第19話 宋・蘇州、太湖の畔で(後編2)
「寒山寺の鐘の音か。私はこの鐘の音を、この世で聞く最後の音にしようと思って、ここに来ました」
「「「えっ?」」」
驚く三人を前に、李沐阳の身体はグラリと揺れた。
後ろは崖になっていて、落ちればそのまま太湖だ。
「さようなら。最後にアナタたちのような美しい女性と話せて良かった」
両手を広げた李沐阳は、まるで殉教者のように背中から太湖に落ちようとした。
清少納言と和泉式部は唖然としている。
しかし紫式部だけは、即座にダッシュした。
太湖に身を投げようとする李沐阳の腕を素早く掴む。
「ちょっと待ちなさいよ、オジサン。ここで死なれたら、私たちの目覚めが悪いわよ」
しかし李沐阳は力無く言った。
「手を放してくれ。私は人生に疲れたんだ。もう終わりにしたい」
「なにが『人生に疲れた』よ。結局オジサンは若い李
「なんだと?」
李
しかし紫式部は続けた。
「だってそうじゃない。『僕の努力を誰も認めてくれない。みんな若い李浩宇の方を見ている。チクショー、死んでやる!』ってそんな感じじゃない。嫉妬? イジケ? ヒネクレ? あ~みっともない」
「女なんかに何がわかる。科挙の受験資格すらない女に!」
「じゃあオジサンはその受験資格があるだけ、女より恵まれているじゃん。それなのに『ボクチンはもうダメだぁ~』ってヤケになって死ぬって言うの? 情けない事この上ないわね」
李沐阳は顔を真っ赤にして怒りを込めた目で紫式部を見た。
そこに清少納言もやってくる。
「彼女の言う通りです。ここで死んだらアナタの一生をかけた努力って、全て無駄になるんでしょ? 悔しくないんですか?」
「これ以上、私に何をしろって言うんだ!」
「逆に聞きますけど、アナタはこれまで何をして来たんですか?」
「さっきも言ったろ! 科挙のための勉強がどれだけ大変だったか!」
「でもやって来たのは受験勉強だけじゃないですか。他の事は試していないんですよね? 役人にならなくても生きていく方法はいくらでもありますよ。商売をやってもいいし、田畑を耕してもいいし」
「この歳で、今さらそんな事が出来る訳ないだろ!」
「それはやる勇気がないだけですよね? 今まで勉強だけしていればいい毎日だったから、外に出て働くのが怖いだけじゃないんですか?」
すると屋敷の方から、誰かが飛び出して来た。
「沐阳兄さん!」
膝をつくようにして、その腕に取り付いたのは李浩宇だ。
「彼女たちの言う通りです。自殺なんてやめて下さい!」
「浩宇……どうしてここに?」
「最近、兄さんの元気がないのが気になっていました。それて夕食を兄さんの部屋に持って行ったら誰もいなくて……もしやと思ってここに来てみました」
俯く沐阳に浩宇が必死に訴える。
「最初に私に勉強を教えてくれたのは沐阳兄さんじゃないですか。兄さんが居たから私はここまで頑張れたのです。それなのに兄さんが私が原因で死ぬなんて……私には耐えられません!」
李浩宇は祈るような形で李沐阳の腕を握っていた。
彼の目からはとめどなく涙が流れている。
それを見ていた李沐阳の目にも光る物があった。
「浩宇、おまえはこんな私を、今でも慕ってくれるのか?」
「当たり前じゃないですか。私は沐阳兄さんを目標としてここまで来たのです。他の誰が兄さんを貶しても、私が兄さんを下に見る事は決してありません!」
「ありがとう……浩宇」
沐阳も浩宇の手を握った
男二人は互いに見つめ合って涙を流す。
そんな二人を見ながら、紫式部が言い放つ。
「盛り上がっている所を悪いんですけど、このまま支えているのも疲れるんですよね。いちど引っ張り上げますよ」
彼女はそう言うと、李沐阳を平らな地面の上に引き戻した。
その力の強さに浩宇も沐阳も一瞬目を丸くする。
四つん這いになった状態の沐阳に、浩宇が同じく地に両手をついて言った。
「沐阳兄さん、これから一緒に頑張りましょう。兄さんは今でも、私の先生であり手本なのですから」
しばらく黙っていた沐阳だが、やがて浩宇の手を取った。
「ありがとう、浩宇。おまえがそう言ってくれるなら、私もまだ死ぬ訳にはいかないな。少しでもオマエの手本になれるように努力をするよ」
「そうです、兄さんにならできます」
「もし最悪ダメでも、官僚になれなくても、立派に生きていけるって言う手本を示せるしな」
そう言って沐阳は笑った。
それを見た清少納言・紫式部・和泉式部の三人も顔を見合わせてホッとする。
少なくとも、今夜は彼が自殺をする事はないだろう。
それからしばらく彼女たちは李の家に滞在した。
李浩宇は「沐阳兄さんを助けてくれたお礼です」と言って、気前よく彼女たちに宋の服を買ってくれた。
清少納言が得意げに言う。
「ホラ、私の言う通り、保険を掛けておいて良かったでしょ?」
すかさず紫式部が言い返した。
「でも実際に沐阳さんを助けたのは私なんですけどね。ここは私のお陰じゃありませんか?」
三人とも遠慮なく豪華な宋の衣類を購入する。
そして蘇州に滞在している間に、清少納言はまんまと李浩宇を攻略していた。
今まで勉強一筋だった李浩宇が、百戦錬磨の清少納言に勝てる訳がない。
彼は見事なまでに彼女に溺れて行った。
そんな様子を見て、紫式部が釘を刺す。
「清の姉君。あんまり李浩宇を骨抜きにしちゃマズイんじゃないですか? 彼、勉強が手に付かないみたいじゃないですか。このままだと科挙の試験に落ちちゃうかもしれませんよ。そうしたら清の姉君の狙いである『日本に帰れない場合、宋の官僚の妻になる』って事が達成できないですよね?」
だが清少納言はまったく気にならないようだ。
「その時はその時よ。所詮はその程度の男だったと言うだけ。でも実家は金持ちなんだから、彼を私の虜にしておけば、今後も何かよ役に立ちそうでしょ」
そう平然と言い放った。
やがて蘇州を立つ日がやって来た。
長江まで送ってくれた李浩宇が涙を流しながら清少納言の手を握る。
「清少納言殿、アナタと離れるのは死ぬより辛い。でも私はアナタがどこに行こうと必ず迎えに行く。たとえそれが荒波に向こうの倭国であろうと」
そんな彼の様子に、清少納言はちょっとウンザリしていた。
「私の国など来なくても、アナタは科挙に合格して立派な官僚になって下さい。私はその日を開封の都で待っておりますわ」
それでも縋りつこうとする李浩宇に背を向け、清少納言は船に乗った。
その様子を紫式部と和泉式部は、船の上からずっと見ていた。
紫式部がニヤニヤしながら清少納言に声を掛ける。
「いいんですか、清の姉君。ちょっとヤリすぎたんじゃないですか? あの様子じゃマジで日本まで追いかけて来そうですよ」
「それは無理でしょ。国の支援もなく日本へなんか渡れないわ。まぁこれをバネにして科挙に合格してくれれば、私だって考えてあげなくもないわよ」
それでも紫式部はニヤついた笑いを止めなかった。
「それならいいんですけどね。でもストーカーと化した男も中々面倒ですよ」
一方、和泉式部は同情的な目で李浩宇を見ていた。
「李浩宇さん、可哀そうですね。あんなに清の姉君を慕っているのに、ここでお別れなんて……」
「仕方がないじゃない。私たちにはお役目があるんだから。それにイイ女は常に男から追い求められるものなのよ」
清少納言はサラリと受け流す。
一行が乗った船が港を離れる時も、李浩宇は腰まで水に浸かって清少納言の名を叫んでいた。
そんな彼を見て和泉式部がタメ息をついた。
「ホントに可哀そう、浩宇さん。あんなに情熱的に、まるで物語にように清の姉君を追っているのに」
紫式部は逆に面白そうだ。
「肝心のヒロインがあれじゃあ、彼はピエロだけどね。物語は物語でも喜劇かな」
そして清少納言の方は、既に彼の事など眼中にないようだ。
「さ、次の目的地は南京ね! うふふ、今度は出会いがあるかしら。楽しみ」
紫式部と清少納言、ユーラシア大陸を行く 震電みひろ @shinden_novel
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