Aくんの話

シンカー・ワン

隣人

 人から聞いた話です。

 

 今から十五年くらい前の秋の終わりごろ、フリーターしてる若者――Aくんとしましょうか――が住んでるアパートに越してきた人がいたんですよ。

 長いこと空き部屋だったAくんのお隣に引っ越してきたのは来たのは、当時二十代半ばだった彼とそう年も違わない若い夫婦でした。

 前に住んでいたところが隣家の火事の巻き添えを喰らい、次に暮らすところが見つかるまでの一時退避とのこと。

 巻き添え食ったところとAくんのアパートのオーナーが同じ人で、空き部屋を仮住まいとして提供したみたいですね。

 大変だなとは思いつつ、人見知りするきらいのあるAくんは特に気にかけることもなかったそうです。

 ところがこの若夫婦の奥さんが実に社交的で、何かとコミュニケーションをとって来たとか。

 軽い挨拶から始まって、何気ない世間話にAくんの日常生活についてふれ、訊かれてもいないのにご夫婦のなれそめまで明け透けに話し出す始末。

 そんな人ですから、アパートからそのご近所さん迄、あっという間に顔見知り状態になっちゃって。

 人付き合いの苦手なAくんでしたが、奥さんの勢いに巻き込まれる形でいつの間にかご近所の輪に入っていたそうです。

 そのアパートで住みだして何年にもなるけど、初めて他の階の住人と話したなんて言ってましたよ。

 ただ気になったのは、旦那さんの存在感の薄さ。

 奥さんが前へぐいぐい行く人だったから、陰に隠れちゃってたんでしょうね。

 いつからかそこに居て、いつの間にか居なくなっている。若いのに枯れちゃってる、そんな感じの人だったそうです。

 Aくん自身も旦那さんと直接話したことはあまりなく、あとから思い出せば声を聞いたのも稀だったとか。

 さしたるトラブルもなく日々は過ぎていってた。Aくんはそう思っていましたが、世間は違っていたそうです。

 コンビニバイトへの行きがけ、顔見知りになってしまったご近所さんたちから「ちょっとちょっと」と聞かされたのは、幼児らしい惨殺体が見つかったって話。

 実はAくんの住んでいる街、未就学児の失踪が続いていたそうなんです。

 なんでも夜の務めに出ているシングルマザーが明け方帰宅したら子供が居なくなっていた、なんて事件が何件も起きていたとか。

 見つかった遺体は、その消えた子供なんじゃないかって。

 テレビは持ってないし身近に子供もいないAくんには縁遠い話題だったのですが、ご近所さんたちは違います。

 お子さんのいる家庭もあります。親が家を空けている間にもしかしたら? と戦々恐々。

 幸いと言うか、Aくんの住んでる地区で失踪した子供はまだおらず、なんにしても気をつけなきゃねとご近所さんたち。

 知り合いにはなったけど子持ちじゃないAくんには親身にはなれず、そう言うことが起きているのかとおぼえておく程度でした。

 そんな会話を交わしてから数日後、バイト仲間からシフトの交代を頼まれ、珍しく深夜帯に働いたAくん。

 明け方近く仕事を終えての帰宅途中、近道気分で入った路地の先で見かけたのがなんとお隣の奥さん。

 Aくんの頭に浮かんだのは「なんでこんな時間にこんなところに?」でした。

 一瞬声をかけようと思いましたが、昼間とは違う奥さんの雰囲気にかけそびれてしまったそうです。

 普段の明るさは全く感じられなくて、ものすごく暗い目をしていたと言うか、顔が真っ黒に見えたとか。

 そのただならぬ雰囲気に何故か気づかれちゃいけないって気がしたAくん、気配を殺して奥さんをやり過ごそうとしたそうで。

 隠れて様子をうかがってると、奥さんが何かを手に持って引き摺っているのに気がついたんですよ。

 路地裏の薄暗い街灯で引き摺っていたそれがハッキリ見えたとき、Aくんは声が上がりそうになるのを必死でこらえました。

 奥さんが引き摺っていたのは幼児でした。いえ、幼児というべきでしょう。

 遠目でしてたがその子供はとても生きているようには見えなかったから。

 手や足、それに首が不自然な曲がり方していて、あれでもし生きているのだったらおかしいくらいだったそうです。

 奥さんと子供が路地の向こうに消えると、Aくんは急いでその場を離れました。

 どこをどう通り抜けたかも覚えておらず、気がついたらうちに帰ってて、布団にくるまって震えていたと。

 鍵をしっかりとかけたことだけは覚えていたそうです。

 次の日、通常シフトのバイトへ行こうとした際、お隣の奥さんとばったり会って心臓が喉から飛び出るんじゃないってくらい驚いたとか。

 奥さんにはあの夜見かけたときの暗さは全然感じられなくて、あれは見間違い人違いと思いこむことでAくんはその場はやり過ごしたそうです。

 ……でも何か悟られたのでしょうね。それ以降たまに奥さんから向けられる視線に刺してくるようなものを感じることがあったとか。

 Aくんは会うたびに以前のように接しようとして神経がすり減る思いで過ごしてましたが、あまり日を置かず、お隣の夫婦は新居が決まり違う街へと越していきました。

 その後、Aくんの街で幼児が行方不明になる事件はぴたりと止まったそうです。

 若夫婦が越していった先では? と訊いてみますと、Aくんは薄く笑うだけ。

 その態度でこちらの想像通りなのだろうことがうかがえました。

 今はアラフォーのAくんですが、お別れの際奥さんが向けた笑顔のあとに一瞬浮かべた表情、あれが今も夢に出ると言ってました。

 あの夜見た、真っ暗な顔だったそうです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Aくんの話 シンカー・ワン @sinker

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画