第14話 弓木芽衣の人生


 私ってなんなんだろう。


 込み上げてくるどうしようもない感情が体の奥底から病魔のように蝕んでくる。


 いつも通り。


 そう言い聞かせても体は恐怖に竦む。


 屋上に呼び出した生物の教師である柴田はどこで知ったのか私の秘密を暴露することを出しに肉体関係を求めてきた。


 ホテルに着くと若い女の体に自らの欲望をむき出しにして、体を求めた。


 一緒に湯船に浸かりながら背後からぶよぶよと太った指が舐め回すように触れる嫌悪感に、私は心が潰れそうだった。


 行為が終わった私はすぐにシャワーを浴びて、柴田とはその場で別れた。


 欲望に歪んだ金壺眼をこちらに向けてはにたりと笑いながら、柴田は言った。


「またね。」


 その言葉は私への死刑宣告に思えた。


 ホテルから出ると空は塗りつぶされた灰色の雲が広がり、今にも雨が降り出そうとしていた。


 傘も持たない私は、それでもすぐには家に帰りたくなかった。駅へと向かう道を逸れて、住宅街を通り抜けていくと、小高い山の中腹に神社がある。


 山の名前は大山というらしいが、名前とは裏腹に小さな山だ。普段は神職もいないような小さな神社で、鳥居をくぐり抜けると、雨の前の独特な土の匂いがした。


 私は高校に入ってからの4月。通学路の途中駅で下車した私はあてもなく歩いていたら、気づけばこの神社の近くまで来ていた。境内に通じる入り口、その前にあった社号標には大山氷川神社とあった。登りの階段をわざわざ上がって参拝するような有名な神社のようには見えなかったが、人気のある場所を避けたかった私には丁度良いような気がした。


 そうやって見つけた私は、時間を潰す時に立ち寄る場所。そのひとつに加えた。


 境内は相変わらず人気はなく、雨の前の風が木々をざわつかせていた。


 私は信心深いほうではない。だから神にお願いすることもない。社殿に設けられた賽銭箱を横目に、本殿に上がる階段に腰をかける。


 お世辞にも手入れが行き届いているとは言いがたいこの神社の社殿は幾多の風雨に晒されて、黒ずんでいた。


 腰を下ろしてから数分も経たないうちに、雨はしとしとと降り始め、そのうち境内の石畳を強く叩くようになっていた。


 驟雨で済めばよかったが、一度降り始めた雨は簡単には止みそうにはない。


 石畳の脇には薄茶色の水溜りが出来ては、行き場を失って広がっていった。


 水の一つ一つの波紋は美しいのに、落ちて集まり土と混じり合うと、途端にそれは汚れたものになる。私も同じだ。最初は綺麗に見えても、下に落ちれば有象無象の塊、価値のないものだ。


 そんな考えが心をどんどん沈ませていく。私なんて、要らないのに。深く沈んだ心に、泥水はどんどん注ぎ込まれては、更に汚れていく。


 どうしようも負の連鎖に、私の心は限界に近づいていた。俯き、目を閉じていた私に声が聞こえた。もちろん人の声ではない。人の興味をくすぐる小さな命の鳴き声。その正体は雨を避けてやって来たのは猫だった。


 頭の先から尻尾まで真っ白な毛も既にだいぶ雨に降られたようで、社殿に雨宿りにやってきた猫は、ぶるぶると体躯を震わせて水気を飛ばした猫は、軽く伸びをすると、雨宿りする人間に興味を惹かれたのかこちらを向いた。


 すると雨に居合わせた隣人に挨拶でもしに来るかのように、ゆっくりと私に近づいてきた。


 どうも人への警戒心が薄いこの猫の首には首輪があった。「どうした?」と手を伸ばすと、自らの頬を私の手に擦り付けるようにして来た。私は猫を優しく撫でてやると気持ちよさそうに、さらに擦り寄ってきた。


 私への警戒が解かれたのか、スカートの上に乗っかり更に撫でるように。と要求してきた。濡れた猫は水気をかなり含んでおり、このままでは私のスカートがびしょ濡れになってしまうと考えた私は、猫を持ち上げて、バックからタオルを出して、スカートの上に敷いて撫でてやることにした。


 本音を言えば猫の毛がいっぱい付くのは嫌なのだけれど、同じ雨宿りの隣人として、ハンカチも使って猫の水気を拭いてやることにした。


 濡れた猫の毛は重いが、普通のイエネコである隣人はハンカチで拭いてやると、少しは本来の姿を見せてくれた。


 先程までは雨に濡れてしょぼくれた感じさえもしたけど、今ではちゃんと猫の威厳を取り戻し、ご機嫌なのか、大きな口を開けてあくびをした。


 すっかりとリラックスした彼は私の膝の上で丸まっては寝息を立てるようになった。眠りを妨げないように、私は撫で続けていたが、ふとこの隣人の名前はなんと言うのかと気になり、寝ている隣人の赤い首輪を背中の方に回して金色の名札を見てみる。


 そこには「ミルク」とあった。確かに真っ白なこの猫らしい名前だ。


 きっと名付けた主人も素直な人なのだろうと、そっと首輪を元に戻してやる。


 呼吸をする度に膨れては萎むお腹に手を当てて、隣人の体温を感じる。


 温かい。


 人の温もりとは違う鼓動の速さと高い体温は命を懸命に燃やしている証拠なのだろう。気持ちよさそうな見かけによらずに頑張っているのだな。と感じると、不思議と涙が溢れては自分の手の甲に落ちて行く。


 どうしてだろうな。


 さっきまでは泣かずにいられたのに。目の前にいる隣人は、私が嗚咽を漏らして泣く姿に薄っすらと目を開けたが、逃げることもなくそのまま居座った。


 しばらくは感情を抑えることなく泣き続けては、時間が過ぎるのを待った。どのくらいこうしていたのだろう。辺りはすっかり暗くなっており、雨雲が通り過ぎた藍色の空は、星の輝きが雲の合間から覗いている。


 ようやく私の膝の上が飽きたのか、それとも雨が止んだのを良いタイミングとみたのか、隣人は私の膝から降りると、何も言わずに境内を闊歩して、山を降りていった。


 私もそろそろだ。


 母子家庭である我が家は母の稼ぎで生活をしている。母は歓楽街のスナックでキャストとして働いており、18時には家を出ていることが多い。帰ってくるのは深夜だ。


 朝は寝ているから、朝に顔を合わせることはない。問題は帰ってくる時間だ。母と顔を合わせずにいるには18時まではどこかで時間を潰さなくてはいけない。


 だから私は学校が終わればどこかで時間を潰して18時以降に帰るようにしている。これが普通の家庭ではあり得ないことだと私は分かっている。それでも私は母が嫌いで仕方ないのだ。

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