スノードーム

夜方宵

第1話 スノードーム

 ――その夜は、白い雪が降っていた。


 自室の窓際に立ってカーテンを開け放ち、四角くて分厚いガラス越しに私は外の世界を眺める。


 ああこのまま、すべてが白く埋もれてしまえばいいのに。そんなことを私は思った。

 勉強、部活、恋愛、友人、家族――。あらゆる義務、あるいは責務に付随するあまねく感情が、私にはたまらなく煩わしかった。本音を建前で覆い隠し、無関心を偽善で取り繕い、強制を協調と曲解し、嫌厭を配慮にすり替えて、嫉妬を尊敬で上塗りする……。

 そういった日々に私はもう、疲れ果ててしまっていたのだった。


 いっそ、自分自身がこの白い世界に身をうずめてしまおうか……。


 そんな考えがふとよぎったときだった。


「ねえ」


 私以外には誰もいないはずの部屋に、聞き覚えのない声がした。


 咄嗟に振り返ってみたものの、やはり私以外には誰もいない。空耳だったのだろうか。


「ねえ、こっち」


 気のせいではなかった。幼気な少女らしい、細々として裏返ったような声が私を呼んでいる。


 声のした先へと私は歩み寄る。そこにあったのは、いつからそこにあったのかも分からない、小さなスノーボールだった。

 ピンポン球程度の透明なガラスの球体が円状の土台の上に乗っかっている。ガラス玉の中には黒ずんだ廃墟のようなものが建ち並び、中央にはぽつんとひとり、小さな少女が佇んでいた。

 なんとなくそれを手に取ってみると、球体の中にぶわっと塵のような粒が舞った。雪だ。でもそれは、古くなったためだろうか、どことなくくすんで灰色じみた雪だった。


 目線の高さまで持ち上げて、私はドームの中を、そこに佇む少女をじっと見つめる。


「なんだかさびしそう」


 我知らず言葉が零れ落ちる。


「さびしくなんかないわ。ただつまらないだけ」


 また声が聞こえた。そして私は確信した。やはり声の主はスノードームの中にいるこの子だ。摩訶不思議な現象だった。でも何故か私は、思ったよりもすんなりとその事実を受け止められていた。


「あなたが私を呼んだのね」


「ええ」


「どうして私を呼んだの?」


「言ったでしょ。つまらないからよ。それにあなたも、とってもつまらなそうな顔をしているわ」 


 ガラス玉の中に見える出で立ちと声色から察するに、私よりもずいぶんと幼いはずなのに、彼女はさも達観したような語調でそう言った。


 私は頷いた。


「うん。私の生きる世界は、これ以上ないくらいにつまらないわ」


 すると少女は言った。


「わたしにはそうは思えないけど。ねえ、だったらわたしにあなたの世界を見せてくれないかしら?」


「どうやって?」


「わたしに触れてみて」


 彼女の言葉通り、私はスノードームを指先で遠慮がちに撫ぜてみた――。



 ――気がつくと、私は灰色に覆われた夜の中に立っていた。


 まさにスノードームの中にあった光景だった。崩れかけた建物が視界の限り続いていて、人工的な光はひとつもなく、か弱い星々に照らされた沈黙の世界に灰色の雪がしんしんと降り続いている……。


「夜のあいだだけの交換ね」


 少女の声がした。ポケットをまさぐると、自室にあったのと同じスノードームがあった。少し異なっていたのは、土台が外れてガラス玉だけになっていたことと、ドーム自身にわずかにヒビが入っていたことだった。


「私もあなたの世界を散策させてもらっていい?」


 ガラス玉に語りかける。すると間もなく彼女の声が返ってきた。


「もちろん、お好きにどうぞ。そっちは本当につまらない世界で申し訳ないけれどね」


 それから私は、スノードームの中の世界をあてもなく歩いた。

 人はひとりもいなかった。冷え切って静寂とした世界をぼんやりと眺めながら、ただただ私は灰色の足跡を刻みつけてまわった。

 少女が言った通り、面白味のある世界ではなかった。でも、それがかえって私には心地よかった。一切の煩わしさから解放されて、ひとりきりで安らぎを感じられる世界のように私には思えた。それに体の中にぎちぎちに詰まった不要な感情を、この空虚な世界になら放り捨ててもきっと邪魔にはならないだろうと、そんな気さえしたのだった。


「夜が明けるわ。元に戻りましょう」


 スノードームから声がした。あっという間だった。私はなんとなく名残惜しさを感じていた。


「あなたの世界、とっても面白い世界だわ」


 少女の声は、心なしか弾んでいるようだった。


「そんなに面白かった?」


「ええ。私の世界とは全然違ったもの。人々の安らかな息遣いがする。それに虫や動物や木々たちは穏やかな歌声を奏でてる。星の輝きにも曇りがなくて、真っ黒に染まるはずの景色はどこまでも真っ白だわ。そう、白い雪に満ちた美しい世界。こんな夜を私は知らなかった」


 少女の嬉しそうな声色は、彼女が心の底から私の世界に陶酔していることを物語っていた。


 だから私は言った。


「だったらこれから毎晩、世界を交換しない?」


「いいの?」


「もちろん。私もあなたの世界が気に入ったから」


「それじゃあ、決まりね」


 そうして私たちは、夜になるとお互いの世界を交換することを約束した。



 私と彼女の世界交換は毎日続いた。彼女はとても楽しんでいたし、私も安らぎを得られて幸福な気持ちだった。ずっとこれが続けばいいと思った。けれど七回目の夜になって、唐突にそれは終わりを告げたのだ。


 いつものように灰色の世界をあてもなく歩いていると、突然、夜空に閃光が走った。


 ――ガン。――ガン。――ガン、ガン。


 なにかを叩きつけるような音が暗闇の中に響く。


「ねえ、あなたなの? 一体なにをしているの?」


 私の問いかけに、彼女は答えない。


 ――ガン。――ガン。――ガン、ガン。


 叩きつける音が続く。


 やがて、遙か頭上の闇に一筋の亀裂が入った。スノードームにあったものとそっくりなヒビだった。

 私は理解した。彼女がこの世界を壊そうとしている。


「元の世界に戻りたくなくなってしまったのね」


 上空の亀裂から差し込む光に目を細めながら、私は優しさを込めて言った。


「いいのよ。愛せない世界に無理して戻る必要はないわ」


 叩きつける音が、止まった。


 幾許かの静寂を経て、彼女の声が私に届く。


「……あなたは、その世界を愛せるつもり?」


「たぶん」


「それは嘘だわ」


「どうしてそう言えるの」


「ずっと生きていればそのうち分かる日が来るわ」


 私には、彼女がなにを言わんとしているのかいまいち理解できなかった。

 ややあって、再び彼女が言葉を紡ぎ出す。


「元に戻りましょう。そして約束は今日で終わり。明日からはもう、世界の交換はしないでおきましょう。きっとしばらくはもう、こうして話をすることもないわ」


「どうして。あなただってこの世界を愛せないんじゃないの?」


「ええそうよ。わたしはわたしの世界を愛せない。けれど捨て去ることだってできないって気づいたのよ。たとえすべてが失われた世界だったとしても、そこは確かに、わたしの愛したすべてが存在した場所だから」


 彼女の声は震えていた。きっと泣いていたのだろう。その涙にどんな感情が混じっていたのか、分かってあげることはできなかった。ただ私にできたのは、その涙を受け入れてあげることだけだった。


 そうして私たちの不思議な七夜は幕を閉じた。



 以降、スノードームの少女が語りかけてくることはなくなり、私は日常に回帰した。彼女は美しいと言ったけれど、やはり私にとってはつまらない世界であることに変わりはなかった。


 こんな世界、壊れてしまえばいいのに。そんな気持ちを漫然と抱きながら、それでも私はずっと生きた。怠惰な日々の中でぼんやりと、あの日彼女が言った「ずっと生きていればそのうち分かる日が来るわ」という言葉を反芻しながら。


 そしてその日はやってきた。


 きっと前触れはあったのだろうけど、漠然と生き長らえてきた私にとってはまさに唐突に、世界は戦争の業火に包まれた。平和は核に焼き払われ、街並みは一瞬にして焦土と化した。後に残ったのは、すべてが壊れ、崩れ、失われ、無残に荒廃した大地だけだった。


 ――今、私の前にそれが広がっている。


 ずっと生きてきた私は、今に至って、彼女の言葉を理解していた。


 これが彼女の住む世界だったのだ。

 彼女が生まれ、愛し、すべてを失った場所。

 そしてあの日の自分が安らぎを覚えた場所に、私は再び帰ってきた。


「……嘘じゃなかったよ」


 廃墟の狭間に佇む私は、我知らずそんな言葉をぽつりと呟いた。

 私は今、やっぱりあのときと変わらず安らぎを覚えている。


 不意に私はポケットをまさぐり、中から小さなガラス玉を取りだした。

 そしておもむろにそれを夜空にかざす。ヒビ割れた球体。その中に建ち並ぶ廃墟。中央に佇む少女。そして舞う、雪。


 この世界を閉じ込めたような風景を丸いガラス越しに見つめながら、私はまたぽつりと呟く。


「ねえ、きっとどこかにいるんでしょ? 今からこれを渡しに行くよ」


 ――その夜は、灰色の雪が降っていた。

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