暗黒屋根

暗黒後光

屋根

 観光名所として知られる秩父の山々の表面に一点の小汚い平屋があり、人並みの冒険家であれば立ち入りたくなるようなオーラを放つという点で、現代神秘の頂点ともいえる風格があった。存在以上に奇妙なのは、この荒れ果てた平屋は立派な人家であり、そこで物好きな青年と人好きな老爺が茶を飲み交わしていることだろうか。


「もうすっかり夕暮れだ」


 しみったれた居間の中央に安物の雑魚円卓が配置され、上には洋菓子とウーロン茶が置かれている。せっかくのチョコレートが夕焼けの熱で溶けてしまったことに青年は舌打ちし、畳の上で膝を叩きまくった。向かいの老人は痴態を見ようともせず、庭が暗黒に染まる様子をただ眺めていた。


「どうだい、泊まって行かないかね」

「助かります」


 大学の夏休みを利用して秩父に来た青年は、予想以上の夏の暑さと予想以上の山の高さに圧倒され、山中散歩を迷子になったことで打ちひしがれていた。それを見かけた老爺は仏の如く救いの糸を垂らし、己の住まいに引っ張ってきたのだ。


「それにしても、奇妙なところに住んでいらっしゃる」


 礼を失した感想だが、青年にしてみれば褒め言葉であった。蜘蛛の巣と野獣以外に物が無さそうな山の中でぽつんと平屋が現れているだけで奇妙なのに、汚らしい壁面と今にも崩れそうな瓦屋根が異界を演出していた。


「ああー、恥ずかしいね。三年ほど前に妻が逝ったせいで、もう手入れする人がいないんだよ」

「あなたがいるでしょうに」

「まあそうだけどもね。少なくともゴミ屋敷にしちゃいないから、上出来なんじゃないかな」


 言われてみれば、建物のあらゆる箇所が悉く汚れているのに反して、庭や家内にゴミらしいものは窺えない。青年はまったく不思議に思ったが、主な疑問は半端に几帳面な老人へ向けられていた。


 完全な暗黒が山を覆った際には和気藹々とした夕食がきったねぇ平屋にて催されており、ジジイの焼いた厚焼き卵やジジイの揚げた山菜の天ぷらは青年を大いに喜ばせた。食後は血が滴ったようなシミとカビだらけの風呂に入り、山の中で迷子になった恐怖は垢ごと溶かしてしまった。そんな次第で、青年のタダ宿は極めて満足の行くものといえた。


「こんなに気分が良いのだから、散歩にでも出かけようかな」


 それならこれを持って行きなさいと、老爺が最新型ミニ懐中電灯を手渡す。青年は玄関から暗黒の道を行き、忌々しい虫や足を切り刻む雑草などを大いに楽しんだ。とはいえ、一人で夜の山をうろつくのは心細く、車の通るような道でもないので、異界の恐怖が徐々に心内へ浸透していった。こういった心持ちのために平屋へ戻ろうとしたところ、何かが擦れる、あるいは崩れ落ちるような音が暗黒の山に響き渡った。その音が落雷にも似ていたので青年は怯え震えたものの、矮小な行動力をもって平家へ駆けて行った。


「オイどうしたんだイ」


 駆けてきた青年を見て老爺が問いをした。異質な音が轟いたと説明を受けると、山では珍しくないことだと言って、豪快に笑い飛ばした次第である。


「明日は早いんだから、もう寝なさいよ」


 青年はボロっちい家に入り、かいた汗をシャワーで洗い流すと、小便の染みついたような汚い布団へ身を入れた。


「明日も探検だ。なんかパネェ異界に入って謎めいた黒髪おかっぱ少女と恋愛しつつ肉体関係まで持って行けねえかな」


 ありったけの欲望を口に出し、青年は眠りに着こうとした。あの異質な音が再び響かなければ、そのまま寝付けた調子であった。また不快なことに、黒板を引っ掻くような大きい音で頭上から轟いてくるため、青年はたちまち身を起こした。


「これはどうしたことです!?」


 青年は大声で老人を呼びつけたが、音に打ち消されたこともあってか反応はなかった。そうして不安になったので外に出てみると、音の正体が一目で分かった。屋根の瓦が一つ一つ分裂するかのように蠢いていて、流動に規則性がなく、崩壊の土砂と創生の平地が四角の中で繰り返されているようだった。


「爺さん、どうなってんだ!」


 青年が老人を探すためにいざ家に入らんとしたところで、瓦屋根は崩壊した。崩壊といっても、全面的に崩れ落ちたのではなく、青年の立った地点の上で、局所的に崩壊したのだ。身体は瓦に包まれ、山の暗黒からでは青年の様子が窺えない。そうしている間も屋根の音は絶えなかったが、不快な喧しい音は消え失せ、代わりに洞穴へ水の流れ込むような音が環境に鳴らされていた。それから数分経つと、崩壊した瓦屋根が自発的に天へ昇ろうとするのが中断され、家の屋根部分へと戻っていった。こうして、家の外観は以前とほぼ同じ状態になった。青年の姿こそ見えないが、玄関前に置かれた懐中電灯を見れば老爺は得心するのだろう。


「いつか掃除しないとな」


 風呂場で髪を洗い流す老爺は、床のシミを気にしていた。あの青年も気にしたに違いないと思い、少しだけ恥じらいを覚えた。そうしているうちに天井から頭部へ真っ赤の液体が滴り落ちているのだが、なにせ髪を流しているために、気づくはずもなかった。

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