第2話

冬の夜は私の知らない世界だった。暗闇の中に見慣れた家々や昼には風に唸りあげる電柱が素知らぬ顔をして佇んでいた。私は雪が家々電柱を覆い確かな質量で閉じているのを見た。私は守られていない、という実感を持ち、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、胸を張った。そして、かんかんかんかん当たり任せに棒を叩いて、私は喜びを表現した。しかし私の木の棒は想像を超えるような魅力的な音を奏でてはくれなかった。カラカラと乾いた音に私はがっかりした。

「火の用心」

父が低い声を張って言った。そして落ち着いた悠々とした手振りで棒を打った。かーんと木の音は間延びして雪に吸い込まれた。私はその音色に魅了された。私は自分の棒を握り直した。息を吸い込んで父のように片腕を精一杯前に伸ばし、もう片方の腕を振りかざして優雅に相方に巡り合わせた。かーん、と音は間延びした。そして音は雪に吸い込まれていき、あたりはまた静寂に包まれた。しかし私はその時雪の降る音を聞いた。しんしん、なのだ。雪の降る音はしんしんだ。しかしそれも滲んで聞こえなくなった。もう一度木棒を打ち鳴らす。かーん…しんしんしんしん……かーん…しんしんしん……。聞こえているという実感を持ってからも私はその掛け合いに耳を澄ました。私はうっとりとして温かい音で暖を取った。父はこちらを見て目を見張り、やはりゆったりと感心するように笑った。

「ええ音を出しなるなーあ」

父に褒められ気を良くした私はまた緊張した面持ちで棒を鳴らした。父はまた前を向き棒を打ち鳴らし、悠々と歩み始めた。父はまるで平安の納言のようで私も急いで真似してゆったりと歩みを進めた。

「火の用心、マッチ一本火事の元」

父はまた低い声で言った。叫んでいるわけではないがよく通る声だった。父の声は妹を通り父のはんてんを通り、絶え間ない雪を通って私の赤くなった耳をしっかり震わせた。雪の寒さは耳を敏感にするらしい。

「なんやそれ」

火の用心は家の中で飽きるほど聞いた。私はそのたびに耳を布団で塞いでいたので火の用心に続きがあることを知らなかった。

「冬は空気が乾いとるで火の用心をせんなん。マッチ一本でも大火事になるでって教えとるんや」

父がそう答えるのに、私はなぜ空気が乾いていると火事が起こりやすくなるのかわからなかったがそれを聞く時間も惜しいので、こわいなぁ、とだけ相槌を打った。私はそれよりその火の用心の掛け声を言いたくて言いたくて仕方がなかったのだ。

「ひのようじんっ」

父のように低い落ち着いた声ではなくきんきんとした甲高い声であったが、ずっと家で聞くだけだった火の用心を初めて口にして私は満足していた。私は嬉しさにまた棒をかんかんと打ち鳴らした。音色が戻っていることに気づき、深呼吸してまたゆったりと棒を叩いた。かーんという間延びした音が鳴り更に私は満足した。

「ひのようじんっ、マッチ一本…何やったっけ」

私は火の用心に囚われすぎてその後の口上をすでに忘れてしまっていた。

「ははっ、ええで。ゆまは火の用心だけ言うて」

父から助けが出たことにほっとして、しかし少し前を行く父の背中の妹を見て、全部言わなてはいけないともう一度挑戦しようとしたがやはり思い出せないのでやめた。

ひのようじんっ、かーん…しんしんしん……

ひのようじんっ、マッチ一本火事の元、かーん…しんしんしん……

私は病院までの道中、自分と父と木の棒と雪が奏でる音の掛け合いを目一杯楽しんだ。

家から真っ直ぐ歩いて二回曲がってまた真っ直ぐ歩くと病院に着く。なんだ冬の夜も全然怖くないではないかと思って、達成感やら自信やらで鼻を膨らまし勢いよく息を吐いた。病院といっても一軒家の診療所である。医者と看護師の老夫婦が昔からやっていて町の人達からの信用も厚く、自宅兼診療所には日中人が多く尋ねていた。自分の家と同じ木張りの家だが玄関の扉がガラスであるところが違った。父はそのガラスの戸を二回叩いた。家の木の扉より高く短い音が鳴った。はーい、と直ぐに奥から聞こえガラスの戸を開けて老夫婦が出てきた。年齢はわからないが小さいときからお世話になってる二人はずっとお爺さんとお婆さんという印象だった。

「夜遅くにまたえろうすいませんなぁ。ゆみがまた熱出してしもうて」

そう言って父は妹が老夫婦に見えるように体を傾けた。妹は家を出るときより頬が赤くなっている気がした。

「まぁまぁ、ゆみちゃん。またえらい熱やなぁ」

お婆さんが寒そうに手をもみくだしているのをやめて、妹のおでこに手を当てた。

「また薬や氷やなんやをやっとくさかいに明日また迎えに来てもらうで」

お爺さんはそう言ってせわしなくまた奥へ引っ込んだ。

「せやなぁ。ゆみちゃん、明日まで婆ちゃんと一緒に居ろうな」

お婆さんは妹に笑いかけた。

「ありがとうなぁ。ゆみ、ええ子にして治してもらえよ」

父はそう言って妹をおろしお婆さんに渡した。お婆さんは大事に妹を抱えるとその動作の中で私の方を初めて見て、目を見張った。

「あらぁゆまちゃんもおんなるん。あらぁ寒いのによう来なって」

私は人見知りをして静かに会釈した。妹を迎え入れる準備ができたのか、お爺さんがまたせわしなく戻ってきた。お爺さんも初めて私に気づいてきっと父の方に目を向けた。

「坊主、お前さん。冬の夜に大事な娘を連れ歩かせなって」

私から見たら父は立派な大人だったがお爺さんから見るとまだまだ子供らしく、坊主呼ばわりなのが面白かった。

「はぁ、ゆまが駄々を捏ねたるんで、ゆまもようけ大きくなったしもうええやろと諦めてなーあ」

珍しくもまた父が困り顔をした。父が自分のせいで怒られていると少し私は心配になった。心のなかではらはらとしていた私のことを気にもとめずお爺さんはますます憤った。お婆さんは困り顔で妹とさっさと奥に戻っていった。

「大きくなった言うてもまだ小さいやないか。ほんならあんたも妹と一緒に止まって行きなれ。ええことにうちは病院やさかいに寝るところならいくらでもあるで」

果てには私の方を向いてそんなことまで言い出した。しかし私はその提案を受け入れるわけにはいかなかった。病院特有の消毒の匂いが嫌だった上、病院に泊まるなんてそれこそそんな怖いことをやりたくはなかった。しかも帰りの道でも父と木の棒と雪との合奏を楽しみたかったのだ。そんな楽しいことを奪われたくはないと私は力の限り首を横に振った。今度はお爺さんが困った顔をした。

「そやなぁ。あんたあんま来ならへんけど来なったらなーあ、こないだなんか勝手に出ていきなって」

私はこないだを思い出して顔を赤くした。注射の恐怖に私は病院から逃げ出してしまったのだ。力でも性格でも何かと強い母に引きずり戻され抑え込まれて泣きながら打たれた出来事を思い出し、恥ずかしさやら恐怖やらでその場から早く離れたいと思った。

「また勝手にどっかに行きなっても困るしなーあ」

お爺さんは難しい顔で長考していた。早く早くと気が急いていた私はたどたどしくも声を発した。

「うち、ひのようじんして居んなるもんも見いひんで大丈夫」

お爺さんはこちらを見て難しい顔のまま、ならしゃーないなぁ、決まりもわかっとるんならなぁと自分の中できりをつけ、ほんなら気をつけなぃなと締めてせわしなくまた奥へ引っ込んだ。慌ただしい足音とは反対に呆然としていた父は我に返ってお世話になりますと誰もいない玄関へ間延びした挨拶をし、ガラスの床をカラカラ締めた。

ひのようじんっ、かーん…しんしんしん……

ひのようじんっ、マッチ一本火事の元、かーん…しんしんしん……

帰路について声高に叫びながら歩いているとき、私はこの冬の夜を支配したかのように意気揚々としていた。病院から真っすぐ歩いているとその叫び声が更に折り重なった。だんだん大きくなっていくその叫び声に、人が前から近づいてきている事がわかった。

「…ゆま、わかっとるな」

緊張した声で父がそう聞いてきた。私は大人しく頷いておいたが、心のなかでは人だろうから大丈夫だろうと高を括っていた。掛け声と拍子を再び始めると父の声は少しこわばっているように思えた。私は前を向いて悠々と歩みを進め、声高に、もはや近づく人に見せつけるように叫び鳴らした。最初は近づいてくる声と拍子は自分のものとばらついていたがそれは近づくほどに合っていき、すれ違うときには一つになった。近づく人の声は父と同様に強張っていて、少し震えていた。父の言いつけを守っていた私はその声に既視感を覚え、父が前を向いていることを確認してからすれ違いざまに横目でその人を見た。なんてことはない、近所の曽木という男であった。彼はいつも穏やかな近所のおじさんというようで私は初めて彼の気が動転しているのを見た。足取りはおぼつかなく、乱視できょろきょろと目を動かしていて、明らかになにかに怯えていた。その動作でうっかり怖いものと目を合わせてしまいそうだった。掛け声がまた遠ざかっていくと父は飲んでいた息を重たく吐いた。

「おじさんやったで」

黙っていればいいものの父が緊張している様子を見てついついそう言ってしまった。父はばっと立ち止まり、目を吊り上げてこちらを見た。しかし、安心したようにため息をついて、見るな言うたやろ、とだけ言ってまた前を向いて歩き始めた。また私は夜の支配者となって叫んだ。

ひのようじんっ、かーん…しんしんしん……

ひのようじんっ、マッチ一本火事の元、かーん…しんしんしん……

一度曲がって真っ直ぐ歩き、また曲がってもう真っ直ぐ歩けば家に着くと、夜の街の遠征を出発から頭に巡らせて満足感に浸っていると、二度目の角を曲がったところで急に悪寒が走った。鼓動が速まる。

…かち、かち…かち、かち、かち…

いる。何かがそこにいる。

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かちかち @mmaakkoottoo

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