たよりないもの


 

 たよりないもの。


 正義。


 戦意高揚のために書かれた小説は戦時下においては賞賛され、戦後には批判の的となった。そうでしょう?

 本物の正義なんて存在しない。

 その事を私は痛いほど刻みつけられた。

 他でもない、このコロナ禍で。


 たよりないもの、


 人からの賞賛。特にSNSやネット上の。


 非難もそう。


 驚くほど多くの人が、考えもなしに誰かを非難したり賞賛することに人生を費やしている。彼らも彼らで、自分の限りある人生をこんなにも多く他人にとやかく言うために割いてきてしまったのだから、今更引っ込みがつかない、ということなのかもしれない。それとも、他人の行動に対して口だけ挟むのは簡単だから?まあそれもあるのでしょう。


 昨日まで多くのファンから言葉を尽くして賞賛されていた人が、一夜にして罵詈雑言を浴びせられる対象に成り下がる、なんてことは令和では日常茶飯事。

 

 間抜けで、そのくせ赦しがない。

 なんと不思議な世界であることか。


 色見えでうつろふものは世の中の

   人の心の花にぞありける 小野小町


 たよりないもの、


 「行けたら行く」とか「絶対また来るね」という約束。


 花屋の片隅に残ってしまった、見るからに発育の良くない何かの植物の苗の行末。


 周りがどんどんお母さんになっていくなかで、私は子供なんて、と思いつづける気持ち。

 特に親などに「そろそろ」と言われるとやっぱり子供作らなきゃいけないのかな、とすぐ揺らいでしまう。

 ママは昔から私に性的なものを絶対に見せないように、流行のラブソングすら「聴くな」と忌避してきたくせに、いざとなると子作りしろなんて、よく言えたものだ。



 たよりないもの、

 

 若さ。


 それは確実に、砂時計の砂のたゆまず落ちてゆくように。

 図書館で、自分の誕生年と同じ発行年の本を借りると、紙は黄ばんで小口は焼け、背表紙もひどく傷んでいたりするのを見る時の気持ち。



 母親と長期間離れ離れになると決まった時の子供。

 私が以前とある学習塾のアルバイトで見た小学生の男の子は、いつもしっかりしていて頑張り屋さんなのに、その日は先生たち全員に反抗的で元気もなかった。塾長にあの子はどうしたのかと聞いたら、母親が海外に単身赴任する事に決まって落ち込んでいるという事だった。普段は虚勢を張って良い子で頑張っていたのはたぶん、一番には母親に褒めて欲しかったからかもしれないと思った。もっとも、翌週には心にちゃんと折り合いを付けて元の頑張り屋さんに戻っていたけれど。


 私(アルバイト)が仕事上でミスをしてしまった時の上司(正社員)の態度。どの会社もという訳ではないかもしれないけれど、少なくとも私の会社では、誰も守ってくれない。正社員ではないのに「自己責任」の御旗のもと、会社支給ではない私用携帯に連絡が来て休日出勤を迫られた事すらある。


 年を取った母親の、すっかり小さくなってしまった肩。よくもまあ幼い頃はこのような細い肩に全体重を預けられたものだ、と申し訳なくすら思えてくる。


 コロナ禍で必須になったマスク。

 こんなものでいったい脅威のウイルスから私たちの身を守ることができるとは到底思えない。かといって、私は今更マスクを手放すことが容易にはできそうにない。マスクは今では多分に精神的なもの、お守りのように肌身離さず身に付けていたいもの、依り代のように縋っていたいもののひとつになった。


 コロナ禍に投げ込まれた私たちのこころ。

 いったい何人の人がコロナ禍によって自死を選んだろう。

 職を失った人や商売が駄目になってしまった人はもちろんのこと。

 傍からは今を盛りとかがやいて見えたうつくしい女優、俳優でさえ。

 かくいう私は自死を選ぶ勇気こそないものの、摂食障害が悪化した。

 日本人女性の標準身長以上でありながら体重が三十四キログラムになってしまった一時期よりは回復してはいるものの、治さなければいけないと思えば思うほど、当分完治はできそうにない。

 人ひとりのこころなんて、かくもたよりなく、脆い。


 友達との繋がり。

 コロナ禍で、友達だと思っていた人たちの、なんとあっさり離れていったことか。

 オンライン飲み会、なんてやってみても時間差が生まれるため、やはり直接会っている時ほどは盛り上がれない。

 ああ、私たちって、偶発的な電子の偏りによって生じた分子間力みたいなもので一時いっとき引きあっていたに過ぎなかったのだ。そんなかなしいことに気が付いてしまった時の気持ち。


 男女の仲も。

 このコロナに対する価値観の相違によって別れを迎えたふたりが多くいたようだ。彼女を好きと言った彼とは、違うすがたが見えてしまった。彼が愛した彼女とは、別のすがたが見えてしまった。かなしいけれど、それだけのことだ。私たちの水晶体に映るすがたは、その人のほんの一部でしかない。万華鏡のように、相手の中のまったく知らなかった要素の集合が見えてしまって、それが自分のなかにあるさまざまな要素の集合のどれにも相容れないとき、やはりそれは自然に反発して、いつかは一緒に居ることがむずかしくなってしまう。

 異なる個体同士が死の間際まで隣にいるために必要なのは、ひとつには見ない鈍感力、あるいは許す包容力。どちらも難易度が高く、私の場合はその点で夫の則光に敵わないと思わされる瞬間がいくつもあるのも癪なこと。


 たよりないもの、


 ふと現れては居なくなる電子。


 膨張のはてに爆発して塵になる星。


 いつ災害が起こるかという予測。


 日本政府の、厄疫に立ち向かう姿勢。


 小さな小さなウイルスなんかに殺されてしまう私たちのいのち。


  置くと見し露もありけりはかなくて

   消えにし人を何にたとへむ 和泉式部


 こうしてみると、あまりにもたよりないものが多すぎて、「たよりない」という事こそが現世うつしよの本質だという気がしてならない。


 真理はたぶん、すべからくうつくしい。


 たよりないがためにうつくしく思えるものもあるのは、そのためかもしれない。



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コロナの草子 小山桜子 @honobeni

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