コロナの草子

小山桜子

春は

 

 春はうつ。

 夏は未遂。

 秋は希死。

 冬は自傷。


 ああいったい、この架空の紙面以外のどこに私の居場所があるというのだろう。  


 三十を迎えて、私ははたから見ればますます幸せに、真実はますますがんじがらめになってゆく。


 かつての私は物語が好きで、歌が好きで、音楽が好きで、踊るのが好きで、それだけの天真爛漫な少女だった。


 それが凡庸な親の期待に沿って結婚し、西新宿のタワーマンションなんていう有機物の介在を極力排した、生きものの気配の薄い、嘘みたいな土地に引っ越してきてしまった。

 

 それと同時に脅威のコロナウイルスによる長い長い暗黒時代が幕を開けたのだ。


 私の新婚生活は、春となく夏となく秋となく冬となく、コロナウイルスによって塗りつぶされた。


 ここには知り合いがいない。

 

 居場所がない。

 いのちの色がない。

 いのちの音がない。

 いのちの味がない。

 いのちの匂いがない。

 いのちの手ざわりがない。

 夫の則光はお話にならない。

 そんなのの子供もほしくない。


 コロナ禍と言われる時代もようやく死語になりつつある今、ようやくコロナの草子を書く気になった。

 私の幸せな結婚を塗りつぶした憎らしいウイルスの事を記さでいられようか。そうだ。ええそうですとも。


 題名を清少納言の「枕草子」に倣って「コロナの草子」とするのはかなり烏滸おこがましい事は百も承知しているけれど、どうか許してほしい。 

 才気はじける清少納言にも、かつては私たちと似たようなさみしさがあったのではないかと思うのだ。

 まあ、彼女が私たちと似ていたというのは本当に初期の頃だけ。

 なぜなら彼女には当時世にときめいていた中宮定子様にお仕えするという最高の幸せが待っていたのだから。

 さて、宮内庁からお声を賜るはずもない私にはいったい何があるというのだろう。

 頽廃しきった末世の令和時代に、中宮定子様はいない。

 ほんもののお姫様は浅黒いアラジンにさらわれてニューヨークに去った。


 この新宿では、出仕先のない娘たちがトー横で笑いながら男に体を売ってきらきら輝いている。

 相貌は可愛いがとても正常とは思えない目つきの女の子が、不健康な痩せ方をしたホストに支えられながらゴジラの映画館の裏へとうつくしく透きとおってゆく。


 かなしい私たちに、夢のある奉仕先があったなら、新宿はこうならなかったのだろう。

 コロナウイルスがなければ、私たちは、こうならなかったのだろう。

 でも私には、私たちにはもう、このクラウド上の紙面以外に居場所はない。


 みんな、この架空の紙の束にこころを少しずつ少しずつ千切って焼き付けていく。

 千切られたこころは血を流しながら、少しずつ小さくなってゆく。


 体の方は知らない男たちに貸しながら。

 私なんかはすでに男からも見向きもされなくなった体を持て余してそのうすら寒さに震えながら。


 ねえ、これは果たして、コロナのせいなの?

 本当に、そうなの?


 お願いだからそうだと言って。

 全部コロナのせいだと言って。


 ああもう、いいや。

 何にもいわないで。

 聞きたくない。

 聞くの、こわい。


 とにかく、透明な筆を色のない墨に浸し、綴ってゆこう。

 

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