流れ出る血の量と比例するならば、僕はあなたを世界でいちばん愛していました。

詩人(ことり)

第1話 僕は生まれて初めて、日本刀というものを握りました。

 僕は生まれて初めて、日本刀というものを握りました。その重さは思いの外で、右手だけではこの重力に到底太刀打ちできないと確信して、次の瞬間には両の手でしっかりと、皮が綺麗に巻かれた柄の部分を握り込んでいました。


 そんな僕の前には、どういうわけか血塗れで横たわる一人の男性と、さらにその向こうに拳銃を提げた警官が三人も立っています。高らかに鼓膜を突き刺した先ほどの破裂音は、どうやらこの三人が持っている拳銃が放たれた音に間違いは無いようでした。

 野次馬根性で音の出どころを探って路地裏に足を踏み入れた僕は、この異様な事象に対して脳細胞を働かせることをやめていたように思えます。どうして男性の傍らに投げ出されていた日本刀を握ったのかも、それを持って三丁の拳銃と対峙しているのかも不明瞭でありました。


 一般的に考えれば、例えば、男が日本刀を持って暴れていると通報を受けた警察官が、危険を未然に防止するために已む無く発砲したという場面でしょう。ちょうど、目の前の警官の格好をした一人が、同じようなことを口にしていました。


「嘘だ」


 その声は驚くべきことに、手の平から浸透してきたように感じられました。若い男の声でした。目の前で地に伏せている男性の声だとも思いましたが、なんとなく違う気がしましたし、何より不思議なことに、その声が言うことが何よりも真実であると確信めいた思考が僕の頭の中にはありました。

 三人の彼らが警官でないと言うなら、この状況は途端に非常に危険なものへと様変わりしてしまいます。

 鼓動が速くなり、視界が狭くなっていきます。これは緊張状態の際に起こる身体的不良に違いありません。靄のかかった不透明な聴覚が、目の前の三人が何やら話すのを正確に捉えてはくれません。

 そうして、銃口がこちらを向きました。夜の暗がりの中、光源はコンクリートビルの細い隙間を抜けてきた消えかかった電灯の明かりだけだというのに、その黒々とした頑鉄な反射を僕の網膜は認識していました。


 とんでもないことになってしまったと思う反面、僕は最後に銃弾で貫かれて体に三つほど穴を開けるのも、まあ貴重な経験なのではないだろうかと考えました。銃殺されるというのは日本で生きていれば殆ど出会すことのない死に方でしょうから、それもまた一興である、と。

 そこで、僕は自分が何のために外出したのかを思い出しました。市民図書館に並べられている数組の男女の恋愛を描いた、四十五巻に渡る長編連続小説を借りるためです。そこの図書館では一度に五冊までしか借りることができず、否応なく九度の来訪をしなければなりません。僕がその小説の存在を知ってから今日で四度目の往復でした。あと五度、今持っている物も含めて、後二十五冊も続編が残っているではありませんか。しかも、僕が読み止まっている場面は、会社員の男と風俗嬢だった女が結ばれるか否かの瀬戸際でありましたから、死ぬわけにはいかなくなりました。


「赤村伊織言明」


 また声がしました。さっきと同じ声です。僕は、これが刀の名前であると直感で思い至りました。

 すると刀に触れている手の平から伝達する電流じみた衝撃が、肩口から胴体に入り、二手に分かれて足先と脳天を突き抜けていきました。そこには今までの二つの声とは違い、まるで絶叫とでも言うほど凄味を含んだ声明が内包されていました。


 走れ、と。


 銃弾が放出されていたと気が付いたのは、僕の体か突風に吹き圧されたように前進した後のことでした。真っ直ぐに飛んでくる弾丸に刃を当てがったのは、僕の意思だったのでしょうか。火花を描きながら弾け飛んだ銃弾を横目に、真ん中の警察官の横を通り過ぎるときに刀を振り切りました。

 僅かな抵抗感がほんのひと瞬き、僕の前進する両腕を押し返そうと画策していたようですが、もはやそんな抵抗は存在しなかったかのようにして刀身は半円を描きました。

 暫しの間、時が止まったように見えたのですが、降り始めた雨の粒がアスファルトを叩く音がすると、僕は今の停止した時計の針が錯覚だったらしいことを理解するのです。ただし、僕が錯覚を覚えてしまうほどに高速で動いてみせたのは、紛れもなく事実でした。

 振り返ると、今しがた通り過ぎた偽警官のうちの一人が糸を切られた操り人形のように崩れ落ちるのが見えました。その左脇腹にはすぅっと一本の筋が入り、血液がとめどなく溢れていきます。

 これは助からないだろうな、と眉間に皺を寄せた後、左の偽警官の首を斬り、返す刀で右の彼にも同じく刃を振るいました。二人の手にはまだ拳銃が握られていたので、こうするしか道はありませんでした。

 これで小説の続きが読める、と息を吐いたところで、僕は三人も斬り殺してしまったことを申し訳なく思ったのでした。



 *



「月白千歳言明」


 声がする。若い、けれど色味を持った女性の声だった。自身ももう少し成長すれば、このような美しい声色を発する喉に変わるのだろうか。

 服の裾で刀身を背の方から挟み込み、べっとりと付いた赤い血を拭う。一度の拭き上げで予想以上に綺麗になった、鏡面よりも透き通る刀身に自身の顔を写すと、今朝の形跡が残っている。こんなに整った顔をしているのに、なんて勿体無いことをするんだろう。

 私は床板の上に転がる三つの肉体を見下ろして、満足した。そこから溢れて還らないだろう魂の行方に満足した。こんなに心がいっぱいになったのはいつぶりだろうと考えるけれど、どうやら初めてのことだったと気付いてから、さらに満足した。

 これで私は、ようやっと鬱蒼とした草々の陰から身を乗り出すことができたのだろう。

 私は真に自由になった。この世でたった一人、私を思い通りに動かせる人間になった。こんなに素晴らしいことがあるだろうか。もう言葉で刺されることも、顔を張られることも、肌に汚い手を這わせられることも無いのだ。

 私はひさしぶりに、明日が楽しみになった。

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