夜。向日葵の海に

蘇芳ぽかり

手紙



 拝啓。

 格好つけるためにそう書きましたが、誰宛なのかはわかっていません。僕がこの手紙を投げたはずの、向日葵ひまわり畑の土地主さんでしょうか。向日葵を手折って持ち帰ろうと畑に足を踏み入れた人でしょうか。それとも別の誰かでしょうか。別に誰でも良いのです。誰でも良いので、宛先は「この手紙を拾った方へ」とでも書いておくことにします。これから少しだけ、僕の感傷にお付き合い下さい。



 この手紙を書こうと思ったきっかけは、書いている今から1週間ほど前の8月25日にあります。

 強くはないけれど少し風のある夜でした。星や飛行機が点々と濃紺の空に光っていましたが、月の見えない夜でした。9時に駅前の塾を出た僕は、そこからいつものようにバスに乗るのではなく、ただ歩いていました。知っているとは思いますが、この辺りは大通りから外れればもう田舎です。街灯はまばらで、今にも自分が闇に溶け込んでいきそうな夜の中を、僕は死に場所を探して歩いていました。

 いえ、白状すると、そんな前向きな思いではなかったと思います。

 「死にたい」というのは後ろ向きではありますが、案外前向きな言い方だとは思いませんか。僕が持っていたのはそうではなくて、ただ「もうどこに行っちゃってもいいな」「どうなってもいいな」とひたすらに消極的な考えでした。死にたい、なんてはっきりとした形はなくて、それでもどこかに消えたかったのです。

 塾の夏期講習が最後の日で、それと同時に前に受けた模試の結果が返って来た日でした。判定が今までBだったのにDに落ちていました。

 そんなことで、と思うかもしれません。でも、僕は疲れていたのです。ちゃんと生きるためにはちゃんとした大人に、ちゃんとした社会人になることが必要で、そのためにちゃんとした大学に入りたくて、そのためにちゃんと勉強をして、その「ちゃんとしなければいけない」という終わりない連鎖にもがいていて。自分なりに一生懸命にやって、でもそれは形にならなくて。何の意味があるんだろう、もう良くない?と、全てを投げ出したくなったんです。

 街灯に照らし出された自動販売機の前に立ち止まって、今まで飲んだことのなかったエナジードリンクを買いました。白々しい光を放つボタンを押すと、がこん、と無造作な音を立ててそれは落ちてきました。クラスや塾の友達連中がよく飲んでいる派手な色の缶のものです。普通のお茶やジュースよりも少し高いから手を出したことがなかったんです。甘ったるくて不味くて、無理やり口に含んだ二口目を飲み込めずに、道路横の排水溝に吐き出して、僕は少しだけ泣きました。情けなく道端にしゃがみ込んだ僕の横を、自転車に乗った人が邪魔そうに見下ろしながら通り過ぎてゆきました。わけもなく溢れた涙の意味は自分でもよくわからなかった。久しく泣いたことなんてなかったのに、女々しいなと自分でも可笑しかったです。

 中身が大量に残っている缶と背負っていたリュックサックを自販機に立てかけるように置いて、手ぶらで歩きました。体は少しも軽くなんてなりませんでした。風が体に纏わりつき、耳元でうるさく唸りました。時々すれ違う車のヘッドライトに照らされるたび、墨で塗りつぶしたような闇にようやく滲みかけていた僕の輪郭線が、もとに引き戻されるような気がしました。

 そろそろ、歩くのもやめよう。もう疲れたから。

 大輪の向日葵を見つけたのは、そんな時です。

 ふと顔を上げた時に真横にあったそれが何であるのか、最初はわかりませんでした。たくさんの何かがこちらを見ている、と目を凝らして、ようやくわかりました。闇の中で黄色さを失った何千という向日葵が、空き地の中に隙間なく立っていたのです。一つの意志を持っているかのように風に大きく揺れてさざめくそれは、まるで巨大な獣のようでした。ばらばらな方向に顔を向けてうごめく向日葵の大群を、僕は立ち止まって呆けたように眺めました。美しいとも気味悪いとも思いませんでした。ただ怖いと感じた。夜の海を見たことがありますか。房総旅行に行った時に一度、僕は見たことがあります。暗い中に引き摺り込もうとするかのように、小さい自分を飲み込もうとするかのように口を開けて待っている、そんな感じです。

 僕には向日葵畑が、黒々とした海のように見えたのです。

 だから、なんででしょう。僕はその日死ななかった。

 あまりにも綺麗で美しい絵を見て死にたくなる感覚と、似ているかもしれません。または全然似てないかも。僕は知ってしまったのだと思います。真っ暗闇の獣は、気づいていなくたってすぐそばにいて、それはいつでも僕を飲み込もうと見つめている。僕はいつだって黒い深淵を覗き込むことができる。だから、まあ、まだいいかって。

 雑でしょう? でも僕らの年代なんて、きっとそんなものです。

 あと何年生きるのかはわかりません。何日生きるかもわかりません。いつか今日死のうとしたことをバカだと言って笑うかもしれないし、今日死ななかったことを後悔するかもしれません。自販機まで戻って、置いた状態のままあることに安堵しながらリュックを拾い上げて、何事もなかったように家へと向かった。「今日は遅かったね」なんて親に言われて、「数学のわからないところの解き方を教えてもらってたから」なんて答えた、そんな自分がこれからどこへと向かうのか。辿り着くのか。何もわからないのです。麻酔の後のような鈍い痛みを感じながら、線の曖昧な世界を漂っています。



 「ちゃんと」生きなくてもいいのなら、どれほど楽でしょうか。



 先にも書きました。この手紙を読むのは誰であってもいいのです。ただ知っておいて欲しい。勝手な願いですが、こんな僕が今1人の人間として生きていることを誰かが知っていてくれるのなら、……少しだけ、寂しくない気がします。ただ、そんな気がするのです。


 明けるかはわからない夜の中を、もう少しだけ歩いてみます。この決意とも言えないような漠然とした思いを、向日葵の海に寄せて。







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夜。向日葵の海に 蘇芳ぽかり @magatsume

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