第18話 宋・蘇州、太湖の畔で(後編1)

「李さん」


太湖の畔に佇む男に清少納言は声を掛けた。

男が振り向く。


(ゲッ、李さんじゃないじゃない! 確かに背格好や雰囲気は似てるけど、もっとずっとオジサンだわ)


「あなたは? どこかでお会いしましたか?」


そう尋ねて来た男に、清少納言は丁寧に頭を下げた。


「失礼しました。私は日本から参りました清少納言と言うものです。今日よりしばらくこのお屋敷にお世話になります。あなたが私たちを案内してくれた李浩宇ハオユーさんに似ていたもので、思わず声をかけてしまいました」


すると男は辛うじて口を歪めるような笑みを作った。


「ああ、浩宇ハオユーの。するとアナタが日本からの使者なのですね」


「はい、人違いですみませんでした」


清少納言は「それでは失礼します」と言って立ち去ろうとした。

ターゲット以外と会話をするほど、清少納言は甘くも優しくもない。

しかし彼女が立ち去る言葉を言う前に、男の方が口を開いた。


「いえ、間違うのも無理はありません。私は李沐阳ムーヤン、李浩宇の従兄弟ですから」


(李浩宇の従兄弟。じゃあ彼についても、この李家についても詳しいはずね。それなら少し情報収集をしてみようか)


帰ろうとしていた清少納言は、再び彼に向き直った。


「この度はこのような立派なお屋敷に泊めて頂いて、ありがとうございました。先ほどの宴会でも、こちらの素晴らしい料理を堪能する事が出来ましたわ」


すると李沐阳は苦笑しながら言った。


「宴会は豪華だったんですね。満足して頂けたのなら良かったです」


(ん? そう言えばさっきの宴会に、この人は出席していなかったわね)


疑問に思いつつも清少納言は探りを入れる。


「このお屋敷といい、李家は大変力のある一族なのでしょうね。それで李浩宇さんも科挙のために勉強されているとか」


すると李沐阳は、今度こそ失望を隠さない様子で言った。


「そうですね。今は浩宇が科挙のために勉強をしていますね。私は今やこの家ではただのお荷物……」


「……?」


清少納言が彼の答えに戸惑っていると……


「ちょっと押さないでよ。前に出ちゃうじゃない」

「でも紫の姉君がココじゃ分からないって……」


手入れされた庭木を揺らして姿を現したのは、紫式部と和泉式部だ。


「ちょっと、アナタたち、何をしに来たの?」


清少納言の問いに紫式部が答える。


「いや、まぁ、私たちも太湖の月でも見ようかなって、アハハ」


見え見えの誤魔化しだが、悪びれる様子はない。

清少納言が軽く邪魔者二人を睨む。

しかし雰囲気を読まない和泉式部は、李沐阳を指さして大きな声を上げた。


「あれ、李さんじゃない! 違う人だ!」


李沐阳が苦笑する。


「私も李ですよ。李浩宇の従兄弟の李沐阳です」


「ああ、それで」


紫式部も納得したように漏らす。

清少納言が再び尋ねる。


「沐阳さんは先ほどの宴会にはいらっしゃらなかったですよね? それにただのお荷物とはどういう意味で?」


問われた李沐阳はしばらく湖面を見つめていた。


「実は私が浩宇の前に、科挙の試験を受け続けていたのです。一族繁栄のため、みんなの期待を背負って……」


(沐阳さんが浩宇さんの前に? と言う事は……)


清少納言はようやく李沐阳が宴会の場にいなかった理由を理解した。


「ですが科挙の試験にもう7回も落ちてしまって……無位無官のままです。一族の長である祖父は、もはや私には興味を失くしてしまいました。それどころか私を一族の恥と思っている事でしょう。居なくなれば良いと」


「そんな、たかが試験じゃないですか。そこまでは……」


紫式部がそう言った時、李沐阳は叫んだ。


「たかが試験ではないのです! 一族全員の未来がかかっているのです。この地での権力を維持するためには、他の家に士大夫したいふに取られてはならないのです。そのためには李家の誰かが必ず科挙に合格せねば……」


その激しい口調に、三人とも押し黙る。


「私はそのために一生を捧げて来ました。七歳までに文字を覚え、八歳からは小学で十三経の全文57万文字を暗誦できるようになり、十五歳から太学の段階で論語・孟子・大学・中庸を読み、易経・書経・経詩・礼記・春秋を読み、史書を覚え、文章と詩賦を学んできたのです。だが、その全ては無駄になりました。今は一族の恥と言われ、世間の目を避ける日々です」


幼い頃から天才と言われてきた三人だが、彼がこれまで相当な努力を積み重ねて来た事は解った。

そしてその努力が報われなかった絶望も、理解できなくはない。

李沐阳は再び太湖に目を向けた。


「十五にして文をくして西のかた秦に入る。三十にして家無く路人とる。私もこの人と同じ立場です」


「どういう意味ですか?」


和泉式部が小声で紫式部に尋ねる。


「15歳で才能があって科挙の試験を受けに秦の都に行った。だけど科挙に落ち続けて30歳になっても、家も無くて道端にいる人になった。そういう意味よ」


「なるほど、つまり浮浪者って事ですね」


「和泉ちゃん、それは言い過ぎ!」


そんな二人を尻目に、清少納言が尋ねる。


「李沐阳さんは何歳ですか?」


「今年で既に47歳になります」


「だったらまだ大丈夫じゃないですか? 孔子は『四十にして惑わず、五十にして天命を知る』って言っています。そもそも科挙の受験資格に年齢制限はないし、官僚が70歳までですからそれまでに合格すれば……」


だが李沐阳は力無く首を左右に振った。


「いや、私にはもう続けていくだけの力がない。それに周囲の目にも耐えられない」


「そんなに悲観せずとも……」


その時、遠くから鐘の音が聞こえた。

静かな湖面が、その鐘の音に震えるようにさざ波が立つ。

その鐘の音を李沐阳も聞いたのだろう。


「寒山寺の鐘の音か。私はこの鐘の音を、この世で聞く最後の音にしようと思って、ここに来ました」


「「「えっ?」」」


驚く三人を前に、李沐阳の身体はグラリと揺れた。

後ろは崖になっていて、落ちればそのまま太湖だ。


「さようなら。最後にアナタたちのような美しい女性と話せて良かった」


両手を広げた李沐阳は、まるで殉教者のように背中から太湖に落ちようとした。



●ちょっと説明

※1、科挙の受験勉強について:中公新書『物語 中国の歴史』p168から引用

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