第9話 過去への呪縛
りえ嬢の身体には、懐かしさがあった。すべてが終わり、童貞を卒業した時、なぜか涙が出てきた。女の子が処女を失った時、涙を流すことがあるというが、それを聞いた時、
「そんな殊勝な女性、そんなにたくさんいるわけない。中学生くらいのものなんじゃないだろうか」
と思っていたが、男でも、しかも、いい大人がこんな気分になるなんて、訳が分からない。
しかも、相手は自分が好きな相手とかではないではないか。好きな相手にだったら、うれし涙もあるのだろうが、これはうれし涙ではないということは分かっている。
風俗に行くという背徳感でもない。虚しさでもなければ、憔悴からの涙でもない。一体何が涙に変わったというのか、松岡には分からなかった。
りえ嬢はというと、向こうを向いて小刻みに揺れているではないか。
――泣いているのか?
と思って、思わずこちらに彼女を向けると、りえ嬢は顔を両手で覆って、見られたくないという素振りをした。
「どういうことなの?」
と聞くと、
「これは、あなたがいた世界の人には絶対に理解できないことだと思うの。あなたのいた世界であれば、この行為は重罪に値する行為だからよ」
というではないか。
「えっ、どういうことなんですか? 風俗産業は法律さえ守っていれば、ちゃんと市民権を得ていることのはずなんだけど?」
というと、
「ううん、違うの。この世界でも風俗産業に対しての考えは同じよ。むしろ、あなたのいた世界よりも、もっと風俗に関しては肝要なの。ある意味、病院か療養所に近いような認識もあるくらいよ。社会正義に属するくらいのものなの。それだけあなたのいた時代とは隔たりがあるということなのよ」
とやけに、りえ嬢は、
「あなたのいた時代」
という言葉を口にするではないか。
「りえさんは、僕のいた時代を知っているんですか?」
と聞くと、
「いいえ、詳しくは知らないけど、このお仕事をしていると、過去の歴史に関しては、他の人よりも勉強するのよ。特に私は大学でも現代史と呼ばれる勉強をしたわ。日本が崩壊に至るまでの歴史をね」
と言った。
「じゃあ、りえさんは僕がいた時代を認識しているということですか?」
と聞くと、
「そうね、令和三年という時代なんでしょう? 認識しているわ」
という。
「一体、どういうことなんですか?」
「この時代、風俗嬢というのは、結構人気のお仕事なのよ。さっきも言ったように、男性の療養のための仕事であったり、童貞卒業の相手であったりするのよね。それにあなたの時代には存在しなかった男性のソープもあるのよ。あなたの時代には、ホストクラブくらいしか男性の風俗的なものはなかったでしょう?」
と訊かれて、
「そうですね」
と答えると、
「そのホストクラブが大いに問題となったのよ。時代は極端なまでに、男女雇用均等法の問題が叫ばれるようになって、そのために、ホストクラブという商売が一時期、男性相手の風俗よりも強くなったのよ。それが、女性を食い物にするための商売として君臨してくるようになると、女性側と男性側で大いに揉めた。男性の中には男女雇用均等法を胡散臭いと思っている人も多かったので、ホストクラブを反映させることで、女性に一泡食らわせようという男性が増えてきたのよ。そのために、風俗戦争が勃発し、結果、痛み分けだったんだけど、その弊害として、国会で、風俗営業禁止法という悪法がどさくさに紛れて成立してしまったの。それで男性も女性もストレスが解消できなくなって、大人は皆情緒不安定になった。それが勝手に国会で禁止法を定めた政府と三つ巴の戦争状態となり、結局、日本国は秩序から崩壊していったのよ。これが、日本という国が崩壊した理由なの。でもね、本当の崩壊理由は、誰もしゃべってはいけないことになって、結局一部の人しか知らないこととして、歴史に残ったの。だから、歴史の教科書には、日本国の崩壊と、今の世界が、中央集権から、地方分権の合衆国のような国家体制になったという形式的なことしか書かれていないの。これは、昔から歴史という教科が暗記物の教科だったということが幸いしたおかも知れないわね」
と、りえ嬢は話してくれた。
「令和三年にその事件が起こったんですか?」
と聞くと、
「もう少しあとだったかしら? でもその前の前兆として、タイムマシンの開発があったの。これも国家機密となっているんだけど、タイムマシンを使って過去に行った人がいるのよ」
という話を訊いて、松岡はドキッとしていた。
「それは一体……」
そこまで言うと、それ以上何も言えなくなった。
「その人は、タイムマシンの開発者ではなく、過去からやってきたタイムマシンに乗って、過去に行くの。その人はこの世界に嫌気が差した人で、その人も現代史を勉強していて、常々言っていたのが、『半世紀くらい前に戻れば、今の時代がどうして形成されたのか分かる気がする』という言葉だったの。ちょうど、世紀末くらいなんだけど、彼が注目したのは、阪神大震災やオウム真理教がサリン事件を引き起こしたあの時代だったの。それに彼はその時代のことを、天変地異の始まりの時代だって言っていたのよね。私はその時彼ほど勉強をしていなかったので分からなかったんだけど、その時代がなぜ彼にそう思わせたのか、今なら分かる気がするの」
という。
「それはどういうこと?」
と聞くと、
「それはね。その年に起こったことではなく、その前の年の夏のことだったの。その年の夏は、七月に入って、雨がまったく降らずに、七月に入ったとたん、気温はぐんぐんうなぎ上りになっていったの。令和三年の人には珍しくないと思うんだけど、それまで、気温が三十五度を超えるなんて、ほとんどなかったのよ。三十三度でも、その年の最高気温というくらいだったのが、この年から急に気温が上がるようになって、しかも、梅雨の終わりには必ずと言っていいほどの豪雨に見舞われるようになったでしょう? さらに台風の発生も異常なくらいになり、その進路も予測はできるんだけど、それまでの台風の進路とはまったく違った傾向になってきた。これが地球における自然環境破壊に繋がる第一歩だったのよ。彼はそのことを突き止めて、その時代に行ってしまった」
というところで彼女は話をやめた。
「どうして、そこで話をやめたんですか?」
と聞くと、
「だって、彼はこの時代には戻ってこなかったの。そのままその時代にとどまったのよ」
というではないか。
「えっ? じゃあ、どうしてそのことを知っているんですか?」
「彼が私にそのことを書いた書き置きを残していたからなの。俄かには信じられなかったけど、今は信じることができる。あなたがこの時代に来たことで、それが証明された気がしたからなのよ」
というではないか。
「よく分からないんですが、あなたはその人と恋人同士だったということですか?」
「恋人同士というよりも、夫婦だったと言った方がいいかも知れないわ。いや、正式に別れたわけではないので、まだ関係上はまだ夫婦ね」
「じゃあ、あなたの旦那さんは、あなたを捨てて過去に行ってしまったということですか? なぜなんだろう?」
というと、
「私は捨てられたということは、最初に強く思っていたんだけど、今は本当にそうなのかって思うのよ。彼は言っていたわ。過去に行って、その世界に到着すれば、タイムマシンは破壊するってね。過去に行くということは、それだけ罪が重いことだと思うんだけど、なぜ彼がそう思ったのか、そこまでして過去に行こうと思ったのか分からない。実際に彼が過去に行ったことで何が変わったのか、分かるわけもないしね。だって、私たち人間は、たくさんある可能性の中の一つにしか存在できないわけだし、他の世界を覗くことはできないんだからね。だから、彼が何かを変えたとしてお、それは別にたくさんある可能性の方向を変えたというだけで、よく言われていることとして、過去を変えてしまうとビックバンが起こるなんてこと、ありえないと思うのよね、もし、過去を変えたのだとすれば、本当に進むはずだった将来を、今進んでいる将来の二つを見ることができるようになるということで、それが本当にいいことなのか悪いことなのか分からないけど、その人の思いとは関係なく、嫌でも見せられることになる。これはその人にとっては、ある意味ビックバンよりもむごいことなのかも知れないわね」
と、りえ嬢は言った。
「あの人ね、過去に何かを忘れてきたって言ったの。あの人はそれを取りに行ったのかも知れなんわ」
と、続けたが、それ以上は言葉が出ないようだった。
それを見た松岡はりえを強く抱きしめた。話を訊いただけなのに、ここまでいとおしく感じるのは、自分が過去に帰ることができなくなったことで、
「過去に行ってしまって、この時代に戻ってくることをしようと思わなかったその旦那の気持ちが何となく分かった」
と思ったからであろうか?
「ねえ、松岡さんは、過去に戻りたい?」
と訊かれて、
「それは戻りたいですよ」
というと、
「過去に戻って待ってくれている人、あるいは、会いたいと思う人っているの?」
と言われて、ハッとしてしまった。
「俺は研究にかまけて、ただそれだけのために生きてきたんだ。そんな人はいない」
と言ったが、少なくともりえに逢いたい人、待ってくれているであろう人の話をされた時、ドキッとしたのは事実だった。
研究に没頭していても。それくらいの人はいると自分で思っていた。しかし、それは多い上がりであり、そんな比とは存在しない。自分が心からそう思わないとそんな人はいるはずもないだろう。もし、いたとすれば、その人に対して失礼だし、自分にとって、その人たちを自分の世界に引き込むのは、罪なことだと分かっているだろう。
それなのに、いないことを、研究のせいにして、まるで自分を犠牲にしていることを美談にでもしようとしている自分がいることに気づくと、恥ずかしさというよりも、思い知らされたことへの彼女に対しての尊敬の念がこみあげてきた。
そして。今まで過去に戻ろうと思った自分が恥ずかしく思えたくらいだった。
「そう、そうなのよ。彼もさっきまでのあなたのような目をしていたの。まるで人生に諦めたかのようなね。だから、きっとあの人は戻ってこないと分かっていたわ」
「でも、それだけで、旦那さんが戻ってこないということが分かるの?」
「ええ、分かるのよ。実は彼が残した手紙が見つかったの。それも、今日ね。だから、今日は何かが起こる日だって私は確信していたの」
というではないか。
「彼の手紙というのは?」
というと、彼女がボロボロになった手紙を出してきて、松岡に見せてくれた。
「この手紙ね。あの人が、死ぬ前に書いたらしいの。署名を見ると、令和十三年と書いてあるでしょう? だから、ちょうど七十歳くらいの頃になるのかしら? しかもちょうど政府が崩壊した混乱の時期。ひょっとすると、巻き込まれそうになったので、自ら命を断ったのかも知れないわね」
という。
「じゃあ、遺書のようなものということなのかい?」
「ええ、私はそうだと思っている。だから、余計に彼の気持ちが分かるし、すべてを告白してくれているのだと思っているの」
「僕が見てもいいんですか?」
「ええ、読んでほしいの」
というではないか、そんなに人に見てもらいたいということなのだろうか?
もし、見てもらうのだとすれば、その相手はこの状況を知らない人がいい。つまり初対面の人で、変に因果関係のない人に見てもらって、何らかの慰めにでもなればいいとでも思ったのだろうか?
それならそれで、童貞を卒業させてくれたお礼として、その気持ちに答えればいいのだろうと思い、気楽な気持ちで読んでみることにした。
手紙を読んでいると、確かにこの旦那という人は、妻であるりえさんに対してというよりも、先ほど自分が感じたように、自分のまわりに誰もいないと自覚したことがタイムマシンを使う理由だったという。
タイムマシンを使って過去にいくと、そこには、前述のようにりえさんが言ったような、
「あなたには、待っていてくれる人や、会いたい人が未来にいるのか?」
と訊かれて、それがりえさんだとは言えなかったという。
その時に一緒にいてくれた女性をいとおしいと感じ、もうこの時代から自分が離れられないことを自覚した旦那が、そのままタイムマシンをぶち壊してしまったのだ。
永久に戻ることのできない未来、それは、過去に戻ることのできない自分と同じだった。自分の場合は、過去に戻って、他人の人生を狂わせることの危険性のために戻れないようになっているのかと感じたが、そうではないのかも知れない。
この人の遺書を見る限り、自分はこの世界にいなければいけない人物であり、旦那にとっての癒しをくれたその人が自分にとってのりえさんになるのではないかと感じた。
旦那はその時に出会った人と一緒になり、過去で人生をやり直した。子供も生まれて、幸せな人生を歩んでいたという。
だが、その子供というのが、ある時から科学や物理学に興味を持って、勉強し始めた。
「タイムマシンを作るんだ」
と言い始めたという。
それを聞いて、旦那は恐怖を感じた。
「自分がこのままこの子供のそばにいることは許されない」
と思ったということで、しばらく海外にいたという。
そして、日本に帰ってきた時には、その息子が行方不明になっているのを聞いて、頭を抱えたのだった。
「息子がどうなったのか、俺は分かっているが、きっと俺と同じ運命を歩んでいるかも知れない。すべての罪を作り出したのは、この俺なんだ」
と言って、旦那は後悔の念に捉われていると書かれている。
未来から来た旦那が、日本の崩壊を知らないわけはない。その時を彼は自分の死に場所だと考えたようだ。
確かに、旦那の生き方は、それはそれで仕方がないと思う。ただ、それは旦那の手紙を遺書だとして見ているからである。どうしても贔屓目に見てしまうからで、それはきっとりえさんも同じことではないのか。
そう思いながら、手紙を読んでいると、最後の方で、何か不思議なことが書いてあった。
それはこの世界のことのようで、元々この世界から飛び立った彼だから知っていることなのは当然のことである。
「お前も知っているように、生まれ変わった日本という国は、近親相姦が許されている国だ。お前のところに、俺の息子が行くことになるかも知れないが、その時は、俺だと思って大切にしてやってくれ」
と書かれていた。
「これって……」
と言って、その手紙を折りたたんで、りえさんに返すと、りえは、頷いていた。
「まさかと思うけど、ここに書かれている息子というのは、僕のことなんじゃないでしょうね?」
というと、
「私も信じられなかったわ。でもね、あなたにさっきの質問をした時、私は彼のこの手紙の言いたいことが分かった気がするの」
というではないか。
彼女のいう言葉というのは、
「過去に戻って、あなたを待っている人、会いたい人がいるの?」
という質問である。
それに対して何も答えることができなかった松岡は、まるで過去に行ってしまった旦那と同じではないか。
「この世界では、近親相姦もありだし、親子で結婚することも許されているの」
というのを聞くと、
「じゃあ、俺たちが今まで生きてきた世界のモラルや倫理なんて、まったくここでは通用しないということになるのか?」
というと、
「そういうことなんでしょうね。そもそも、国家が崩壊したわけだからね。倫理、モラルが行き過ぎていたということの反省なのかも知れない。そういう意味で、この世界では結構自由が許されているけど、でも絶対にダメなのは、タイムトラベルなの。これは重罪になるのよ」
というではないか。
「でも、旦那さんはそれをしたんでしょう?」
「ええ、彼が最初で最後のね」
という彼女に対して、
「そういう意味でもこの世界に帰ってくることを、旦那さんは怖がっていたから、戻ってこなかったということなのかな?」
というと、
「そうじゃないの。この法律ができたのは、あの人がタイムマシンで過去に行ったからなの。だから、今あなたのタイムマシンがあそこにあなたは隠されていて、それを警備隊が守っていると思っているんでしょうけど、それは違うの。そもそもそのタイムマシンを最初に見つけて、それで過去に行ったのが、私の旦那だったのよ」
というではないか。
「えっ、じゃあ、元々のきっかけを作ったのは、この俺だということになるのか? 俺がタイムマシンなどを作ってしまって、この世界に来てしまったことで、旦那さんとりえさんの運命を変えてしまった。なんて罪作りなことをしてしまったんだろう?」
と言って、後悔した。
「それも違うわ。確かにタイムマシンというものが運命を狂わせたのには間違いはないんだけど、なるべくしてなったことだと私は思っているの。これが運命だとすれば、それを神妙に受け入れるのも、人間なんじゃないかって思うのよ」
とりえは言った。
「じゃあ、りえさんは、この状況を受け入れようと思っているの?」
「ええ、私はそう思っているわ。でも、あなたに強制はできない。それも私の本心でもあるの」
と言って、考え込んでいた。
タイムマシンを作ったことが、このような形の人生のねじれを作ってしまったということか。
タイムマシンが、時間の捻じれを作り出すのだとすれば、最初に考えていたことは、
「すべてのことは一つの結論しか生み出さない」
という常識が、違っているのだということを、こういう形で証明している。
前の世界では、近親相姦や、親子でも結婚などあり得ることではなかったはずで、タブーだったはずだ。だが、その理由がなぜなのか、ハッキリと分かっているわけではない。昔から言われているというだけで、都市伝説的に、
「身体に障害を持った子供が生まれる」
という説があるからであったが、それが証明されているわけではない。
そういう意味では、まったくの根も葉もない話を人類の歴史上ずっと信じられていたことへの一つの挑戦でもある。
このような都市伝説的なことはもっとたくさんあるだろう。今ここでいうところ、
「一つの結論」
として、近親相姦の考え方があるのだが別に結論が存在するとすれば、それはどこか知らないところで誰かが証明しているのかも知れない。その結論が無限であると思うと、りえと一緒に歩んでいく人生。それこそが、今の自分の人生なのだと思えてきた。
タイムマシンの開発。一度だけのタイムトラベル。一度だけしか許されないが、それが無限の結論を生み出すのだとすれば、一つの時代をこじ開けたと言えないだろうか。
手紙を握りしめているりえを抱きしめる松岡。ここからが本当の人生の始まりだということなのだろう……。
( 完 )
無限への結論 森本 晃次 @kakku
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