かちかち
誠
第1話
子供の頃、冬の夜の静寂を割る狂ったような火の用心が嫌いだった。
「じゃ、行ってくるでなーあ」
冬の木張りの家の玄関は寒く、厚い靴下を通してもなお床の冷たさが足を冷やし、ストーブを強くつけても吐息は白く漂った。対照に父に抱かれた妹の頬は赤く熱を帯びていた。
「うちも行く」
れっきとした覚悟で言ったはずなのに寒さに揺らいだ声に自分でも驚いた。手袋をしてもなお冷たい手をしきりに開いたり閉じたりして先程から機会を待っていたのだ。父はこちらを見て困ったようにだが厳しく言った。
「あかん。冬の夜は危ないで。」
父は私と妹には優しかったが冬の夜に外出することは決して許さなかった。『なんで』と聞くと決まって『冬の夜は暗いし寒いであかんで』と言うのだ。
「ゆま、あんた手袋までしなって。危ないから家でゆっくりしとんなれ」
私と一緒に木の床の上から父たちを見送る母はそう諌めた。母は厳しい性格をしていたが怒っても最後には優しかった。けれども母もまた冬の夜の外出は決して許さなかった。しかし私も本気だった。幼い頃から妹は熱を出しやすいために父と夜に病院に行くことが多く、そのたびについていくと主張し敗れ家でふてくされていたが今回は本当の本当に本気だった。冬に出かけるときには必ずする手袋をすでにつけているのがその証拠だった。
「いつもゆみだけずっこいやん」
やはり声が震えた。外は絶え間なく雪が降っているだろう。雪かきをしても次の日にはまた雪は非情にも積もっていた。雪が大好きだった私にはとても嬉しいことであったが町の大人たちは朝に白いため息をついた。雪は夜中にいつの間にか降ってやんでしまう、雪が降るところをもっと見たいと私が思うのは当然だった。
「ゆみは熱でえらいで病院に行かせんなん」
と父が言うので、ならばと思った小学生の私はおもむろに手袋やはんてんを脱ぎ、腹巻きを脱ぎ、冷たい床に寝転んだ。木は即座に私の熱を奪い侵食した。ひんやりといったどころではない。頬は床につけた瞬間から白く染まるのを感じられた。床につけた鼻は冷たさが這い上がってむずむずした。これならすぐ私も熱が出るだろうと冷たさに皮膚を立たせてほくそ笑んだ。
「あんた風邪引くで」
と母が慌てて起こそうとするが私は床に這いつくばった。子供といえど小学生が必死に抵抗すればなかなか起こすことはできない。そして私の体は熱を帯び始め、鼻水が出始め、同時に妹が熱で苦しそうにうーんと唸ったので遂に両親は根負けした。母はわかったと渋い顔で言い私に脱ぎ捨てた腹巻きやはんてんを着せた。嬉しさのあまり着せてもらうのももどかしくなり手袋をひったくて自分で夢中になってつけた。父が屈んでまっすぐ私を見て言った。
「ゆま。ついて来なるなら守らんといけんことがある。できんなるか」
「できる」
父が珍しく厳しいのにも気にならず私は手袋をつけるのに夢中だった。父は私の頬を両手で包み自分の顔に向けさせた。
「本当にできんなるか」
父の心配そうな顔にようやく大事な話をしているのだという心構えをした。それも子供の風が吹けば揺らぐようなちっぽけなものだったのだろうが。
「できる」
子供の思い込みで覚悟の少しでも持っていると何でもできるかのように思えた。
「ええか。外に出たら絶対に居るものを見たらいかん。」
「居るもの?」
「あぁ外に居んなる人にしろ何にしろや」
「なんで?」
この問いも当然のものであった。父の言うことはあまりに抽象的であった。父は口に出すのも恐ろしいかのように言った。
「かちかち様が居んなるかもしれんからや」
「かちかち様?」
「あぁ、この周りに昔からいる何やろな妖し…まあ人ではない何かやなーあ」
妖しと聞いて体がなかったり顔がなかったりする人型のものやぎょろっとした身のついた傘や草鞋を思い浮かべた私はそれを怖いと感じ、率直に口にした。
「怖い」
「そうか。ならやめとくか。よしよし」
そうあしらわれてもなお怖いと感じてしまったかちかち様に関わろうという気にはなれなかった。そのままなら私はついて行こうとは思わなかっただろう。玄関から奥に引っ込んでいた母がそのとき木床の上に戻ってこなければというもしもの話だが。母は私と父の話が聞こえたようで木床に足をついてすぐ
「あれ、やめなるん。それはええ、片しとくわ」
とまた奥に引っ込もうとした。しかし私はそのとき感じていた恐怖をすっぽり忘れ、母の持つものに魅入った。二本の太い木の棒である。太鼓のばちより少し短い、どこまでもなめらかで波打つ樹輪が層状に照り輝くとても魅力のある棒だった。私はその棒を触りたくて握りたくてたまらなくなりせっかく右手と左手の半分まで身につけた手袋をまた脱ぎ捨て、母の元まで行って恭しくその棒を一本取り上げた。握るとひんやりとしてその感触に握る力を弱めるとするすると滑り落ちていきそうになった。その滑らかさに感激し私は思わずその棒に頬ずりをした。先程木の床に頬が触れたときとは全く違いどこまでもその感触を楽しめた。冷たさに頬が白く染まっても気にならず頬ずりを続けたのだからその時の私はどうかしていた。
「あんた、気に入りなったん。でも、行かへんのなら片さんと」
母はこちらを呆れたように見てそう嗜めた。
「行く」
私は思わず即答した。同時にまだ母の手元にあったもう一本の棒を奪われまいと取り上げた。
「ゆま。行かへんと違うんか」
父は困ったようにやんわり止めた。
「やっぱり行く」
私は両親が困ったように視線を向けるのも気にならず、魅力的な二本の棒をじっくり見ながら答えた。私はこの魅力的な棒が火の用心の合いの手を奏でる楽器であることを知っていた。父は冬の夜に歩くとき必ずこの棒と同じ形のもっと古い棒を持ってでかけていたからだ。家でいじけながら父の火の用心の声と、かーんと間延びした木彫の音を何度も聞いていたのにも関わらず、どんな音が鳴るのだろうと叩きたくて叩きたくて仕方がなかった。それも父のように堂々と外を歩きながら奏でたいと思うのになぜ行かないということがあるだろうか。すっかり木の棒に虜になった私に両親は観念した。母は脱ぎ捨てられた手袋を取りに行き、父は私をまた自分に向けさせた。そわそわとしていた私はまた父の視線に落ち着きを戻しつかの間の集中をした。
「ええかゆま。かちかち様が気づいたことに気づかれなったら終わりや。そういう人はみな失せなった。居んなっても知らんふりせんなん。やからな、なにかがいると気づいて怖いと思うたんがわからんように外におるときは火の用心をかけるんや。人やと人に知らせるためのもんやし、なにかせんなんと思うとれば集中できるのはええことやからな」
そして父は火の用心が依代なのだと教えてくれた。なにか依るものがあると安心した気持ちになれると。私はそのときあまり父の言うことを理解できていなかったが怖そうなものを知らんぷりすることと火の用心をすることを守らなければいけないとわかり、怖いと言っても容易じゃないかと思っていた。母は心配そうな顔で私に手袋をつけ、父は眉間にシワを寄せながら妹をおんぶ紐で背負い、その上にはんてんを着た。私は異常事態に高揚し父母の視線に気を落ち着けるのを繰り返し、気分を上下させながら熱に赤らんだ妹の頬を見てやがて着地させた。しっかりと両手で棒を握った。手袋越しの感触は鈍かった。そして私は初めて冬の夜のしんしんとした冷たい闇の中に足を踏み入れた。
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