第2話 だって、このリビングには屍体が三つも転がっている。

 昨晩、僕が斬殺した三つの屍体を確認してみようと思い立ったはいいものの、いざあのビル間に行ってみると、屍体どころか血痕ひとつ綺麗さっぱり残ってはいませんでした。

 僕は赤村伊織言明を持ったまま家に逃げ帰ってから、あの出来事は夢だったんだろうかと考え耽るために白湯を一椀、胃に流し込んでみました。ところが、考えても考えても、あれは混じりっ気無しの現実であったことが感ぜられるだけだったのです。そもそも凶器である日本刀がたった今でも傍に寝かせられているのですから、そんなことをせずとも理解はできたはずでした。

 僕の体には、初めて人を殺したときの手応えが刻み込まれている、ということは特にありませんでした。それは恐らく、あまりに刀の切れ味が良かったためでしょう。抵抗感は殆どなく、例えるのであれば豆腐を手の上で賽の目状に切ったような感覚です。気分は立派に大剣豪でありました。

 僕は自首するべきか悩みました。殺人を犯したのです。犯罪なのですから、罪を償う必要があるでしょう。

 けれど、今日はもう、どうしても気力が湧き上がってくる気はしませんでした。屍体を確認してから、小説を読み耽り、それからベッドにしなだれかかって午後を迎えました。ダリに描かれた時計も、こんな風に空虚な休日を過ごしたりしたのでしょうか。

 無機物に対しての親近感は捨てられないまま、僕は小説の問題の部分であるページを開きました。かの風俗嬢は、会社員の男とは別の男と愛を育んでいました。会社員は失恋をしてしまったのです。ページを捲る指はそこから動かず、硬直はやがて全身へと広がって今に至ります。

 しかし、こんな風に時間を過ごすのは、どうしたところで堕落と呼ばれることでしょうから、私は力の入らない筋組織を叱りつけるが如く、太ももを一度だけ叩いてから立ち上がりました。

 さて、持ち帰った日本刀。そして昨日の出来事。消えた屍体。僕などが考えたところで及ばない事柄が進行しているのは明瞭ではありますが、何はともあれ、やはり考えなければなりません。

 日本刀の名は赤村伊織言明。言葉を話す日本刀ですが、あれから何度か握ってみても声は聞こえません。特殊な状況でないと発声ができないのかもしれません。しかし、声こそ聞こえないものの、自身の速度が上昇する現象は、柄を握れば起こりました。

 早計かもしれませんが、僕はとりあえず、これは握ると速く動ける代物であると認識することにしました。まるでドーピングのようです。

 次に考えるべきは、やはり昨日の夜、僕の身に起こったことです。彼の三人が警官の格好をしていたのは、人を追っていても怪しくない職業だからかもしれません。追っている相手が刃物を所持しているのであれば、尚更です。

 では、追われていた男性は何者だったのでしょう。この日本刀の本来の持ち主だと考えるのが自然ですが、盗んだものかもしれないし、持ち主に返す予定だったのかもしれません。いずれにしても、拳銃で撃たれるような事態です。生半可なことではないというのは、誰が見ても明らかでした。

 僕はそこに首を突っ込んだ挙句、追手を完膚無きまでに斬り殺してしまったというわけです。自分の短絡さが嫌になります。


 この日本刀を手放せば元の生活に戻ることができるのでしょうか。僕はすでに物事に浅からず関わってしまっている予感も持っていましたが、ゆったりとした生活が僕の理想でありました。

 洗面所から大きなバスタオルを一枚、日本刀に被せました。こんなものをそのまま握って外に出れば、近所で有名なサムライになってしまうこと請け合いです。あまり目立たない方がいいでしょうし、何より、サムライの中身がこんな冴えない男だなんて、夢を抱く人々に合わせる顔がありません。

 薄汚れたスニーカーの紐は括ったままです。サンダルを履くようにして足を入れると、僕は再び、あのビル間への道を歩き始めました。


 夕暮れすら沈み始めたころ。到着してから、もしかすればと思いながら瞬きをしてみても、やはり昨晩のことが嘘であったようにそこには何もありません。自分の罪ごと消えたことに多少の安堵を感じつつ、僕はバスタオルを剥がした日本刀をビル壁に立てかけました。これで、この刀と僕は無関係になり、二度と常識を逸れた速度で動くことも、頸動脈から血液が噴出する光景を見ることもないでしょう。

 僕が奪ってしまった三つの命に両手を合わせて黙祷を捧げました。途中、バランスが悪かったのか倒れてしまった日本刀に集中力を削がれながらも、一人に対して十秒、合計で三十秒ほど、魂に対して懺悔を送りました。

 そして、ゆっくりと目を開けると、そこには女性が立っていました。

 

 

 *

 

 

 清々しい朝だった。私はこんなに良い朝を体験したことがない。たっぷり十時間近くも眠っていたのに、頬に走る鋭い痛みで目を覚ますこともなかった。

 

 カーテンを開けてみる。太陽光が元気いっぱいに部屋に飛び込んできた。カーテンレールの音は、速く動かしたのに思っていたよりも小さかった。けれど、こんな極めて僅かな音すらも怖かった。

 

 今は怖くない。怖がる必要が無くなったから、階段を降りるときも気にせずに音を立てられる。生意気だと言われる心配をせず、好きな勢いで扉を開けられる。見たいテレビ番組を見られるし、冷蔵庫に好きなものを入れられる。椅子を引くとき、フローリングの傷を気にしなくていい。埃が舞うことなんて無視して好きなときに立ち上がっていい。

 だって、このリビングには屍体が三つも転がっている。一つは父、一つは義母、一つは義兄。義母だけ身長が低いから、まさしく川の字である。

 もちろん、私が殺した。不思議な日本刀を手に入れたとき、なによりも最初に、私は私を縛り付けるしがらみを抹殺しなければならないと確信した。

 この日本刀は、私に気付きと勇気を与えてくれた。何もしないのであれば何も変わらない。私は自分自身で、地獄から抜け出したのだ。

 

 世間体は気にするくせに私の気持ちや体のことは何も考えない家族はいない。平日の昼間に制服を身に纏わず、義兄の竹刀袋を勝手に持ち出して、玄関を出て左に曲がる私を怒鳴りつける人たちはもういない。

 それだけでこんなに足が軽い。いっそのこと浮かび上がってしまいそうなほどに。

 その日、私は高校に行かなかった。行く必要が無いと思ったからだ。紺色のブレザーも、グレーのスカートも、丈夫さだけが取り柄の鞄も。私の荒れた肌や傷んだ髪を見て、陰口を叩くだけの人間も、全てが私をあの空間から遠ざける。


 財布と刀だけを持って、私は駅に走った。それから新幹線に乗った。300km/hで窓外が後ろに飛んでいく様を見てみたかった。


 きっと私が悪いんだと考えていたことすらあったけれど、自動扉が開いたことで起こった風が私の表面を舐めていくのと同時に、そんな馬鹿な思考も吹き飛ばしていった。遠く離れた私の地元と違って、東京のショッピングモールは、平日の昼間だというのに人で溢れている。その人たちのうち、一人は私と同じような境遇の誰かがいるかもしれないと考える。

 だからと言って、何をするわけでもない。突然、善意が暴走して一人一人に悩みを訊いていくような行動力は私にない。たとえ私のような人間が現れても、私はきっと自分が泥中から這い出られたことを喜ぶあまり、その誰かが眼前一センチに居ても気にならないのだろう。


 その喜びをもたらしてくれた彼女に、まずは何よりも感謝をしなければならない。

 月白千歳言明。それは彼女が自分から言った名前で、正直に聞き入れた私はこの不思議な日本刀のことを千歳と呼んでいる。出会ったのは、家に帰りたくないときに訪れる林の中だった。木の幹にひっそりともたれかかっていたところを拾ってみた。興味本位で持ち上げてみるとかなりの重さだったけれど、まさか本物だとは思っていなかったし、当然、本物すらも超えた妖刀だなんて想像していなかった。

 そんな名前が頭の内部で反響したのは、無性に興味を惹かれた私が千歳を握った途端のことだった。名前と同時に、彼女自身の衝動にも思える何かが、手のひらから体内に染み入っていくことも感じていた。


 背中を突き押されるような勢いのまま、食卓を囲んでいた家族を三人、続けて切り倒した。体のどこをどうやって切ったのかなんて覚えていなかったし、血みどろになった死体の細部を確認しようとも思えなかった。

 罪悪感なんてない。あるわけがない。私が味わってきた屈辱の全てを清算するには、あの三人がただ死ぬだけでは足りなかった。足りなかったというのに、あのときの私はそんな風に頭が回らず、あの人たちに恐怖を感じさせる時間も与えないまま、殺してしまった。

 

「もったいない」


 私の意思を経由せずに滑り出た声に、隣を通った女性が一瞬、こちらを訝しんだ。その人は左手に服屋の紙袋を提げていて、右手を小さな子どもと繋いでいる。綺麗な身なりで、髪も肌も良く手入れされているようだった。きっと成長途中の息子の、日々更新されていく体型に合わせて服を買い足しにきたんだろう。


 途端にモール全体を埋め尽くす暖房の空気の生温さが私を歓迎していないように感じて、施設内の中央にまで歩いた道を、私は引き返し始めた。ここに来た目的なんて無かったのに、ここから去る明確な理由は発生していた。

 モール内よりも幾分か温度の低い風を身に受けながら、私は駅に向かい出した。きっとこの街がいけないんだと、この街に蔓延る空気が私にとっては毒なのだと確信した。

 財布の中にあった全財産を温存なんかせず、目的地も調べずに、とにかく適当な電車に乗って、降りた駅から発進する電車にまた乗った。走り抜ける景色が見知ったものから乖離していく度、体表を覆っていた居心地の悪さが剥がされていく気がした。

 夕暮れすら沈み始めたころ、聞いたこともない駅に降りた私は、ついに次の電車に乗ることができなくなった。駅にはまばらに人がいて、けれど、その誰もが私とは違う街で生きてきた人間だった。たったそれだけで開放感は何倍にも膨らんで、野垂れ死ぬ危機に直面しているはずの私は、なぜか足取り軽くコンクリートを踏み締めた。

 ところが、電車にすら乗れない私の所持金では、どこかに泊まるどころか、夕食にあり着くことすら難しい。歩道を行く今の私にとって、薄暗くなった街を照らす飲食店の明かりは魔性だった。


「どうしよう」


 途中、何度か話しかけてもやっぱり返事の一つすらしなかった竹刀袋の中の千歳に、どうすればいいのか聞いてみる。どうせ反応は無い。自問自答を声に出しただけに過ぎない。


 そう思っていたのに、袋の紐を掛けた左肩が強く引っ張られて、私は耐え切れずによろめいた。千歳が一人でに動いてみせたと間を置かずに理解できたのは、私が彼女をただの物体ではないと認識しているからだった。


「そっちに行きたいの」


 なんとか踏みとどまった後も、千歳は絶えず左の方に反応する。具体的な行く先すら持たず、さらに数時間も彼女を連れ回した私にとって、その願望を無視するという選択肢は無いも同然だった。

 左肩の千歳を胸の前で抱き抱えて、厳密にどちらに行きたがっているのかを探る。横断歩道を渡って向かい側の歩道へ、そこから二十メートルくらい歩いて、飾り気の無い雑居ビルへ。そうしている間にも、千歳は待ち切れない子どもみたいにその力を強めていく。

 それに抗わずに辿り着いたビル間には、おおよそ予想もしていなかった光景がある。地面に横たわって、しかし確実にこちらに進んでくるもう一本の刀。そして、その横で手を合わせて目を閉じている男性。

 関わってはいけないかもと思いつつ、千歳によく似たその刀が無性に気になった。静かに静かに一歩を踏み出した直後、男性が急に瞼を開けた。


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