咀嚼音(3)~音のない食事

 それから彼は、ほぼ毎週のように「幻」に来るようになった。


 だいたい夕方の手前、まだ明るさが残ってる時間帯に、あのスーツ姿でふらりと現れる。


「コーヒー、ひとつ」


 口数は少ないけど、なんとなく、この店を気に入ってくれてるように感じた。


。。。


 何度かね、こっちから「カレーとか、ナポリタンとかどうです?」って聞いてみたんですよ。


 この店、喫茶店にしてはけっこう食事メニューがしっかりしててね。


 でも彼は、いつもやんわり断ってきた。


「すみません、ちょっと……音が、気になるんで」って。


 はじめは意味がわからなかったけど、すぐに気づいた。あの件以来、彼は“咀嚼音”に過敏になっていた。


。。。


 唯一、彼が受け入れたのが“トースト”。


 それも、普通にかぶりつくんじゃなくて、小さくちぎって、ひとかけずつ口に入れる。


 で、それをコーヒーでそっと流し込む。


 とにかく、音を出さないように。


 まるで、何かを祈るように静かに食べていた。


「食事って、こんなに気を遣うもんでしたっけね」って、ぽつりと笑ったことがあった。


 でもその笑いに、ぜんぜん軽さはなかった。


。。。


 他の客がいない時間に、ふたりだけの空気の中で、 そのトーストを口に運ぶ彼の手の動きを見ていた。


 静かで、ていねいで、ある種の“儀式”みたいだった。


 まるで、「もう誰も傷つけませんように」って思ってるかのような。


。。。


 人って、自分が誰かを傷つけたと知ったとき、 その“音”まで嫌いになることがあるんだろうな。


 それくらい、彼は娘とのあの出来事に傷ついていた。


“クチャクチャ”の音ひとつで、父と娘の距離が、どうにも埋められなくなる。


 ほんと、些細なことのようでいて、深い。


。。。


 私はその日も、トーストとコーヒーをカウンターに静かに置いた。


 それが、彼にとっての“最後の安心”だったのかもしれない。


 今思えば、だけどね。





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