生者の行進

@udemushi

プロローグ

「生まれてくるべきではなかった」最初にそう思ったのは何歳いくつのときだったか、もう憶えていない。ただ小学校に上がる前後くらいだった筈で、いちど「そう」なってしまった人間の人生は、どれだけ鮮やかに彩られようとも、常にそこに灰色が混じるようになる。どれ程の、何を積み上げようとも、ただ無駄を積み重ねるだけになってしまう。


 特別悪辣な環境で生まれ育ったわけでは、決してない。それは断言出来る。母も、きっと父も、きっと両祖父母も親戚も、「家族」としての自分を愛してくれていた。ニュースで見るような、とんでもない親、家に生まれたわけではない。

 寧ろごくありふれていた。それ故だろう。誰も助けが必要だとは考えなかった。「遊び」がいつのまにか「いじめ」に発展してしまったような、云うなれば「日常の姿を執った牢獄」

 後になって、一歩引いてみてみれば、自分が育ったのはそんな場所だった。

 容姿デブ体質汗っかきについての頭ごなしの否定と嘲笑。何をなしても、それらで減点を加えて評価される。

「個性」というものは、優れていてはじめて個性よして受け入れられるのだと、自分はそれなりに早い段階でで学ぶことが出来た。身を以て。

「三つ子の魂百まで」という諺にもあるが、物心ついた頃からそのように扱われ続けた子どもがどのように育つかといえば。

「自分に存在意義を見出せない」自分のような「人間社会での生存競争に敗れた、半分死んだ人間」が一つの例だろう。

 何をするにも「自分なんかが」と罪悪感が付きまとう。幸せになってはいけない。なろうとすることさえ赦されない。自分を表に出せない。

 本当に、何のために生きているのか分からない。

「どうかこのまま目ざめませんように」そう願いながら眠りに就いた日も、もう数え切れないほどある。


 だから、よく分かってはいないが、死ねたことは、純粋に嬉しいように思う。


 そう。そこまでは良かった。「次」に望みを託すこともない。ただ終わる。「自分」は漂白され、或いは魂は、自分とは関係のない生を営むのだろう。

 そう思っていた。


 さしたる不自由のない、恵まれた人生。きっと、間違いなく平和で、そして幸福だった。

 ただずっと窮屈だった。

 サイズの合っていない服をずっと着ているような、将にあっていないことをずっと続けているような、そんな感覚。時折どうしようもなく叫び出しそうになるのを、常識と良識善性と協調性――自分が自分を封じる。

 自分が何を望んでいるのか、何となく察しがついていた。それに身を委ねることを、自分に赦せなかった。

 自分は痛みを知っている。

 理不尽に傷付けられる痛みも。暴力に晒される痛みも。大切にしている筈のものを、傷付けてしまった痛みも。

 与えられるのは、まだいい。耐えられる。しかし、自分が他者にその痛みを、与えることは、違う。あってはならないことだ。断じて許されないことだ。


 罪悪感が、こんなにも重い。

 この重みで、潰れて死ねれば、どれだけいいかもしれない。

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