ママの人生近道クーポン券

秋穂藍

母の人生近道クーポン券

ドタン、ドスン。

 

 短く深呼吸した後にノートパソコンを閉じて立ち上がる。

 また仕事が中断する。

 安い賃貸マンションなので下の階からまた苦情を受けるかもしれない。


「アキラ、どうしたの? おとなしくしていないと明日も小学校に行けないよ」


「ごめんなさい。しゃしんをみていたら、本がくずれてきちゃった」


 息子は布団で横になっていたはずなのに、古いダンボールの中身を引っくり返している。


 中身は母の遺品のアルバムや小物だ。


 アキラの出産間際に母が死んだ。育児休業中に整理をしようと思っていたら、結局、今まで手をつけられなかった。

 育児休業中は夜泣きに悩まされ、保育園に入れて仕事復帰した後は、平日はもちろん、土日も家事に追われていく。

 夫は出張も多く、去年の単身赴任からは私のワンオペだ。


 ママ友から母親に手伝いに来てもらっているという話を聞くと、羨ましくなる。母が生きていたら、今日のような子どもの病気と仕事の締切が重なるときに来てくれただろうか。

 


「こんなに散らかしちゃって。ちゃんと寝ていないとまた熱が上がっちゃうよ」

 溜息を全力で飲み込み、声をかける。

 こんなことなら、遺品なんて早くに捨てておけばよかった。


 古いアルバムから、写真が数枚こぼれ落ちている。


 写真には、小学校入学式の看板の前で笑う私と母が映っている。

 いつも働いてばかりでみすぼらしかった母も、この時ばかりはワンピースで着飾っている。

 当時の母も小1の壁に苦しんでいたのだろうか。


「ママ、これなあに?」

 アキラの手には、ハガキ大の紙があった。


「人生近道クーポン券?」

 アキラから、経年劣化でインクが変色したクーポン券を受け取る。


 商店街の手作りスタンプカードのような、センスのないデザインと低品質のインクジェット印刷だ。


 『人生近道クーポン券』とポップなフォントで記され、周囲には無料素材のような花や蝶があしらわれている。


「じんせいちかみちクーポンけん、ってなに?」

 ルビを見てアキラが問いかける。


「人生は、アキラとかママとかの人間が生活していくこと。近道は、行きたい場所に素早くつく道のこと。それで、クーポン券というのは、その紙と引き換えに何かをしてもらえるものよ。このクーポン券だと、アキラやママが行きたいところがあったら、回り道をせずにすぐに連れて行ってもらえるわ」


 そんな夢みたいな券があればね、と心の中で付け加える。


 高校受験には失敗。大学受験にも連敗。

 一浪して地方から上京し、バイト代と奨学金を頼りに滑り止めの大学に通った。

 就職活動では、第一志望の企業には入社できず、なんとか希望の広報部門で採用されたが、ブラック企業だった。

 そこでセクハラやパワハラにまみれながら歯を食いしばって3年耐えて、今の上場企業に転職することができた。今の会社は福利厚生も整い、働きがいもある。今日のような日はテレワーク環境にも感謝だ。

 とは言え中途社員は使い潰される。 昭和脳の上司と易きに流される新人に挟まれ、責任感と妥協のはざまを毎日行ったり来たりだ。

 何より、やはりワンオペではつらい。


 大学の同級生がSNSにタワマンや海外駐在での優雅な私生活を載せていると、自分にももっと「近道」があったのではないかと感じる。


「じゃあ、この『クーポンけん』は、ぼくたちにはいらないね」


「どうして?」

 私にこんなクーポン券さえあれば、苦労しなかった。

 

「だって、ママとなら、まわりみちをしたほうがたのしいよ。こうえんでシーソーにのったり、ブランコをしたり」


「アキラはそうよね」


 学童からの帰宅が思うようにいかないから、ご飯、宿題、お風呂、歯磨き、就寝、そして翌日朝の起床と、全部後ろ倒しになってしまう。


「ママもまわりみちがたのしいってかいてるよ」


 アキラが、クーポン券の裏側を指差す。


 

『ママへ まわりみちたのしかったよ。おはなとちょうちょがきれいだったね。でも、こんどちかみちしたくなったら、つかっていいよ。 みやこ』


 裏側には文字とともに、手をつないで笑う母親と女の子が描かれていた。


 そうだ。


 このクーポン券は、小学生の時に私が作ったんだ。表は誰かに印刷してもらって、裏側に母への手紙を書いたんだ。


 学童からの帰り道に、花冠をつくりたいとか、蝶を捕まえたいとか、母に無理を言い、回り道をしてもらった。

 当時の母は、せわしなく働いていたが、私のお願いにいつも付き合ってくれた。ただ、ある日、母が近道がしたいと呟いたことがあった。

 それで、私はこのクーポン券を母にあげたんだった。


 でも、クーポン券が使われることはなく、母はいつも回り道をして幼い私と家に帰った。

 大きくなってからも、私の歩んだ道は近道ではなかったけど、母は共に歩いてくれた。一緒に悩んで、戸惑って、泣いて、笑ってくれた。


 母にもっと回り道をしてもらえばよかった。私だけでなく、孫のアキラの手もつないで振り回されてほしかった。


「ぼく、ママとのまわりみちがすきだよ。でも、ママがちかみちをしたくなったら、このくーぽんけんをつかってもいいよ」


「ありがとう。でも、ママもクーポン券は使わなくて大丈夫よ」


「じゃあ、またまわりみちしてくれる?」


「そうね。また今度ね。そのためにもゆっくり眠るの。それが近道よ」

 

 そう言ってアキラを抱きしめる。

 母の匂いがした。

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