良い人、悪い人

爆裂五郎

良い人、悪い人

 これまでの人生で、誰かに対し「あの人は良い人だ」、「あいつは嫌なヤツだ」、そう思ったことは誰しもあるのではなかろうか。

しかし善人や悪人というのは本当に存在するのか、そして善人や悪人とは何か、そこを少し深掘りしていきたい。




 もし、誰に対しても優しく接するのに自分に対してだけ嫌な態度をとってくる人間がいたら、自分はその人に対して「良い人」と評価できるだろうか。

優しくされた他の人はできても、自分にとっては「実は嫌なヤツ」と感じるだろう。

つまり、良い人悪い人というのは誰が判断するかで変わってくるということだ。


例えばスポーツの記事でも、同じ出来事でもそれを書く人によって内容は変わる。

我々にとっては、「日本が優勝!素晴らしい結果です」でも、

他の国では「無念の敗退。残念です」という風な書かれ方をするだろう。

その出来事が「良いこと」か「悪いこと」か、書き手によって違ってくるため、読み手はそこを踏まえながら物事を判断する必要がある。


そんなこと当たり前だと思うかもしれないが、その判断が難しいケースもあるだろう。

多くの人がこうだ、という意見がある場合、

それが「自分にとっても」そうだ、と思い込んでいるようなことはないだろうか。

中には、自分なりの意見があっても押さえ込んでいる人もいるだろう。そういった人はHSPと呼ばれているようだ。

誰にとっても同じように受け取れる事柄というのは、意外に少ないように思うのだが、

そもそも自分の意見がない、という様な人の場合は目の前にある解釈をなんでも鵜呑みにして、それに染まってしまっていることになる。

そこまで極端な人はいないかもしれないが、

世の中では様々な物事において、誰かを悪人と決めつけることが多い様に見える。


創作物でも、いかにも悪そうなキャラがいて、そいつをやっつけて解決、めでたしめでたしといったお話は珍しくない。

明快でスカっとするので、誰でも楽しめる。所謂「良い作品」が多いだろう。

しかし現実はそんな単純ではないはずである。

小説や漫画では人物の独白など、読者視点でその人物がどういうキャラかはっきりする描写があったりするが、現実にそんなものはない。

人の目、という千差万別なものを介する時点で、誰かを悪だと断ずること自体おかしな話である。


しかしながら、明確に法律を破って無関係な人達に迷惑をかけた人間は、犯罪者と呼ばれ世間一般で悪人とされる。

通り魔殺人などは、凶悪犯罪と断言できるだろう。

だが、もしそんな凶悪な人物でも、過去に気まぐれで人命救助をしていたとしたらどうだろう。

少なくとも、その救助された人物にとっては命の恩人であり、その通り魔を悪くは言えないのではなかろうか。

もし仮に、その救助された人物が周りの被害者と一緒になって通り魔に死刑求刑をしていたら、

「いやあんたは庇ってあげなさいよ」と思ってしまう。


少し極端な例を出したが、こういったことは可能性としてありうるだろう。

現実、どうしても反りが合わない人間がいたとしたら、その人間は一切信用できない、しないと決めつけてしまう方が楽だ。

でももしその人間が、稀に自分に対して有用な話をしてくれたとしても、「こいつはロクでもない、聞くに値しない」

と脳にフィルターをかけて拒否してしまうのは、非常にもったいないことのように思える。


少し話がそれたが、

じゃあ結局、善人悪人って何だ、まやかしなのかということになるが、

実際のところ、多数派であるかどうかによるのだと思う。


多数派が「正義」で、少数派が「悪」。これは筆者の中の定義で、広辞苑などで記載されたものではないと断りを入れておく。

善と悪、正義と悪、良いと悪いでは微妙にニュアンスが異なっているように見えるが、本文では同義とみなそう。


言葉の表現で、失笑する、琴線に触れる、等のような本来の意味とは違った意味で広まっているものがあるが、

間違っていようがそれで皆に伝わるなら正しいといえるだろう。

もしかしたら、本来の意味はずっと昔に塗り潰されていて、現代人の全員が誤用している言葉もあるのかもしれない。


「それでも地球は回っている」で有名なガリレオも、その考え方が当時タブーであったがために有罪判決を受けており、「悪」だったといえる。

今の時代ではガリレオが「正しい」とされていることから、正義や悪というものは、数の多さや時代背景で覆るあやふやなものだと感じる。



これらのことを踏まえると、正しいとされることが、必ずしも真実であるとは限らないともいえるのではなかろうか。



例えば大切な友達が周りの大多数から犯人だと疑われているとして、自分はどうすべきだろうか。証明こそできないが、その友達が犯人ではないと知っている場合だ。いや、分からない場合でも同じかもしれない。

上述した通り魔のくだりと被るが、例え自分が「悪」になってでも動くべき場面は人生にあるはずだ。

正しく生きる、は多数派に回りながら生きるともいえるが、それは人生にとってベターやベストといえるか。


正しいかどうか自体は、曖昧で不確かではあるがそこに存在する。だが、正しくないからといって間違いであるとは限らない。

100人が100人、それはおかしいという意見があっても、10年後もそうとは言い切れない。

でもさらに10年後に、やっぱりそれはおかしいと考えが戻ることもあるかもしれない。

何が良いか悪いか決めるための絶対的基準など、結局の所ない。




 善悪というものに拘りすぎず、本当に自分にとって大事にすべきものは何か、

それを常に考えながら、かつ世の中と折り合いをつけながら生きていくことが人生に必要なことだと思う。

結論なんて出ないだろう。世の中はめまぐるしく変わっていくから。

考え続けなければならないというのは、とても疲れることだ。そのうち放棄したくもなる。

しかし自分の事を決めるのは自分自身であるべきだ。

この現代社会は、いつかAIに支配されるなんて話もあるが、それは全ての人間がAIに思考を完全に委ねた時だろう。


だから我々は考え続けなければならない。

何故なら我々は、であるのだから。

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