小役人のお仕事
岡田旬
小役人のお仕事
東京の街には空き家が増えた。
いやむしろ場所によっては空き家の立ち並ぶ街並みの一角に、今も人が住む家がある。
そう言っても過言ではない有様だ。
国木田独歩が“武蔵野”を書いた頃は渋谷もまだ村で、雑木林や畑ばかりだったらしい。
『春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑蔭に紅葉に、さまざまの光景を呈する』*国木田独歩:武蔵野より
こうして毎日歩いていると、渋谷もそう遠くない将来、独歩が書き残した風情を取り戻すかもしれない。
そのように思えてくるがどうだろう。
私は区役所に勤めていて、区内の空き家を調べて回る仕事についている。
子供の時分から街歩きは好きだが、仕事となると話は別だ。
仕事である以上、勝手気ままに歩き回るわけにはいかない。
10メートル四方の格子状のマス目が入った地図を片手に、空き家を調べて回らなければならない。
地図の北西の隅から初めて南東の隅まで、西から東へ、東から西へとマス目を潰していく。
役所の中でこの仕事についているのは私一人なので、九時から五時まで区内を歩き回っている。
荒天の日は、デスクで報告書をまとめると決めているが、それ以外の日は屋外で歩き詰めだ。
大きな屋敷の草むしりは難儀だという。
草むしりは春に始める。
何日もかけて屋敷のぐるりの草をむしる。
ようやくのことスタート地点に戻ると、再び新しい草が生えている。
そうなると、草むしりの次のターンを始めなければならない。
何度も草むしりのターンを繰り返すうちに、季節は移ろいやがて夏から秋へと廻る。
結局、春から秋まで延々と草をむしり続けて時が過ぎるのだそうだ。
私の作業も大きな屋敷の草むしりと同じだ。
地図の北西の隅から始める空き家調べが南東の隅までくる時は必ず来る。
だがそれで仕事が終わることはない。
なぜならその頃には必ず新しい空き家が増えているのだ。
当然のこと。
新しく増えた空き家を調べて記録しなければならない。
私は南東の隅から北西の隅に舞い戻り、再びマス目を一から調査し直す。
要は、草むしりのスタート地点が地図の北西の隅だと言うことだ。
空き家の調査はその本質に於いて、草むしりと何ら変わる事がない。
私ときたら、まるで不条理劇の主人公のようだがこれも仕事である。
足で調査し報告書をまとめてファイルする。
私がまとめた調査書のファイルはキャビネットの一角を占め、今なお絶賛増殖中だ。
私は毎日、子供や老人どころか、人っ子一人見かけることのない公園で弁当を使う。
春は桜が見事だったり、欅の新緑が眩しかったりする。
夏ともなればうるさい程にセミが鳴くし、おなじみ武蔵野の逃げ水には毎日の様にお目にかかる。
秋には紅葉が楽しめて冬の木枯らしにだってそれなりの風情はある。
公園によって異なるが四季折々の自然は、東京と言ってもそれなりに実感できるものだ。
東京と言えば緑が少なそうな気がする。
ところが、こうして毎日違う公園で昼休みを取っているとなかなかどうして。
東京の公園だってそれはそれで、歌心でもあれば句帳に書き込む題材に事欠かない。
それくらいの気立ての良さはある。
昨日の休みは久々に神田まで足を延ばしてみた。
抜けるような青空の下。
江戸湾は群青色に染まり、波頭が陽光で輝いていた。
明神様の男坂から遠望すると、海上から立ち上がる少し傾いだスカイツリーが思いの他近くに見えた。
潮風は心地良く、海鳥の鳴く声が長閑で、休日モードになっている私の意識は、更に弛緩した。
小役人のお仕事 岡田旬 @Starrynight1958
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