軌道線上の思慕につき

唐塵昴

軌道線上の思慕につき

鈴野灯子すずのとうこか。あんた、むかつく顔してるね」

 時枝ときえと初めて交わした言葉を、私は今でもたまに思いだす。


 七月中旬。梅雨はいまだに明ける様子はない。空気は質量を感じさせる湿り気で頬を撫で、遠くに見える黒々とした連峰の輪郭を曖昧に煙らせていた。午前十時をすぎた駅前ロータリーの人通りはまばらで、通勤通学ラッシュの喧騒からひと息つき弛緩した雰囲気が漂っていた。往来を胸を張って我がもの顔で歩く鳩。紙パックの酒を握りしめ、明後日の方向にこの国を憂いたスピーチを披露する老人。それをいつものことと目もくれない警察官。この穏やかな無秩序の中を歩くのは灯子のお気に入りの時間だった。大学三年生。講義はそれほど詰めこむ必要もなく、サークル活動をしているわけでもない。宙ぶらりんな今の自分には、この無秩序なロータリーは何者でもない自分を受け入れてくれる優しさがあった。

 ロータリーを抜け、コンクリートの段で作られた路面電車の停留所に立つと、大学方面ゆきの電車はひとつ向こうの交差点からゆっくりと気ままに体を揺らしながらこちらへとやってきた。車体を左右に揺らす様子と、ボディを近くで見たときの滑らかなようではっきりとした凹凸は、路面電車を生きもののように思わせた。真ん中より少し後ろに座り車内を見まわすと、ロータリーと同様に人はまばらで、エアコンの風の通りもよく、少し肌寒いくらいであった。

 今日の予定。大学で昼食、午後の講義をひとつ。以上。ほとんど散歩に出るようなものだ。しかしこの退屈さが今の自分にはちょうどいいと思った。電車がゴコンッという音を立てて発車した。


 五月上旬。ゼミの所属が決まり、顔合わせと親睦を兼ねた飲み会は大学最寄りの大衆居酒屋で滞りなく行われた。年相応のよそよそしさと積極性。気まずさを埋めるツール程度の食事とアルコール。そういうものだと割り切ってはいるものの、やはりどこかものたりなさを残す時間であった。

 飲み会が終わり、店をでて吸う外の空気はよどみがなく、中途半端な気持ちを幾分か澄んだものにしてくれた。店の壁に背を預け、これからゼミ仲間となる面々をぼんやり眺めていると、名前も知らない幹事が二次会のカラオケに行くメンバーを集めているようだった。参加する気にはなれなかったので、近くにいた何人かに軽く挨拶をしてその場を去ろうとしたとき、すれ違いざま、右腕をつかまれた。

「またね」

 よく通る声。知らない女、ではない。席が離れていたので詳しくは知らないが、たしか青山と自己紹介をしていた。腕はすぐに離れたので、何も言葉を返さずに最寄りの路面電車の停留所へ向かった。

 次の路面電車がくるまでの間、暇つぶし程度に停留所への歩道橋の中央で煙草に火をつけた。青山。一瞬あった眼は、切れ長で、こちらの奥底をのぞきこむようで、あまり見かけないタイプだった。

 電車が光に満ちた体をゆらゆらと揺らしながらこちらにやってきた。煙草を靴底でもみ消したが、結局新たな一本に火をつけて見送った。折り返して市街方面へと帰っていく電車の光が煙に交じり遠くへと消えていった。かん違いかもしれない。けれども心に引っかかってしまった。ライターを煙草の箱へしまうついでに残りを見ると、煙草はあと数本しかなかった。これがなくなったら帰ろう。そういう賭けだ、これは。


 向こうへと消えゆく電車の光を煙の中に幾度か見送り、歩道橋の手すりに置いた煙草の箱に手を伸ばすと、残りはあと一本だった。そういえば、そもそも私はこの賭けでどうしたいのか。今さらそのことすら考えていなかったことに気づいた。鼻で笑いながらライターをつけた。火は鼻息で大きく揺れた。

 最後の一本を吸い終え、これまでの吸い殻を拾い上げるためにしゃがみこむと、

「やっぱり」

 と頭上で声がした。よく通る声。顔を上げる。彼女がそこにいた。

「青山」

「そう、青山時枝あおやまときえ。あんたは鈴野」

「鈴野灯子よ」

「鈴野灯子か。あんた、むかつく顔してるね」

「なるほど、賭けはとんだ大損だったわ」

 何の話、と問う彼女の言葉には答えず、最後の吸い殻を空き箱に押しこんだ。ゆらゆらと電車がやってきた。

 歩道橋を降り停留所へ向かう途中、彼女が何かいったけれども、電車のエンジンとブレーキの音で聞きとることはできなかった。聞き返そうとは思わなかった。電車は二人の貸し切りだった。


「結局さ、飲みが足りてないんだよ。灯子、あんたも私も。そうだろ?うちに来なよ」

 出会ってからここまで、どこか怒気すら感じさせるほどにまくし立ててくる。

「たいそうなナンパだことで」

「いい感じに飲み口が薄いグラスを手に入れたんだ」

「それはいいね」

 悪くない誘い文句だと思った。

「駅前を少し過ぎたところで降りよう。あと時枝って呼んで」

「よろしくちゃん、時枝」

 不意に怒気が消え、破顔した時枝の無邪気さがまぶしかった。


 通された時枝のアパート。角のなめらかな椅子とテーブル。つやのある大きな葉をつけた観葉植物。壁棚はいくつかの正方形に区切られていて、それぞれに、衣類、化粧品、アクセサリー、大学のテキスト、酒、食器などの家財がひと通り収納されていた。区切りごとで見ると整然としているのに、全体で見るとどこか雑然としているのが可笑しく、また親しみを覚えた。

「安いジンだけど」

 時枝にオーダーしたジントニックを受け取る。甘さは抑えられ、ジンの爽やかな香りを楽しめた。好みの味だった。歩道橋で煙草を吸い続けていたせいか相当喉が渇いていたようで、氷が溶ける間もなく一気に飲み干した。グラスに添えられたハーブが鼻に触れた。

「お気に召したようで」

 そっちのは、と時枝のグラスを見ると、手元のバーボンの瓶を持ち上げてみせた。

「グラスも悪くないでしょ」

「二杯目で確かめようと思って」

 何それ、と笑いながら二杯目を作ってくれた。今度はグラスも意識してみた。グラスの厚さのピンキリなどせいぜい数ミリ程度の差だろうが、たしかに飲み口の薄いグラスはその存在を希薄にし、酒の味わいをより感じさせてくれる気がした。心地よい不思議だった。

 新しい発見によるものか、アルコールによるものか、昂揚した私はテーブルの向かいに座る時枝に、

「むかつく顔の女っていうのは」

 と言いながら椅子ごと彼女の隣に移動し詰め寄った。

「考えさせられる言葉じゃないの」

 それは、と言いよどむ時枝の顔にまた怒気が宿った気がしたので、グラスを奪って自分の口に含んだ。ストレート。バーボン特融の刺激臭。むせかえるような木の香り。時枝は何かいいたげにしていたが、気にせず勢いのままキスをした。いきなり触れた唇の柔らかさは、そのまま彼女の心のうちの繊細さを感じさせるようで、なんだか少し泣きたくなった。唇は合わせながらも強くは押しこまず、こちらの舌を伸ばし気味にしてバーボンをゆっくりと中に注ぎこんだ。とぎれとぎれに荒く息をしながらも、時枝はそれを受け入れた。口の端から垂れたバーボンを舌で拭ってやると、かすかに腰を震わせた。喉がゆっくりと上下していた。眼があった。揺れていた。すっと伸びた首筋から緊張が伝わってきた。気づくと私は時枝の手首を強く掴んでいた。


 眼がさめるとベッドで、となりには時枝の背中があった。そっと撫でる。かすかな湿り気とたしかな熱。先ほどまでの交わりが現実だということを感じさせた。首筋に唇を寄せると、かすかに声を上げながら身をよじった。いとおしかった。カーテンをめくると、外は少し青みがかっており、時計を探し見ると四時半だった。大きく伸びをし、息を吐くと、時枝も眼をさました。

「灯子、少しでようか」

 時枝のアパートをでてひと気のない通りを歩く。五月の夜明け前の空気はまだ肌寒さを感じさせたが、緑が濃く香り、清廉とした空気は心に落ち着きをもたらしてくれた。目的地もなく、しばらくゆっくりと歩いた。言葉はなかった。気まずくはないけれども、お互いの心が通じあっているわけでもなかった。

 不意に時枝がコインパーキング脇の自動販売機の前で足を止めると、

「分からないのよ。でも、だからこそ、私はここで賭けにでたい」

 といい、ポケットからしわくちゃになった千円札を取りだした。

「これを自販機に入れて認識したら私とあんたは恋人同士。いい?」

 急なことを、と思ったが、お互いさまだったので黙ってうなずいた。時枝は千円札を挿入口に押しこもうとするが、手が震えてなかなか入らなかった。手伝おうか、と聞くと、黙って、と返された。そして千円札が飲みこまれた。時が止まった気がした。数秒後、しわくちゃの千円札が戻ってきた。

「ほら、結局、こんな」

 時枝は肩を大きく震わせていた。こういうとき、人は本当に肩が震えるのだな、とどこか他人事のように思っていると、時枝は自動販売機をガァンッと感情のままに殴りつけた。荒く息をしていた。うつむきがちに眼を見開いて、血が出そうなほどに噛んだ唇は白くなり今にも破裂しそうだった。さすがにやめさせよう、そう思ったとき、不意にガコンッと大きな音がした。自動販売機だ。取りだし口をのぞいてみると、缶コーヒーが一本あった。沈黙。ふたり数秒ほど眼をあわせてから、大声で笑った。時枝も私も涙がでるほど笑った。缶コーヒーは冷たかったけれども、時枝のアパートまで分けあって飲んだ。冷えているのに甘ったるさが脳に刺さり、笑いすぎたこともあって頭が痛くなってきた。それすらも可笑しくてたまらなくて、私たちはずっと笑っていた。アパートでまたふたり眠った。


 それ以降、私の大学生活は時枝と一緒にいることが多くなった。お互い連絡を取りあうことはなかったけれども、学部は一緒なわけだし、ゼミも同じなので、いざ意識してみると時枝は割といつもすぐ近くにいた。金曜日の最後の講義はゼミで必ず顔をあわせたので、その日は翌朝まで一緒に過ごした。結局、自動販売機の賭けはどうなったのか少し気になったけれども、なんとなくそれを時枝の口から聞きたくはなかったし、彼女の方からもそれについての話題はでなかったので、その件はそのままにしておいた。それでいいと思った。


 六月上旬。その日は時枝と夜の散歩にでていた。散歩といっても、繁華街なのに昼でもシャッターの降りた店の多いこの街では、本当にただ歩くだけといっても過言ではなかった。時枝の提案で遅くまで営業している酒屋に寄った。

「私はバーボンが好きだけど、灯子は?」

 時枝ほどはウイスキーを嗜むことのない私は、とりあえず直近で飲んだ有名なアイリッシュ・ウイスキーの銘柄を挙げた。

「なるほど。よし、あった。サイズは私の方がほんの少し大きいけど、まぁいいだしっぺだもんな」

 などとぶつぶついいながら、それぞれ挙げたウイスキーと、水を二本買って店をでた。そのまま時枝に導かれるまま、商店街の方へ歩いた。

「なんかこのあたりにシネコンが建つって噂だよ」

「そんなわけないでしょうに」

 アーチ形の天井が張り巡らされたアーケード商店街は昼でも静かなので、夜になるともはやゴーストタウンだった。ふたりの会話もよく響いた。

「こんなに何もないところだと、クリエイティブにもなるよなぁ」

 言葉の意味を考えていると、

「いっちょゲームといこうか」

 時枝は嬉しそうにいった。


 ルールはこうだった。ゲームのフィールドはアーケードひと区画分の直線約二百メートル。その両端にはお互いが選んだウイスキーを、真ん中には水を置く。ゲームはそれぞれの酒の位置からスタート。まずは一杯飲む。グラスはないので、キャップをショットグラスとして代用。次にアーケードの真ん中に向かって歩き、そこに置いたチェイサーとしての水を飲み、お互いの眼を見て、アイム・オーケーと伝えあう。そして今度は自分のウイスキーまで戻り、またそれを飲む。これを繰り返す。要は蛇足のついた飲み比べであった。酒屋でサイズがどうこういっていたのは、どうやらショットグラス代わりのウイスキーのキャップのことのようだった。勝ち負けのジャッジは、と聞くと、やれば分かるよ、とのことだった。時枝がなんだか得意気だったので、勝負を降りる気はしなかった。


 スタート。まずはウイスキーを一杯。クセは少なくスムースな味わい。そしてアーケードの中心に向かって歩く。時枝と向かいあう。水を飲む。アイム・オーケー。水を飲んでから気づいたが、どうやらこの一本しかない水を飲むペース配分も戦略のうちと考えられるようだ。おもしろい。スタート地点へ戻り、またウイスキー。チェイサー。アイム・オーケー。以下同文。


 今は何往復目だろうか。もはや考えること自体が億劫になってきていた。数十ミリリットルの酒と水を繰り返し飲んでいるだけなのに、胃には異常なまでの膨満感を生じさせ、歩くたびに吐きそうになった。腰に手をあて、ゆっくりと水に向かって歩みを進める。示しあわせたわけでもないのに時枝と同じ歩調になっているのが笑えたが、笑うと腹部の収縮により嘔吐しかねないのでこらえた。おそらく、倒れるなど何らかの理由によりアイム・オーケーといえなくなる、または嘔吐してしまった方がこのゲームの敗者となるのだろう。とはいえ、最初にはっきりとそう決めたわけではないので、それは個人の中から生まれた、ある種の純粋なスポーツマンシップだった。そうなると私はアルコール・アスリートか、そう思うとまた腹部が収縮しかけた。

「アイム・オーケー」

 ふたりともゆっくりと大きく息をしていた。時枝がこちらを見てにやりと笑ったので、私も同じ顔をしてやった。アーケードにはたまに人が通りがかり、私たちに不審な眼や冷めた眼を向けてきたが、そんなものはとっくに気にならなくなっており、気分次第で手も振ってやった。アイム・オーケー。その通りだ。


 キャップに口をつけているのになぜかウイスキーが口に入ろうとしない。もはや身体全体がアルコールを拒否していた。どうすれば、と考えた末、呼吸するタイミングで息を吸うと同時に一気に流しこんだ。そろそろ限界へのカウントダウンが見え始めたな、と真ん中に置いた水の方を見ると、時枝はすでに歩みを進めていた。まずい、と思ったそのとき、時枝が急に振り返り、ウイスキーの方、さらにもう少し先にある植えこみまで走りだしたかと思うと、そこに顔を突っこんでいた。勝った。そう思うと同時に力が抜け、私も自分の方にある植えこみと愛しあった。おぼれそうな量のアルコールと酸味。濃い土の香り。自業自得。なるようになりながら、植えこみの土を這う小さな甲虫のよたよたとした歩みをぼんやりと眼で追っていた。

 胃が落ち着いたのち、真ん中に置いた水へ向かうと、時枝はすでにいた。お互いふらつきながら水を飲み、深く息をした。

「アイム・オーケー」

「灯子、鼻からゲボ出てる」


 たしかに退屈はしのげたし、あの商店街で最も血沸き肉踊るときを過ごすことができたが、さすがにあれは強烈だった。

「ほとんどファイト・クラブね」

「どん底に一歩近づいたのさ」

「そのうち脂肪を集めるのは勘弁してちょうだい。想像するだけでまた吐きそう」

 時枝のアパートまでの帰り道、私たちはもう二、三度えずいた。アパートに着く頃には胃が完全に空っぽになったのでふたりとも空腹だった。

「夜明け前に起き、ウォーキング。そして腹が減る。なんとも健康的じゃあないか」

「まったくね。長生きしそう」


 明けて今日の講義は自主休講が決定した。一日中、時枝のアパートでふたりともなめくじのように這いつくばって過ごしていた。二日酔いからくる寒気のせいか、あたたかいインスタントの味噌汁がやけにしみた。せめてもの文化的な、人間としての生活を演出するために、なんとなく映画を何本か垂れ流していた。もうろうとしながら見ていたのでストーリーの詳細は把握できなかったが、事件を解決した西部劇のガンマンが画面の手前側の暗い家からよく晴れて乾いた荒野へと静かに去っていく姿はどこか心に残るものがあった。


 眼をさますと夜になっていた。軽い虚脱感はあるものの、体調はほとんど回復していた。時枝はすでに起きていて、冷蔵庫のドアを足で閉めると、何か食べにでようか、といった。

 外にでると、日中の暑さがまだ少し残っていた。暑さと湿気で身体が少し重く感じられたが、二日酔い明けの生まれ変わったような気分の今の自分にはそれすらどこか新鮮で、それほど不快ではなかった。同じような新鮮さを感じているのか、少し前を歩く時枝はわざわざ普段は用事のない駅北の方へと向かっているようだった。

 駅北はビジネス街で、夜になると人通りはまばらだった。広い歩道に影の模様を落とす街路樹は大きく、その枝葉をこれからの季節に向けて存分に伸ばしていた。どうせ夜だからと、ふたりともほとんど着の身着のまま外にでたので手持ちは少なく、結局適当なコンビニに入った。

 サンドイッチとペットボトルの紅茶を手にとり店内をうろついていると、雑誌コーナーの隣に花火があった。そういえば、前に花火をしたのはいつのことだったろうか。昔から花火は好きだった。大きい小さいに関係なく、色とりどりの光を見ることだけに意識を向けているあの時間が心を落ち着かせた。ポケットをまさぐると煙草の箱があったので、火は問題なさそうだった。お金がないので一番安い手持ち花火のセットを選んだ。パッケージにはなんの脈絡もなくパンダの持ち手をした花火が中央に鎮座していた。これは時枝に持たせてやろうと思った。

 会計を済ませていると、店員のおばさんが、花火をするなら店の裏にある公園がいいと教えてくれ、水を少し入れたバケツまで貸してくれた。店をでるとき、バケツを軽く掲げ会釈をすると、レジの対応をしつつもこちらを見て微笑んでくれた。

 公園はビルとビルの間にあり、これならたしかに近隣からの苦情もなさそうだった。時枝もサンドイッチを買っていたので、半分ずつ交換した。一日中ろくに食べていなかったせいか、ひと口ごとに身体中に栄養素がしみ渡る感覚があった。


「パンダといえば白黒なんだからさ」

「そうね」

 他にあったろ、という時枝の持つパンダの花火は赤い光を夜の闇に向かってぶちまけていた。私は笑いながらその光に煙草を差しだし火をつけた。ゆっくりと深く吸いこみ、煙を夜空に向けて吐きだしながら、次の花火を漁る時枝を見ていた。今年の夏は長くなる。そんな気がした。きっと十一月、十二月、年が明けても夏が続いて、うだる暑さの隙間、夜更けから夜明け、こんなふうに外にでて笑い明かすのだ。停滞する夜明けの空、煙だけが上へ上へとのぼり消えてゆく様子を思い浮かべて、私はしばらく黙りこんでいた。煙草がじりじりと燃え続けるまま、重みに耐えきれなくなった灰が地面に落ちた。

「灯子、まだ具合悪いか?」

 時枝が心配そうにこちらをのぞきこんでいた。

「ごめん、大丈夫。夏の予定を」

「ずいぶんシリアスな顔だったぞ」

「真夏の大スペクタクルよ」

 時枝から受け取った花火に火をつける。ごうと勢いよく吹き出した白い光はまぶしく、眼を細めてしばらくそれを見ていた。


「夏の終わりに花火をする奴なんて最低さ」

「というと?」

「夏の終わり、センチメンタルになった自分の心を花火と重ねる表現ってよく見かけるだろ。切なさ、後悔、別れ、名残惜しさ、エトセトラ。だが考えてみなよ。花火は一度火がつけばあとは最後まで駆け抜けるトップランナーだ。後ろなんて振り返るひまもない。真逆じゃあないか。対象が口をきけないからって、てめえ勝手な感情を押しつけるなんて、せっかくの花火が湿気ってしまってしょうがないよ。そいつは花火に対するマナー違反だ」

「じゃあ、いつがベストなのよ」

 熱弁をふるう時枝を見ると、袋に入った花火を根こそぎ掴んで点火しようとしていた。

「今に決まってるだろうよ」

 手に持った花火が一斉に光を放つ。束にして持った花火は大きなひとつの光となり、外側から内側の花火へと連鎖して火がつき、いつまでも燃え続けていた。

「こいつは鏑矢かぶらやだ。すぐにいけ。合戦はもう始まるぞ。そいつを知らせてやるんだ。みんなに。そう、みんなにだ」

 もうもうとした煙と火薬の匂いの中で時枝は大きく叫んでいた。私も花火の入った袋に手を突っこむと、もうほとんど残っていなかった。線香花火もあったが、構わずまとめて火をつけた。あまりにもでたらめな光だったが、いつまでも見ていたいと思った。何かを叫んだ気がしたが、今はもう覚えていない。


 花火を買ったコンビニでバケツを返し、家路についた。道中、会話はなかったが、いい時間だった。満たされていた。時枝のアパートに戻り、シャワーも浴びずにベッドに入った。時枝の耳を甘噛みしたとき、髪から火薬の匂いがした。最後までしたあと、会話もなくふたり気絶するように眠った。次に眼をさますのは何時でも、何月でもいいと思った。


 六月下旬。ここしばらく時枝を見かけなかった。もともと連絡を取りあうようなことはしない関係だったので、初めのうちは、また何か無茶な酒の飲み方をして家で這いつくばっているのだろう、などと思っていた。しかし何日経っても時枝は現れなかった。

 金曜日のゼミの終わりに時枝のアパートまで行ってみた。ドアには鍵がかかっていたが、ノブのところにビニール袋がぶら下がっていた。何となくその場にはいられなくて、袋を掴んで階段を降りアパートの駐輪場で中を見ると、吸いかけの煙草の箱、ネイル、靴下といった、私が時枝の部屋に置きっぱなしにしていたものが入っていた。西部劇のDVDもあった。きっと二日酔いのあの日に見た作品だと思った。赤みを帯びた褐色の荒野へと静かに去っていく時枝を想像したところで、階段を一気に駆け上がり、また部屋の前までいってドアを叩いてみたが、何の反応もなかった。それきりだった。


 終点の大学前で路面電車を降りると、大学の周辺には多くの生徒がいた。七月中旬。夏休み前の山場である前期の試験に頭を抱える者。サークルの夏合宿の会議のためにこれから学食へ向かう者。就職活動に取り組むべく、リクルートスーツに身を包む者。誰ともなくこの場全体がどこかせわしなく、活気に満ちていた。

 停留所からの階段を上り、歩道橋の中央で手すりに寄りかかってポケットから煙草の箱を取りだした。ライターはすぐにでたけれども、肝心の煙草がなかなか箱からでてこない。中をのぞくと、箱の底に紙くずのようなものが挟まっていた。引っぱりだすと、しわくちゃの千円札だった。

「そのままお返ししてやるわよ」

 といいながら端を指ではじいた。そういえば、ここで初めて時枝と話したとき、停留所へ向かうタイミングで彼女は何といったのだろう。今さらそんなことを考えていた。

 広げた千円札を陽に透かしたりとしばらく眺めていたけれども、結局また煙草の箱へと押しこんだ。少し曲ってしまった煙草に火をつけ、深く吸いこんだ。ゆっくり大きく息を吐くと、折り返して市街方面へと帰っていく路面電車も、遠くにそびえる山々も、活気に満ちた生徒たちも、すべてが煙の中に消えていった。そして上へ上へとのぼってゆく煙も、やがてすぐに消えてどこにもいなくなった。

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