妖精

めへ

妖精

私の勤める会社のロビーの壁には、花々が点々と咲き乱れる絵が描かれている。

花に興味が無いため、種類は分からない。

その、上手いのか下手なのか分からない、パステル調に描かれた絵を気に留める者はいないだろう。私も以前は何の関心も寄せていなかった。

あの日、その中に異物を見るまでは。


ある朝、いつものように出勤しロビーに入ると、ふと壁の絵が目に止まった。

いつもと違う。

普段からそんな熱心に壁の絵を見ているわけではないが、それでも強い違和感を感じた。


花とは違うものがある。

それはおそらく、妖精と呼ばれるものだった。

花々よりも少しばかり大きな、人間の手のひら程のサイズ。

フリルの付いた青いドレスを着、背中からはトンボのような羽が生えている。

ブロンドの長い、少し癖のある髪をポニーテールに結わえていた。

白い肌、ぱっちりとした青い目。長い睫毛を臥せながら、白い優美な指先でストローに見えるものを支えている。


綻んだ桃色の唇にストローが添えられ、その先は花の花粉がある辺りだった。

まるで、花の蜜を吸っているようだ。

その姿は花々の絵に非常に馴染んでおり、最初からそこにあったかのようで、私が単にこれまで気付かなかっただけだろうかと思う程であった。

きっと知らない間に描き加えられたのだろう、そう考えた。

しかし次の日、妖精はそこにいなかった。

彼女がいたところへ近寄り、まじまじと見つめたが、何かで消された形跡も無い。

あれは私の見間違いか?


それにしては生々しく、はっきりと記憶されている。

妖精のドレスの色、スラリとした手足、パステル調でも分かるはっきりとした目鼻立ちまで、私の脳裏に焼き付いていた。

しかしまた次の日、そこには妖精がいて、ストローを手に花の蜜を吸っていた。

そのような日が繰り返されたが、こんな話をしても自分が不気味がられるだけだと考え、誰にも話さなかった。


その日は妖精のいない日だった。

私は慣れてしまい、もうあまり妖精の事が気にならなくなっていた。

ロビーで同僚の一人と目が合い、どちらからともなく挨拶したのだが

私は挨拶しようとして驚愕した。


同僚の頭のてっぺんには細いストローと思われる管が刺さっており、その先にはあの壁の妖精がいた。


確かにあの妖精だった。


いつものように、優美な指先でストローを支え、唇を綻ばせ、睫毛の長い美しい目を臥せた穏やかな表情で、花の蜜ではない何かを吸っている。


私の驚いた様を見て、困惑する同僚に「頭、頭」と自分の頭を指して訴えると、同僚は自分の頭を撫でて「寝癖ですか?」と言った。

同僚の手は妖精の体を素通りしていた。

ちょうど他の同僚が通りかかったので、呼び止めた。

彼は私達に挨拶しただけで、同僚の頭を見ても全く驚く様子が無い。

妖精は私にしか見えていない事がはっきりした。


私は精神科、脳外科へ行き脳波やレントゲンを診てもらったが、異常は無いとの事で、疲れているのだろうと休息を勧められた。

職場はホワイトであったし、自分で言うのもなんだが私は優秀だった。

仕事ができるのはもちろんだが、立ち回りや上司の機嫌をとるのも上手く、これまでも絶望とは無縁の人生であった。

体も頑丈で、どこででも寝る事ができる。

そんな自分が幻覚を見るような疲労を感じていたとは信じられなかったが、そう考える方が信憑性があるのも事実だった。


いつものように出勤すると、大勢の社員の中、一人の頭上にあの妖精がいた。

彼女はやはり、ストローで彼の何かを吸いとっている。

一体何を吸い取っているのか


「脳みそに決まってるだろ」


どこからか高らかな声が響いた。

周囲を見回したが、声の主らしき者はみあたらず、また誰も気付いていない。

この声も私にしか聞こえないようだ。


自分は幻覚だけでなく、幻聴まで聞こえるようになったのか?

声の主は笑い声を響かせた。


「残念ながら、これは幻聴ではないよ。君にだけ特別に真実を教えようと思ってね。君ならこの現象を理解できるだろうと判断したまでだ。」


その言葉に自尊心をくすぐられ、私は心の中で密かに尋ねた。


「脳みそを吸い取るだって?そんな馬鹿な、じゃあなぜ吸い取られた人間達は、その後も普通に生きて生活できているんだ?」


「吸い取る量が僅かだからさ。ああやって少しずつ吸われてるうちに、少しずつ物忘れが酷くなったり、同時に物事を進められなくなったりして、最終的に認知症の様な症状になる。

君も気を付けるんだな。

君にだけ教えたのは、君にはあの妖精達に用心してほしいと思ったからだ。

君の様な優秀な人間が失われるのは大きな損失だからね。」


私はぞっとして、思わず顔を上げ、鏡張りになっている壁の向かい側を見た。

なんと頭のてっぺんに、あの妖精がいつの間にいて、ストローを突き立てているではないか。


叫び声をあげるのと同時に、周囲が自宅の寝室となった。

部屋は暗く、隣で寝ていた妻が心配そうな顔をこちらへ向けている。


「大丈夫?」


「ああ…悪い夢を見ただけだ。」


それでも頭のてっぺんを探りつつ、妻に尋ねた。


「なあ、俺の頭に何か無いよな?」


「何も無いわよ?本当に大丈夫なの?」


今日は妖精が壁の絵の中にいない日だった。

そして彼女が頭上にとまっている人物は、私と同じ部署の同僚である。

素早くメモとペンを取り出し、その同僚の名前と部署を記録した。

その日から、私は妖精のとまる人物をこうしてメモにとるようになった。

そうやって一ヶ月、かなりの量となったリストを確認して分かったのは、皆例外無く出世コースに乗るホープばかりという事だ。

男性社員ばかりで、女子社員は殆どいない。

――女性は無能な者が多いため、重要な役職に就く事がまず無いからであろう。と、そう思い納得した。




このリストの中に自分がいない事が、複雑な心境になる結果だった。

そして彼らを可能な限り観察し続けた結果、徐々に使い物にならなくなっていた。

少し前に聞いた事を忘れる、聞き逃しが目立つ、呼んでも気付かない、時間にルーズになる、不器用になり、運動神経も鈍くなり、車の運転すら満足にできなくなる。


私にはまだ、小学生と中学生の子供がいて、妻は三人目を妊娠している。

あの様になるわけにはいかない。

何より、存在するだけでいらいらさせ、足を引っ張る様な者に自分がなると思うと、死んだ方がマシだとすら思う。


調べた結果、あの夢で聞いた事が真実味をおびてきて、私は自分がターゲットになる前に解決する必要性を強く感じた。

今日、妖精は他の部署のこれまた優秀な社員の頭上にとまり、ストローを突き立てている。

その社員に気付かれぬよう、なるべく自然に背後に寄り、素早く手を頭上に向かわせて妖精を掴んだ。

脳を吸う事に夢中だったらしい妖精は、私の手の中でじたばたしている。その顔は恐怖に歪んでいた。

このために用意し、持参したナイフで彼女の胸の辺りをひと突きすると、柔らかい体はぐったりとした。

握り潰す事もできたが、手をあまり汚したくなかったし、何より気持ちが悪い。

死体は会社の近くにある飲食店の裏、ごみバケツに放り込み蓋をした。

妖精は私にしか見えないのだから、この処理で問題無いはずだ。

万が一見つかったとしても、未確認生物として騒がれる事はあれ、私が殺人に問われる事はないと考えた。


安心できる場となった会社に戻り、ロビーの壁、妖精のいた位置を確認すると、そこには元から描かれていた花々のみだった。

辺りを、行き交う職員らの頭上も確認したが、何もいない。

胸を撫で下ろし、正面を見た。


絵の描かれた壁の向かいにある鏡、満足げな自分の顔。


そして、頭上にはあの殺したはずの妖精がいて、ストローを突き立てている。

それも、一人ではなく十人、いや二十人…もっといるかもしれない。


青や赤、紫、ピンク、色とりどりのドレスを着た妖精達は、髪や肌の色、顔立ちもそれぞれ違っていたが、ギラギラと憎悪に燃える瞳だけは統一されていた。

妖精達はもう、以前のように穏やかな顔をしていない。

そして、夢中になって私の脳を吸っている。

私は叫び声をあげ、周囲に助けを求めながら頭上にいる妖精達を掴んでは床に叩きつけた。


皆、困惑の表情を浮かべながら私から距離をとるが、周囲の目を気にする余裕など、もう残っていない。

しかし、何度叩きつけても妖精が減る様子は無かった。

私は助けを求め、外へ飛び出した。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


私はどこかのベッドに一人、いる。

ここがどこなのか、どうしてここにいるのか分からない。

元々はどういう人間であったのかも思い出せない。

部屋は消毒薬のような臭いがして、ベッド以外には何も無い。

ときおり、白い服を着た男達が私に食べ物を食べさせたり、排泄の面倒をみている。


一時期、一人の女が赤ん坊を抱きながら、男の子と女の子を一人ずつ連れて訪れていたが、最近は誰も来なくなった。

私には、その女達の話しかける内容が理解できず、会話が全くできなかった。

彼女らだけではない。

ときおり私の様子を見たり、世話をする白い服を着た男達が何を話しているのかも分からないのだ。


白い服の者達以外、誰も来なくなったこの部屋に、一日一度は妖精達が訪れた。

色とりどりのドレスを着た、美しい彼女たちは楽しそうに部屋を飛び交う。


「気を付けてほしいとは言ったが、妖精を殺せとまでは言っていないぞ?」


どこかで聞いたような気のする声が部屋に響いたが、声の主が何を言っているのかは理解できなかった。

声の主の楽しそうな高笑いが、妖精達の笑い声と共に部屋に響いた。


―――――――――――――



薄暗い倉庫の隅の壁に、彩希は今日も筆を動かしている。

ここはもう何年も人の出入りしない物置き場。

忘れ去られ、必要無いとされた物達が集っている。彩希のように。

デザインの仕事をしたい、そう思って彼女はこの会社に就職した。

発達障害の彼女は障害者雇用であった。


配属されたのが、この会社の地下だ。

ここでの掃除が彼女の仕事だった。

窓や壁を磨き上げ、物を整理し、掃き掃除を終え、やることが何も無くなると、何も無い場所をひたすら箒ではいたり、全く汚れの無い場所を拭き掃除しなければならなかった。

監視カメラが付けられているので、そうする他無かったのだ。


社会への憎しみが募った。

辛い日々の中、少しの反撃、そして気晴らしを兼ねて休憩時間に壁に絵を描くようになった。


おそらく監視カメラが無いであろう、そして人が来ないであろう場所を探して。

見つけたのが、この倉庫の中だった。

色とりどりのドレスを着た様々な妖精を描いていると、一時辛い現実を忘れる事ができた。

もし見つかったとしても、待遇が今より悪くなる気がしない。

解雇されたら、それはそれで良かった。


ある日、会社のロビーの壁に自分の描いた妖精の一人を見つけた時は目を見張った。

地下で確認すると、自分が描いたその妖精が消えている。

誰かが気付いて悪戯したのだろうか?と思ったが、地下の壁には消した痕跡が無く、最初から何も描かれていなかったかのようであった。

気味が悪いと思ったが、自分の作品がこんな沢山の人の目に触れる形になり、嬉しくもあった。


しばらくすると、ロビーの壁からも妖精が消えた。

地下の壁同様に、消した痕跡は無い。

代わりに他の社員らの頭上に彼女を発見した。


妖精が頭上にとまっていた社員のその後が気になり、それとなく名札をチェックし様子を調べた結果、彼らが徐々に社会生活を営む事の困難な状況に陥っている様子を窺い知った。


今ではロビーを行き交う人々が皆、暗い絶望の表情を浮かべ、目を暗くしている。


そして妖精は行動範囲を広げていた。最初はこの会社内でしか見かけなかった彼女を、最近では外でも見るようになったのだ。

妖精の数も増え、最初ブロンドの彼女だけであったのが、最近では黒髪に描いた者や褐色の肌の者も見るようになった。


最近、官僚が信じられないような間違いを犯し、度々リークされている。

彼らは今や、政治家からも国民からも軽んじられていた。


この国が崩壊する日は遠くないのかもしれない。

彩希は最後の一筆を描き終えると、満足そうに微笑んだ。

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