第3話 「ねえ、この子たちが私たちのもとへ来たことは、偶然じゃないと思うんです」

 誰だろう、と考えるよりも先に、僕は動いていました。彼女の抱える竹刀袋が捲れて中身が見えていました。あれは日本刀の柄の部分で間違いはないでしょう。目の前の人間が単に、偶然この場を通った日本刀を持っただけの女性であったとしても、昨日の偽警察官たちのような、刀を持つ者に対する刺客であったとしても、どちらでもいいのです。彼女が武器を持っている以上、僕が丸腰であることは避けねばならない事態でした。

 しゃがみ込んだ僕は女性と刀から目を離さず、手を伸ばして立てかけておいた自分の武器を掴もうとしました。けれど、そこには何もありません。一瞬の眼球運動で右手の先を見てみると、まさか刀が一人でに動いたのか、僕の記憶よりも数十センチ先にそれはありました。


「あの、その刀は、あなたのですか」


 声を震わせて尋ねてきた彼女からは、とてもではないですが脅威を感じられませんでした。高校生と思われる若い見た目に、好奇心に負けながらも緊張した表情と、無骨な日本刀の組み合わせはなんとも異質でありました。

 僕は自衛しようと動かしていた手を引っ込めて、彼女を驚かせないようにゆっくりと立ち上がりました。


「ここで拾ったから、返しに来たんだ」


 正直に答えると、彼女は少しだけ落胆したように見えました。てっきり探していたのかと思っていたのですが、反応を見ると、特にそれが彼女の持ち物だということはなさそうでした。けれど、強く引き合っている二本の刀が無関係なはずはなく、そして、片方はしっかりと彼女の所有物のようです。きっと僕に親近感、もしかすれば運命的なものすら感じていたのかもしれません。

 それでも言葉の通り、僕はこの刀を拾っただけに過ぎず、たった今、それを手放したのです。


「これが何か知っていますか?」


 ですから、彼女の抱えるその疑問に応えられるだけの知識も持ち合わせてはいませんでした。むしろ僕の方こそ知りたいのだという感情すらもあったのですが、質問されてしまったのであれば、彼女もやはり答えられないのでしょう。


「握ると速く動ける話す刀、ということしか」


 ほんの一分にも満たない交流の中で、僕は不用意にも警戒心を緩めてしまっていました。慎重にならなければいけないと自省をしたのは、夢にでも見たのかと疑う出来事を話せる相手が現れたという喜びに、口が踊らされてしまったのと同時でした。

 もし、彼女が持つのが単なる日本刀で、僕が手にしたものとは違い、美しい刃と鋭い切れ味しか持ち合わせていないとすれば、彼女は僕を妄想の上手い人だと持て囃してくれることでしょう。


「私の方は違います」


 徐に柄を握る痩せた手が、多少の苦労をしながら刀身を引き抜こうとしています。僕ですら重たいと両手で振り回した代物ですから、華奢な彼女が持ち歩くのは簡単ではなかったでしょう。

 ようやく銀の色が見えたとき、夕の陽が沈みながら、一際の橙を歌い始めました。刃はまるでよく手入れされた鏡面のようで、正面に立つ僕や周囲を呑む黄昏の空気すらも自身に写し取っていきます。

 刃渡り数センチの絶景をぼんやりと眺めていると、次第に周囲と刀との境界が曖昧になっていく感覚がありました。どれだけ目を凝らしてみても、見分けられるどころか、次の瞬間には完全に刀は消失してしまいました。


 それだけでは飽き足らず、消失は伝播していきます。刀を覆っていた竹刀袋と柄を握っていた右腕、そこから剣の全体を支えていた左腕と続いていき、胴体に入ってからは瞬きをする暇もありませんでした。

 ついに人ひとりが丸々消えてしまったので、僕は呆然とする他にありませんでした。


「私は透明になれるんです」


 何もないはずのところから声が聞こえます。本来ではあり得ないはずの現象という意味では僕が体験したものと同じですが、個人的にはこちらの方がより超常である気がしました。


「ねえ、この子たちが私たちのもとへ来たことは、偶然じゃないと思うんです」


 かたり、と納刀の音がしたと同時に、彼女は再び現れました。随分、愛着のある言い方をする人だと思いましたが、名乗られた手前、その相手が刀であろうとも個人として扱うことは当然なのかもしれません。

 そして、名前も知らない若い彼女の言うことも、間違っていないのかもしれませんでした。


「この子は月白千歳言明。千歳と呼んでいます」


 本人よりも早く日本刀の名前の方を知ることになるとは予想外でした。柄に巻かれた皮や鍔は、僕の傍らに転がっているそれによく似ています。名前に同じ言葉と、外観には同じ意匠が込められているので、やはりこの二振りは兄弟作のようなものなのでしょう。


「こっちはたしか、赤村伊織言明」

「じゃあ、伊織ですね」


 早速、呼び名を確定させてしまった彼女に微笑みを返しつつ、僕は倒れてしまっている伊織を握りました。


「赤村伊織言明と月白千歳言明を発見しました」


 そうして下を向いた視界の端で、携帯電話を耳に当てる姿が見えました。僕よりも背の高い男性が、低い声で電話をしているようです。その口から僕たちが握る刀の名前が飛び出さなければ、僕はその光景を気にも留めなかったでしょう。

僕にとっては、都合のいい出来事でした。手放したいと思っていたところに、本来の所有者らしき人物が現れてくれたのです。その人の関係者を殺害していることが気がかりですが、ろくな説明もなく発砲したのは向こうなので、訳を話せば納得してくれるかもしれません。


「――――あ」


 それは僕の意思だったのでしょうか。咄嗟に名前も知らない女子を強く突き飛ばし、僕自身も身を大きく屈めました。頭髪の先端を何かが擦りながら通り過ぎていく音がして、この行動をとらなかった場合の未来を想像し、戦慄しました。


「な、にを」

「乱暴でごめん。あなたはその刀で透明になって、できるだけ遠くへ逃げて」


 尻もちをついて痛がった声を上げる彼女に、本当はもっと丁寧に謝罪をしたいものですが、どうやら今は、あの男から目を離すわけにはいかないようでした。

 先ほども考えたことです。相手が武器を握っているのなら、こちらが丸腰でいるのは避けねばならない事態です。僕は急速に乾く喉で口内の唾液を飲み下し、刀の柄をしっかりと握りました。


「頼むぞ、伊織」


 その呼びかけに応えたのは声ではなく、全身に迸る血流にも似た熱でした。

 殺されそうになっているのであれば、身を守るために闘わなければなりません。僕自身と世界の速度がずれていくことを認識し、鞘を捨てて、両手で握った伊織の切っ先を敵に向けます。すると、男は楽しそうに、口元に笑みを携えました。


「血の気が多いな、青年」


 その低い声は、先ほどの電話のときから口調以外、何も変わっていません。他人に凶器を向けられているという状況で、完全に平静を保っているということです。

彼我の距離は、耳を澄まさずとも声が明瞭に聞こえるので、遠いわけではありません。それでも、僕が男を斬るためには数歩、踏み込む必要があるでしょう。しかし、今さっき、僕と背後の彼女は一度に首を狙われました。男が動いた様子はありません。

僕と彼女が持つ刀が目的で、刀について知っている風でした。彼もまた、特殊な力を持っていることは容易に予想ができます。


 僕に刃を向けられても動じない。自身にも超常の力がある上に、それを使いなれているのでしょうか。何はどうであれ、つまり、剣術も習っておらず、力の詳細も知らない人間に負けるわけがないと考えているに違いありません。


「僕はやれるぞ」


 それは独り言です。返答は要らず、男が口を利けなくなっても問題はありません。激しく地面を蹴った僕は、昨日の感触を思い出していました。人体を刃が押し通る、あの感じ。ほとんど抵抗もなく、豆腐を切ったような。


 耳に不躾な金属音が爆ぜました。男の横を通り過ぎて着地した僕の手には、期待したものとは違い、硬い物質に弾き返された感覚が残っていました。首は落とせませんでしたが、腹の立つ笑い顔を引っ込ませることはできたようです。

 彼の頬に、一筋の切り傷が刻まれていました。


「本当に、血の気が多いみたいだ」

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流れ出る血の量と比例するならば、僕はあなたを世界でいちばん愛していました。 詩人(ことり) @kotori_yy

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