ゾンビにならなかった貴女

鷹見津さくら

ゾンビにならなかった貴女

 人の形をしたものを勢いよく轢くのにも慣れてしまったなあ、と思いながら私は軽快に車を走らせる。ぐじゅりと肉を踏みしだいていく車輪は健気にも、故障せずにドライブに付き合ってくれていた。


「免許ない割には、運転上手くない? 私って」


 ちらりと助手席を見ながら、千夏に話しかける。彼女は今日も綺麗だった。白いワンピースに薄めのナチュラルメイク。千夏の病的なまでの白さは日焼け止めを塗ってあげるべきだったかも、と心配になるぐらいだった。私は千夏から目を離して、前を見る。ハンドルを握る指の爪に塗られた淡いラベンダー色がだいぶ剥がれてしまっているのが見えて、心臓が痛くなる。


「世界がこんな風になったのって、確か一か月前だっけ。いやあ、困るよね」


 生ける屍、リビングデッド、ゾンビ。呼び方は色々とあるけれど、ご存じだろうか? 死体なのに動いて人間を食べてしまうというアレだ。しかも、噛まれたり、空気によって感染してどんどん増えていく。私も千夏と一緒に病室でゾンビものの映画を見たことがある。本当になったら怖いね、なんて話していた時は、まさか現実で起きてしまうとは思ってもみなかった。

 ある日突然、世界各国で確認されたゾンビウイルスは瞬く間に広がり、世界を崩壊させた。たったの一月で滅亡に追い込んだウイルスのせいで、ゾンビじゃない人間なんてほとんど存在していない。少なくとも、私は見つけられていなかった。車の外を呻きながら歩いているゾンビたちとゾンビになる前に死んでしまった死体は大量に見てきたのだが。


「でも、こうならなきゃ千夏とドライブなんて無理だったかも」


 いつか行きたいねと病室で囁き合いながらも、そのいつかが訪れることはないだろうと思っていたのは多分私の方だ。千夏は名前のように夏の日差しの擬人化みたいに明るく前向きだったので、外出許可を絶対にもぎ取ろうとしていたと思う。それは、本当に難しいことだったのだけれど、私は千夏がそんな風に考えていてくれることが、とても嬉しかった。

 私は運転が疎かにならない程度に千夏を見やる。淡い頬紅をさしている彼女は、その向こうに見えるゾンビたちの血色の悪さも相まって、非常に生き生きして見えた。


「千夏、暑くない? 私は暑いな」


 最も、どちらも死んでいるので生き生きとしているかどうかの勝者は、決めきれないのだけれども。


「あーあ、千夏がせめてゾンビなってくれたら、良かったのにな」


 そうすれば、私が独り言を延々と呟くのではなく、呻き声とはいえ相槌を打ってもらえたかもしれなかったのに。こんな風に恋人の死体を隣に乗せて、ドライブすることもなかったかもしれなかったのに。


「なんで死んじゃうの。千夏のばか」








「ねえ、死んだら魂って何処に行くのかしら」


 病室の白い壁に溶けてしまいそうな白い服を着た千夏が、そう囁いた。また始まった、と思いながら私はため息を吐く。


「千夏はそういう答えのないこと考えるの好きだよねぇ」


 にこりと笑う千夏が、真っ黒の髪を耳にかける。形の良い耳が見えて、少しどぎまぎとしてしまった。


「ふふ。だって、楽しいじゃない」

「そう?」


 千夏が目を細める。三日月みたいになったそれに見つめられ続けるのが、苦手だった。まるで、全部見透かされてるみたいで。私は不自然ではないぐらいの速さで顔を下に向ける。これは逃げではなく、戦略的撤退であって、ちゃんと下を向く理由があるんだからねと心の中で言い訳をした。


「ほら、左手出して」


 大人しく差し出された手を取る。白くて細くて綺麗な指だった。私の手とは大違いだな、と思いながらベースコートと淡いラベンダーのネイルを取り出す。まずは親指の外側から。ここが個室で良かったなと思う。そうじゃなかったら、ネイルを塗ってあげるなんてことをやりにくかっただろう。ネイルの液は匂いが結構きつい。


「ねぇ、真冬」

「……なに?」


 一生懸命、千夏の爪を塗り出した私に構わず彼女は話しかけてくる。失敗しても知らないんだからと思ったけど、彼女の場合は私の失敗でさえも惚気の種にしているので手に負えない。看護師さんにそれを教えられた時は顔が燃えてしまうかと思うぐらい熱くなってしまって、ひどく心配された。いくら病院で暇だからって、そんなことを他人に惚気ないでほしい。


「真冬は魂は何処に行くと思う?」


 千夏の瞳はきらきらと輝いていた。灰色がかったその瞳を向けられると、私はどうにも千夏の願いを叶えてやりたくなるのだ。これは私と千夏が恋人になる前、友達であった時からなので多分そういう習性みたいなものなのだろう。仕方なく、私は魂について考えてみる。


「……まず、魂が存在するのかどうかから始まらない?」

「あら。そんな無粋なことは言っちゃ駄目よ。とりあえず、魂があるって前提で考えましょう」


 にこり、と千夏が笑う。これは反論しても無駄な時の顔だ。


「魂、魂かぁ。……千夏はどう考えてるの?」

「天国か地獄に行くんじゃない?」

「……ちょっと安易すぎる回答だと思う」


 千夏の左手を塗り終わったので右手を借りる。せっかくなら、簡単な柄を描こうかなとも思ったが、ジェルネイルじゃないと私の腕では上手に描けない。千夏の爪を塗る時は取れやすいし塗り直しをする回数が多いけど、ポリッシュネイルにすると決めているのだ。だって、その方が千夏と自然に触れ合える。


「天国も地獄も死後そうなってしまうと考えて人間が多いでしょう?」

「まあ、そうだね」

「人間は信じたいものを信じるものよ。そして、その信じたものが真実になる。それなら、大勢の人が信じている天国か地獄に私たちの魂は行くのよ」

「……そうかな」

「ええ、そうよ。真冬も信じたいことが出来れば、きっと分かるわ。……私は、死んでからも真冬と同じところに行けると思いたいもの」


 右手を塗りながら、私は考える。信じたいことが真実になる、のならば。確かに、私も千夏と同じところに行きたいなと思う。きっと、私と彼女はずっと一緒にはいられないだろうから。


「千夏は……本当にそういうの考えるの好きだよね。割と答えは適当だし、自分の答えを持ってても私に聞いてきたりするけど」

「ええ。考えるのは楽しいわ。真冬と一緒にいない時は暇だもの。真冬とお喋りするのが、一番楽しい」


 その言葉に私は思わず、眉を寄せてしまった。千夏ともっと一緒にいられたら、と思いながらもそれを叶えられない罪悪感が、しくしくと私の胸を痛める。


「それにね」


 千夏は幸せそうな顔で私を見る。


「真冬は、ちょっとミステリアスな私のこと好きでしょ。だから、私も頑張ってるのよ?」


 私の喉からぐぅ、という音が漏れた。


「……そんなことしなくても、千夏のことは……す、すき、だから」


 どもる私を楽しそうに見つめた千夏は私の手を取る。


「次は私の番。ネイルを塗らせて。私とお揃いでいいでしょう? 真冬とパーソナルカラーが同じで良かったわ」


 いつだって、私の欲しい言葉をくれる千夏は、私にとっての太陽だった。ずっと彼女と一緒にいたかった。それが無理だろうと心の隅で思っていたとしても。


「うん。よろしくね、千夏」


 私の愛しい、太陽のような恋人である千夏が死んでしまったのは、その数日後のことだった。呆気ない、私のいない所での死だった。通夜と葬式には行けた。でも、死に際には立ち会えなかったせいなのか、私は千夏の死を受け入れきれなかった。棺桶の中にいる千夏は寝ているような顔をしていて、病室で昼寝している時とおんなじで。

 私は千夏がこのまま燃やされてしまうことに堪えられなかった。こんなにも美しく、ただ目を閉じているだけにしか見えない千夏が、ぼうぼうと熱い炎にまかれて炭になり、灰になって、小さな箸で摘める程度の骨だけになってしまうだなんて。

 だから、千夏のご両親にお願いして、彼女の火葬日を延期してもらった。二人は戸惑っていたけれど、私と千夏の関係を知っていた。私も何度も二人と話したことがある。なので、許してもらえた。

 けれど、火葬日を延期してもらったら今度は別の問題も出てきた。人間の体は、腐ってしまう。千夏が死んだことを受け入れきれていない私ではあったけれど、死んだ事実は理解出来ていた。どうしようかと悩んだ末、私はエンバーミングを選択した。エンバーミングとは、遺体に殺菌や消毒、そして防腐処理を行って化粧を施すというものだ。これならば、千夏が腐ってしまう心配はしなくて済む。でも、エンバーミングの効果は永遠ではない。約五十日。それが、私に与えられた時間だった。


 綺麗に化粧をされた千夏は、本当にただ眠っているだけのように見えた。今すぐにでも、彼女が起き上がって、おはようと私の大好きな声で言ってくれるんじゃあないかと思ってしまう。そうすれば、最近練習し始めた料理なんかを振る舞ってあげられるのに。千夏に食べてほしくって、こっそり練習していたのに。

 私はそうっと、千夏の頬に触れる。冷たい。彼女の体温はいつも低めで、私の額に触れて癒してくれた。細くて折れそうな白い指の先に、私と揃いの色が纏われていることに密やかな優越感を抱いていた。ただ、それだけで幸せだった。どうして、千夏は起きてくれないのだろう、なんてことを考えてしまう内は、私は千夏の死を受け入れられていない。

 私の指先のラベンダーの輝きだけが、唯一変わらないものだった。

 最低限の生活だけをしたら、後は千夏のことを眺めて過ごして。ようやく一ヶ月経った頃に私は、ほんの少しばかり千夏が死んでしまったことを飲み込むことが出来た。あと二十日ぐらい、穏やかに生活をしようかなと思い始めた頃になって、私は世界で何が起きているのかを理解したのである。絶望とは恐ろしいものだ。無意味にテレビをつけていたというのに、全く認識出来ていなかった。窓の外から悲鳴も聞こえていただろうに。食材から日用品まで何でも買い貯めていたおかげで、私は外に出ることもなかったので仕方ないことではあるかもしれないが。

 たった一ヶ月で、千夏と私のいる部屋の外はゾンビでいっぱいになっていた。


「そして、私は千夏を助手席に乗せてドライブに出たんだよね」


 千夏に語りかけるように私は呟く。答えが返ってこないのは分かりきってはいるのだけれど、一々心臓を握られたような気分になってしまった。それでも、千夏に話しかけるのをやめられない。千夏の魂がそこには無いと知っているのに。


「あの時は大変だったな。ネットで慌てて現状を調べてさあ」


 ひどく、感染力の強いウイルスだったらしい。しかも、タチが悪いのは潜伏期間が長かったことだ。ウイルスの専門家すら、どんどんゾンビになってしまうものだからはっきりとした情報は分からない。断片的に手に入れた情報を繋ぎ合わせた。

 広まったゾンビウイルスは、映画なんかのフィクションでよくあるものだった。確かに死体の筈なのに動き、人間に噛み付く。感染者は、感染してから発症するまでの長い期間にじわりじわりとウイルスに体が適合していく。


「……一番の特徴は、体の弱っている人間がゾンビウイルスに適合していくと体が強くなっていくってことなんだってさ」


 私は、ふぅと息を吐き出す。確かに千夏が死んでしまう少し前から、退院している人間が増えたのだという話を聞いた覚えがある。


「潜伏期間が長いってのも特徴だよね」


 ゾンビパニックなんてものが起きているのにネットが繋がっていて、普通に使えたのはそのおかげだった。ちょっと運転するだけでゾンビを轢いてしまう狂った世界だっていうのに、私がどうにかドライブを続けられているのも同じ理由だ。まだ、ぎりぎり世界は崩壊しきっていない。ライフラインがほんの少し生きているのだ。それも後少しの話だとは思うけれども。

 だからこそ、私は事態を把握してから急いで車に千夏と乗って、運転し始めたのである。


「……千夏はよくさぁ、私と旅行してみたいって言ってたよね。近所でもいいから、観光名所を巡ってみたいって」


 難しいかもよ、と言う私の手を両手で包んだ千夏は、諦めたくないと返してきた。私は無理だよと言ったのに千夏は絶対に諦めてはくれなかった。いつだってそうだった。希望を決して捨てようとはしない千夏が眩しくて、じくじくと瞳の真ん中が灼かれてしまいそうだった。私は、とっくの昔に何もかもを諦めていたのに。千夏は、私に希望を見せ続けてくれた。それが、とてもとても苦しくて憎らしくって、それなら千夏が私と代わってよと言ってしまった日すらあったのに、千夏は諦めなかった。


 ――私、真冬が好きなの。あなたが諦めてしまってもいいわ。その代わりに私があなたを諦めないから。絶対に、私はあなたとドライブデートをするの。その為にお見舞いの時間を削って免許を取ったわ。デートコースだって下見済みよ。あなたは、この辺りを散歩したこともないでしょう。私が完璧にエスコートしてみせる。真冬が死んだって、私は別れないわ。あなたが本当に私を嫌いになるまでね。だから、諦めて?


 ひどく諦めの悪い女だったのだ。千夏という女は。そして、私はそんな千夏を愛していた。

 なのに、私よりも先に死んでしまった。車にあっさりと轢かれて。私と一緒に生きたいって言ってよ、なんて強請っておきながら、私より先に千夏は死んだのだ! 本当に酷い話だった。私が彼女を置いていく筈だったのに。彼女が私を諦めない筈だったのに。

 外にいる大量のゾンビなんかよりも千夏の方が余程生きているように見える。それなのに、彼女は死んでしまった。私の愛した彼女の冷たい手のひらには、もう二度と触れられない。


「魂の話、前にしたよね。千夏は天国か地獄に行くって言ってた。私と同じところに行きたいって、言ってくれたよね」


 千夏の魂は、今どちらにいるのだろう。人間は信じたいものを信じる。それが、真実になる。それならば。


「千夏はきっと、天国にいる。私のことを諦めないって言って、私を救ってくれたのは、私に希望を与え続けたのは、千夏だ」


 全部諦めた方が、楽だったのにとは何度も思ったけれども、それでも私は千夏が好きだ。存在に救われていた。


「……世界がこんな風になってしまってから考えちゃったんだけど、ゾンビの魂って何処に行くと思う?」


 千夏の答えが知りたかった。彼女の考えが、病室という狭い世界しか知らない私にとっての唯一の指標だったから。けれども、彼女はもういない。私の指先にラベンダーが塗られることもない。


「私、何処にも行けないんじゃあないかって思ったんだ」


 地上を彷徨う死体の中に閉じ込められてしまうのではないかと、考えてしまった。そうなるのではないかと信じて、しまった。

 ハンドルをぎゅっと握りしめて、私は深呼吸をする。今の私は千夏が生きていたらびっくりしてしまうほど、健康だった。千夏がゾンビになっていたら、あるいは私がゾンビウイルスのせいで体調が良くならなければ。私は憂なく彼女と同じところに行けたのに。千夏とならば、天国でも地獄でも良かったし、地上を永遠に彷徨い続けたって構わなかった。


「千夏のばか」


 車に乗り込むまでに大量のゾンビを見た。そして、大量の動かない死体も。

 ゾンビウイルスに感染しても、ゾンビに完全になる前に死ねば、人間として死ねる。そういう話が、ネットでは出回っていた。絶望とは恐ろしいものだ。冷静な判断を失わせる。唯一の救いは、その話は嘘ではなかったということだろう。なにせ、ゾンビにならない死体が大量に転がっている。


「私、天国で千夏にドライブデート先にしちゃったって自慢するって決めたんだ」


 時折、視界が歪む。意識が飛びそうになる。外には死体しかいなくって、ここにはゾンビもどきの私と千夏の死体しかないから、事故が起きても平気。


「もうさぁ、支離滅裂なのは分かってるんだけど。千夏を驚かせたいし、喜ばせたい。私に諦めていいって言いながら、与えてきた希望のおかげで、最後の夢ぐらい叶えたいって思えたんだよって教えたい」


 ゾンビになったら、千夏と同じところに行けない。いつゾンビになるか分からないけれど、ドライブデートしたかった千夏の希望を叶えたい。怖くても諦めたくない。


「千夏の考えてたデートコースなんて聞いてないけど、どうせ最後はラベンダーが咲いてるところでしょ。千夏、私がラベンダー好きだって思ってたもんね」


 肌に合う色だから、選んでただけだった。でも、千夏がそう思っていたから、本当に好きになった。


「この辺りは詳しくないけど、ラベンダーのある有名なところがあるのは知ってる」


 本当に辿り着けるかは分からないけど、辿り着けると信じている。

 そうしてそこで私がすべきことをして、天国に行けると信じている。

 天国で、千夏の冷たい手のひらに触れてから、私の指先にラベンダーを塗ってくれると信じている。


「わあ……綺麗」


 鈍くなった色覚でも分かる鮮やかな紫に私は目を細めた。

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ゾンビにならなかった貴女 鷹見津さくら @takami84

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