた。
声のするほうから手が伸びてきて、私の肩を抱く。
「こいつも残るってよ。もちろん、俺らも残る」
振り向くと、眼鏡をかけた男子生徒が、私と、長髪の男子生徒の肩を抱いていた。そのさらに後ろでは、女子生徒が挙手をして、「あたしも残ります」と妙に間延びした声で言っていた。
津島先生はパンと両手を叩いて、「ありがとう!」と叫んだ。そして、残った一人ひとりの手を握って、「ありがとうありがとう!」と嬉しそうにとめどなく喋った。
私の番が来たとき、先生は私の顔をじっと見て、「君の小説を読むのを楽しみに待ってたよ」と目を輝かせた。
私の青春のハイライトは、正直ここまでだったと思う。
眼鏡の男子は中村、長髪の男子は櫻井という名前だと、自己紹介のときに知った。それから、私以外に残った唯一の女子は遠藤さんというのだそうだ。
中村と櫻井は天才だった。小説を書くのにも、詩を詠むのにも、彼らは優れた才覚を遺憾なく発揮した。
中村は情景を美しく描写する。一見すると人間味がないように感じられるほど、中村の描き出す情景は神秘的かつ美麗で、私たち俗人には思いつかない
反対に、櫻井は人間の心情を生き生きと描き出す。喜怒哀楽のようにはっきりとした感情から、誰もが持っていながら誰も名前を知らない、ぼんやりとした情緒的なものまで、櫻井の手にかかれば、あっという間に言葉として飲み込めるようになる。
かといって、私は特別文章を書くのが上手いとか、面白いアイデアが浮かぶとか、そういうのはなく、ただただ彼らの作品を読んで感心するだけであった。
私より上手いことやっていたのは遠藤さんだろう。遠藤さんは作品を読むのが抜群に上手かった。読むのに上手い下手があるか、という話になるかもしれないが、こと批評という点において彼女はずば抜けていた。訊いてみれば、将来の夢は編集者なのだという。
文芸部の中で、一番の凡人は私だった。書くだけでなく、読むのも上手いわけではないので、もはや、なんのために入部したのかもわからない。
ただ、書くのが好きで、読むのが好き。
それだけだ。私はそれ以外の存在価値を自分自身に見出していない。
いや、見出せなくなった、というべきか。
***
高校3年間、私は中村と櫻井より優れた作品を残すことはないだろう。そのことに関して、悔しいとも寂しいとも思わない。当然のことだからだ。
学園の前身となった学校の名前から、私たちの高校は「ハクビ」と呼ばれている。もちろん、「ハクビ」は通称なのだが、読みを同じくして「白眉」とも書けることに思わないことがないでもない。
辞書を引けば、
【はくび(白眉):同類の中で、特別にまさっている人や物。】
と、書いてある。
『蜀志(馬良伝)』の故事で、
結局、天に才を与えられた者には敵わないのだ。どれだけ努力をしようと、天才は凡人の努力以上のことを努力と思わないでやってのけてしまう。
どれだけ私が好きでいようと、好きでい続けていようと、才能のある人間には敵わない。努力した才能のある人間には、もっと敵わない。
「ハクビ」と書いたふせんをノートに貼り付ける。
「ボンジンもハクビに出すの?」
櫻井が横からノートを覗き込んできたので、閉じて中身を見られないようにする。
ボンジンというのは中村が私につけたあだ名だった。いや、蔑称と言ったほうが適切か。平々凡々の凡人。だから、ボンジン。名付けた中村だけでなく、いつの間にやら櫻井も私のことをそう呼ぶようになっていた。
言われなくてもわかっているつもりだったが、いちいち口にされるとムカついてくる。
距離が近い。整髪剤か制汗剤のにおいがかすかに香って胸がドキリとする。
櫻井の言う「ハクビ」とは、白眉文学賞のことだ。
学生の中から優れた文学的才能を持つ人物を発見することを目的に、わが校の母体、黛芸術大学(通称「マユ芸」)が主催する文学賞である。中学生部門、高校生部門、大学生部門の3つの部門があり、特に高校生部門では毎年熾烈な争いが繰り広げられている。
「出すよ」
櫻井のことを気にしていると悟られないように平生を装う。好きだとか嫌いだとか、そういうのを態度に出すとからかわれそうだから。
「じゃあ、私たち、ライバルだね」
櫻井のほうを見ると、唇の上に人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。どうせ佳作にすら入らないだろうに、とでも言いたげな微笑である。
ノートに、
「①最優秀賞
②優秀賞
③奨励賞
④佳作」と、書き込む。
この順位は白眉文学賞のホームページに書かれた順だ。上に書かれた賞ほど副賞が豪華であり、下に書かれた賞ほど扱いが小さい。特に①の最優秀賞と②の優秀賞は、ホームページに受賞者の情報と作品が、翌年には受賞者のインタビューが掲載される。
もちろん最優秀賞を受賞したいが、どうせ中村か櫻井がかっさらうだろう。優秀賞も同様だ。なので、私の目指すところは奨励賞受賞だ。
「どうせ天才サマには敵いっこないから、ほとんど記念受験みたいなもんだよ」
皮肉の意味も込めて、そう言い返してやる。
「そうそう。わかってんじゃん、ボンジンも」
中村が長い脚を組んでどっかりと座り、同意する。
「けど、その天才サマだって足元をすくわれるかもしれないよ」
私は顔をしかめる。
「そんなことあるわけねえじゃん」
中村はゲラゲラ笑う。
「もしかしたら、の話だよ」
私も皮肉っぽく、笑う。嘘でもその足元をすくうのは私だと言えなかった自分自身を笑っているのか、天才サマと呼ばれて、それにあぐらをかいて座っている中村を笑っているのか、自分でもわからない。
そんな自分が情けなくて情けなくて、たまらない。
「……飲み物、買ってくる」と立ち上がって、部室を出た。「俺のも」と言った中村の声が聞こえたが、聞こえなかったフリをした。
ぐすり、と
中村は、白眉文学賞の中学生部門で3年連続で入賞している。櫻井は、コンクールでの受賞経験から推薦をもらって、今ここにいると前に話していた。私はといえば、受賞経験もないし、一般受験組だしで、中村の言う通りの凡人なのだ。
その現実を無視して、おまえに勝つ、とは言えない。勝てないことがわかっているからだ。勝ち負けを持ち込むと、私は小説を書くことが好きではなくなるような気がして、何より自分自身が嫌いになるような気がして、言えなかった。
部活棟のエントランスに設置された自販機で、ペットボトルのコーヒーを買う。
キャップを開け、一口飲み下す。苦みと甘ったるい風味が口の中に広がって、思わず顔を歪ませる。ラベルを見れば、微糖、と書いてあった。ブラックだと思っていたのだが。思い込みとは怖い。
すると、後ろから手が伸びてきて、水のボタンを押した。その人物が購入した水を取り出すために腰をかがめたので、ようやく誰だかわかった。
櫻井、と名前を呼べば、彼は顔を上げてこちらをじっと見た。「なに?」と私が尋ねると、「別に」と答える。
「それとこれ、交換しようか」
櫻井が私の持っているボトルを指さして、言う。
「甘いの、苦手だったよね」
私、そんなひどい顔をしていただろうか。たしかに、一口飲んだときに顔をしかめたかもしれないが、まさかそれを見られていたのか。途端に気まずくなって、顔を背ける。
「うん。……口つけちゃったやつだけど、それでも大丈夫?」
「別にいいよ」
コーヒーを渡して、水を受け取った。
ちゃぽちゃぽとペットボトルの中で水が揺れる。
櫻井は「ん」と手のひらを出す。
「110円」
「金とんのかよ!」
ついついツッコミをいれてしまった。
櫻井は「嘘だよ」と舌を出して、笑う。コーヒーのボトルのキャップを開け、一口飲み下すと、ふふっと笑みをこぼした。
「よくよく考えれば、これファーストキスかも」
櫻井がぼそっと呟く。
「やめてよ、気持ち悪い」
「自分でも気持ち悪いと思った。見てよ、この鳥肌」
櫻井がシャツの袖をまくって、腕を見せてくる。
私が「ないじゃん」と言うと、「心の目で見てよ」と返してくる。
なんで心の目なんだよ。心の中でツッコミを入れる。それが、なんだかツボに入ってしまって、笑いが止まらなくなった。
櫻井は私の背中をさすって、「元気になった?」と訊く。
「さっき、変な顔して部室出てったからさ」
顔を触って、そんな変な顔をしていたかと考える。
「どうしたの、思い詰めたような顔してさ」
櫻井の問いに対する答えは、部室で話したことですべてなのだから、答えようがない。もう一度同じ話をしても納得してもらえないだろうし。しばし、黙考する。
「天才には敵わないってわかっちゃったからかな。なんていうか、この先、どれほど頑張っても、天才には勝てない。そういうのが、この数ヶ月で理解できちゃってさ」
思ったことをそのまま、ぽつぽつと語る。
「だから、私は勝とうと思わなければ、苦しくないって……。まあ、つまりは諦めたの」
櫻井が「諦めた?」と怪訝な顔をする。
「諦めた。だけど、諦めた瞬間っていうのが、苦しくってさ。強がりでも勝つって言えればよかっただけど、それが言えなかったのが苦しかった。けど、不思議と悔しくなかったんだ。それで……ああ、これが諦めるってことなんだって」
ペットボトルをぐしゃりと握る。
ボトルの中の水が夕日に照らされて、オレンジジュースみたいだ。
「私はこれでいいんだよ。これがいいの」
下校を促すチャイムが鳴る。
陰影のせいで、互いの表情が読めない。
私が「これでいい」と言ったとき、櫻井はどんな顔をしていただろうか。
11月になった。
わが校では大半の学校と同じように、11月の文化の日に文化祭を開催する。文芸部もブースを出して、文芸部誌を配布する。
文化祭当日、中村と櫻井は学校に来なかった。
遠藤さん曰く、サボりじゃないかとのことだったが、私もそう思う。
後日、遠藤さんと二人がかりで、中村と櫻井を問い詰めたら、白眉文学賞の授賞式に出席していたからいなかったのだと、白状した。
それを聞いたとき、ああ、やっぱりと納得した。
中村と櫻井ほど才能がある人を、私は知らない。もちろん、プロの作家とか、文豪と呼ばれる人たちとは、比べ物にならないほどの腕ではあるのだが、努力をして、研鑽を、人生経験を積めば、そういう人たちとも肩を並べられるようになるのではないか、とそう思っている。
やはり、努力をした天才には敵わないのだ。
中村も櫻井もそんな素振りは見せやしないが、きっとかなりの努力をしているのだろう。それを努力とも思わずに。
だから、好きなだけでは到底太刀打ちできないのだ。
なのに、何故だろうか。
胸から湧き上がる気持ちがある。
痛いほど辛くて苦しいそれの名前を、私は知っている。
言いようのない涙が、頬を伝う。
だけど、私はその感情を見ないふりして、心の奥底にしまい込んだ。
そういえば、入学前に一度見た、あの花の名前はなんだったのだろう。
そんなことを思い起こしてみたものの、すぐにどうでもよくなった。
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