咀嚼音(4)~遺されたもの
秋になって、彼はぽつりと「孫が生まれました」と言ったんです。
嬉しい報告のはずなのに、どこか悲しそうな声でね。
「娘が、写真だけ送ってきてくれました。LINEで。でも……それだけで、声も聞いてないんです」
それから少しして、ぽろっと言ったんですよ。
「……カミさんとは離婚しました。孫が生まれてすぐに、離婚したいって言ってきたんです。その時なんとなく、全部が終わった感じがしてね」
まるで荷物を降ろしたというより、自分の一部をちぎったような表情で。
彼は、そのときもう“距離の取り方”に慣れようとしていたように見えました。
これが、もう精一杯のつながりなんだろう”って、自分に言い聞かせるように。
私は、ただコーヒーを注ぐしかなかった。
。。。
彼の訃報を聞いたのは、昼下がりだった。
街中イルミネーションが輝き、店のクリスマスツリーを飾った日だった。
カラン、ってドアが開いてね。
見慣れない女の人が入ってきた。
年のころは五十前後。
少し緊張した面持ちで、「アイスコーヒー、ブラックで」と注文してきた。
私はいつものように無言でうなずいて、氷を落とす音だけが店内に響いた。
。。。
コーヒーを出してから少しして、彼女が声を低くして言った。
「この店に、〇〇って人……来てませんでしたか? 身長170くらいで、スーツの……」
その名前を聞いた瞬間、手が止まった。
「ああ……あの方のことですね」って、思わず素で返してしまった。
。。。
彼女は、彼の会社の元同僚だった。
家族とは連絡が取れてないらしく、遺品整理や連絡の一切を担っていたそうだ。
「遺品の中にレシートがあったんです。店名が珍しかったから……何か残していったのかな、って」
そんなふうに言われた。
たしかに、彼はこの店に何かを残していった。
“言葉”を。空気を。沈黙を。
。。。
「一枚のメモがありました。“消えます”って。それだけ」
彼女はそう言って、ストローで氷を軽くつついた。
“消えます”。
たった四文字のはずなのに、背中がぞくっとするくらい重たかった。
“消えます”って、静かな言葉だけど、実際はとても強い行動だ。
誰にも相談できないまま、そっと自分を終わらせる覚悟が、そこにあったんだと思う。
。。。
私はふと、彼がいつも座っていたカウンターの隅を見た。
誰もいないそこに、何気なくもう一つカップを置いてみた。
洗い終わってたやつだけど、わざと出して、何も注がずに、ただ置く。
それで、ちょっとだけ、彼がまだそこにいるような気がした。
。。。
「娘さんには、何も書き残していなかったんです。連絡もなかった」
そう彼女は言った。
でも、たぶん……それが彼なりの最後のやさしさだったのかもしれない。
“もう苦しめたくない”という思いが、言葉を封じた。
けれどその沈黙が、かえって深い傷になることもある。
難しいよね、ほんと。
。。。
私にできることなんて、ほとんどない。
ただ、彼の沈黙を預かった気がする。
あの音をたてずにトーストを食べる姿も、あのコーヒーを飲む仕草も。
全部、ここに置いていったような気がしてならない。
。。。
『不・純喫茶 幻』って、そういう場所なんです。
現実には存在しない。だけど、確かに誰かが来て、
ここに“なにか”を置いていったっていう手応えがある。
それが形じゃなくても、言葉じゃなくても、ね。
。。。
さて、そろそろ閉めるか
また、開いてたら寄ってってね。
不・純喫茶~幻 銀の筆 @ginnopen
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