第8話 未来という今

 まわりの彼女を見る視線としては、

「プライドが高く、ズバズバを言いたいことを歯にモノを着せぬようにいうことのできる女性だ」

 ということで、

「何を言われるか分からない」

 という思いからの視線であった。

 つまり、まわりの久則に対しての視線は、

「話しかけたという事実というよりも、平気で話しかけることができる久則に対しての羨ましさと、ある意味の尊敬の念が含まれた妬みだ」

 ということではないだろうか。

 自分たちにはできないことを平気でできている久則に対しての感情を、まわりもどう示していいのか分からない。

 ひょっとすると、

「男性版の彼女」

 とでもいうのか、彼女に抱いていた思いを、久則の目を通して抱くようなイメージで見ているのかも知れない。

 久則は、彼女の視線よりもまわりの視線が気になってしまった。そのおかげか、彼女に対して飽きが来ることはなく、かといって、それ以上仲良くなることはなかった。

「好きになったわけではないけど、興味は湧いてきたような気がするな」

 と感じてくるようになった。

 まわりから見れば、付き合っているかのように見えたかも知れない。しかし実際に付き合っているわけではない。まわりの視線と自分の感情のギャップがある意味皆を欺いているかのようで、楽しくもあった。

 だが、結果的に間違っていたのは自分の方だった。

「やっぱり好きになっていたんだな」

 と思って、告白すると、

「その言葉を待っていたの」

 と言われて、どうして今まで気付かなかったのかと自分で後悔した。

 今までに感じたこともない充実感が自分の中で有頂天になっていった。

 それからの毎日はまるでお花畑にいるかのようで、

「躁状態って、こんな時のことをいうのかな?」

 と思うほど、何をやっていても楽しかった。

「箸が転んでも笑いが止まらない」

 と思春期の女の子などはよく言われていたが、

「まさかそんなことはないよな。少しオーバーなんだよ」

 とそんな風に思っていた自分が、まさか二十歳前後になって、そんな状態になるなどと思ってもみなかった。

 だが、よく考えてみると、こんな気分にいつかはなるのではないかという予感めいたものがあったことから、

「これって、人生に一度は誰もが陥る時期なんじゃないのかな?」

 と感じた。

「人生には、一度は誰もが陥る状態というのがいくつかある」

 という思いは、それまでにも抱いていた。

 しかし、それがいくつあって、どれほど感情の中に占められたものなのかということは想像もつかなかった。そもそも、自分の感情の全体が把握できていないのだから、占められた部分というのもないものだ。それを思うと、久則は、その時の自分が今どのような感情の中にいるのかすら分かっていない。

 それが分かっているくらいなら、このような有頂天にはならないだろう。

「何をやっていても、それ以上の楽しいことはない」

 と平気で思える時期。

 そんな感覚が本当に存在するなどとは思ってもみなかった。

 本当に理解しがたい時期だったことであろう。

 子供の頃に比べて、自分が飽きっぽくなっているということを知らなかったことが、最初の頃付き合っていた女性には気づかれていたようだったというのを、それから少しして、以前付き合っていた女性と偶然再会して言われたことがあった。

「最初、付き合った時はね。本当にいい人だと思ったの。ううん、いい人という括りでいえば、その言葉に間違いはないんだけど、あなたの場合、その優しさが仇になってしまうことがあったのよ」

 というではないか。

「どういうことなんだい?」

 と訊いてみると、

「私は、正直それまで、少し男性を信じられないと思うようなことがあったんだけど、あなたと一緒にいると、それまでの嫌なことを忘れることができたの。私があなたといる時、本当の自分を出せる気がするって言ったのを覚えていない?」

 と訊かれて、確かにその言葉に覚えがあったので、

「うん、覚えているよ。それを言われた時、本当に嬉しかったもん」

 というと、彼女は苦笑いをして、

「そう、あの時あなたも、今と同じ顔をしたのよ。何というのか、どこか他人事のようなね。本人はそんなつもりはなかったんでしょうけど、それを見た時、この人は飽きっぽい人なのかな? って思ったの。要するに、毎回表情が違うのよ。もし他に彼女がいて、浮気をしているのだとすれば、もっと気を付けた顔をするんだろうけど、そんな素振りはまったくない。意識をしない人にはそれがあなたの誠実さなんだろうと思うでしょうね。でも、私は違った。飽きっぽいところが無意識に出てきたんだって思った。だから、少しずつ距離を置くように心がけていたのよ」

 と言われて、

「そうなんだ。僕にはそこまでは分からなかった。付き合っているうちに、急に態度が変わったような気になったので、ビックリしたんだけど、もうその時は取り付く島もない様子で、それまで、一番話しやすいと思った相手が、一番話しにくい相手になってしまったような気がして、どうしていいか分からなくなったのを覚えている」

「そうね、あなたは、その思いがあったんでしょうね。だから、あんなに慌てふためいて、どうしていいのか分からなくなって、パニックになったようだわ。でも、その時、思ったんじゃない? どうして自分はいつも同じ轍を踏むことになるんだろうって。それは見ている私には分かったのよ。そして、その時のあなたには分かるわけはないとね。それが分かるくらいなら、私があなたのことを怪しい目で見たりはしないはずなので、最初からそんなことは起こらなかったはずなのよ」

 と彼女は言った。

「じゃあ、どうすればよかったというのかって考えるんだけど、結局同じなんだよ。何度も同じことを繰り返して、まるでデジャブのように思えてしまう」

「あなたは、デジャブを無限にループさせるかも知れないわね」

 という彼女の言葉を聞いて、急に怖くなった。

 的を得ているというよりも、自分のすべてを見られているようで、全裸になってたくさんの人に見られるよりも、彼女一人に気持ちの中を抉られる方が恥ずかしく、気持ちの悪いものはない。

 この時ほど、

「無限」

 という言葉を恐ろしいと思ったことはなかった。

 きっと、

「ループ」

 という言葉が一緒になっているから感じることなのではないかと思うのだった。

「あなたは飽きっぽいの。それは、忘却という感覚に似ているような気がするの。飽きっぽいというのは、忘れてしまった感覚なんだけど、前にも同じような感覚を味わった時、よかったという意識はあっても、どこが良かったのかなどということがわかっていないから、飽きっぽいという思いに至ってしまう。それをあなた自身が分かっていないということ。それが一番のあなたの悪いところ」

 とズバリ言われて、考えれば考えるほど、またしてもループに入り込む。

 なぜかというと、大概のことは分かっているつもりでいるのに、肝心なところを忘れてしまっているということで、意識としては、肝心なところが抜けている。そのため、飽きっぽいという意識に落ちつけようとするのだが、そこが強引であることが分かっているので、また今度は違う理屈を考えようとする。

 それが無限のループを作り出してしまうのだろう。

 それを思うと、飽きっぽさは悪いことであるのだろうが、直接的なものではなく、無限ループに陥るためには、他にも原因があるような気がしてならなかった。

 風俗の馴染みの女性からも言われたことがある。

「あなたは飽きっぽい性格のようね」

 といきなり言われた。

「どうしてだい? 飽きっぽいのなら、他の女の子を指名するんじゃないのかな?」

 というと、

「そうじゃないのよ。それとこれとは別なの、もっとも、同じだと思っているあなたのその発想が、その理屈を分からなくさせているのかも知れないわね。というのはね、あなたが私以外を指名しないのは、単純に怖がりなだけだからじゃないの? だって、他の子を指名して後悔したくないという思いがあなたの中にあるのよ。自分でも分かっているでしょう?」

 と言われて、思い出したのが、前に彼女と電車の中に乗っていて、謂れのない因縁を吹っ掛けられ、その場を大人の対応でやり過ごしたことで、自分が精神的に耐えられなくなったことで、しなくてもいい後悔をして、さらにそれがトラウマになってしまったことを言った。

「そうでしょうね。その時のトラウマがあるから、あなたは、他の子を指名できない。でも、それがあなたのいいところでもあるのよ。正直なんだって思うわ。あくまでも、自分に正直なのね。でもこれって私は大切だって思うの。何に対して正直なのがいいのかということになると、私は自分に対して正直なのが大前提だと思うのね。つまりは、自分に正直でなければまわりに正直になんかなれないでしょう? あなたはその時にトラウマになったと思っているかも知れないけど、ポジティブに考えればいいことだと私は思うんだけどね」

 と言ってくれた。

「トラウマが自分の中にできてくると、嫌なことは忘れたいだとか、思い出したくないと思うようになると思うんだ。飽きっぽいというのは、言葉としてはどうかと思うけど、皆自分に対して正直になろうとする気持ちが強ければ強いほど、相手に求めるものがあるような気がする。自分が正直であるということを相手に分かってほしい。そしてそれが悪いことではないと思ってほしいって、相手にどうしても期待してしまう」

 と、彼は言ったが、

「それが表に出る人と出ない人がいて、あなたのように出やすい人は、それが形を変えて、飽きっぽく見えるんじゃないかしら? あなたが飽きっぽいと思っているのは、本当は好きなものをとことんやってみたり、食べてみたりを繰り返すことができるだけに、一度飽きてしまうと、見るのも嫌になるでしょう? その原因から結果にいきなり飛んで行ってしまう発想があなたの中にあって、それを飽きっぽいと思うことで、あなたの勘違いは起こってしまったと思う気がするの」

 と、彼女は言った。

「ちょっと話が難しくなったね。とても、頭の中で整理できない気がするな」

 と久則がいうと、

「そこまで思う必要なんてないと思うのよ。飽きっぽいということを、悪いことではないと思えてようになれば、きっといい出会いもあるだろうし、楽しい気持ちでいつでもいられるような気がするんだけどな」

 という彼女に、

「僕は正直、人と今はあまり関わりたくないんだ。ここで君と話ができるだけで十分だと思うし、他の人とでは、ここまでの話はできないような気がするんだ。それだけ君がたくさんの人を見てきたという証拠なのかな?」

 というと、

「そうかも知れない。でもあなたがそれでいいならそれでいいと思う。月並みな言い方だけど、結局、自分の人生は自分にしか歩けないのよ。恥ずかしいとか、まわりばかり気にしていると、何もできなくなる。それでも自分の成長のためには仕方がないと思うか、わだかまりを捨てて、自分らしく生きるのがいいかという選択になると思うんだけど、それがよかったかどうか。いずれは分かるということなんでしょうね」

 と言って、彼女は苦虫を噛み潰したような表情になった。

「それがいつなのか分からないということは、下手をすると、その時が来ているのに、自分で気付かなかったりしたりはしないかな?」

 と久則は言った。

「それはあるでしょう。だからこそ、自分を他人事のように思って、その隠れ蓑として、飽きっぽいと考えるのであれば、ある意味、その答えが分かってくることになるかも知れない。でもね、これって究極の理屈になるから、そのことに気づいても、それをどうこうできるわけではない。ただの答え合わせなだけだということなんでしょうね」

 と、彼女は言った。

 それが、今、令和三年の今ということになるのか、久則には時代が巻き戻されたかのような錯覚を感じているのだった。

 時代が移り変わり、今は令和の三年になっている。すでに五十歳を超えていて、六十歳に近づいてきているが、今でも夢を見ているような感覚でハッキリと思い出すことができる。

 大学時代、近くにあったクラシック喫茶。野球を見に行ったこと、会場という宗教団体のこと、人とのかかわりを億劫に感じ、風俗の女の子と話をしたこと。不思議とそれ以降のことがほとんど言って思い出せない。

「三十歳を過ぎるとあっという間だ」

 と言われるが、まさにその通りだった。

 もちろん、節目節目は思い出せるのだが、その思い出したことが決して時系列ではない、三十歳後半くらいのことの方が、まだ中学時代を思い出す方が身近に感じると思わせるほどに昔のことのように感じられるくらいだ。

 きっと、それだけ思い出すことがないほどに、自分の中で大したことではなかったということなのだろう。

 三十歳くらいまでは、明らかに自分は前を向いて歩いているはずだった。

 いや、今だって前を向いて歩いているはずなのに、なぜ、感覚が違っているのだろう。きっと、三十代から先が、考え方に大きな変化がないからなのかも知れない。その時点で成熟したということであればいいのだが、そうでもないような気がする。どちらかというと、

「成長が止まってしまって、後は老化が進むだけだ」

 ということになるのではないだろうか。

 最近では、自分の人生に先が見えてきたような気がしているのに、気持ちはまだ二十代のままだという感覚がある。

 それはきっと、先が見えたことで、漠然とであるが、何をすればいいのかが見えてきたからなのではないだろうか。

 それがいいことなのか悪いことなのか分からない。分からないが、自分で納得して理解できるという考えは、少なくともそれまでの自分にはなかったことだ。

「将来が見えてこないと分からないこともあるんだ」

 と考えると、宗教団体と思しき、あの「会場」での会話を思い出してしまう。

 確かあの時に感じたこととして。

「人生ってね、年を取るということがどれだけ重要なのかって分かることがくるものなんだよ」

 と、言っていた人がいた。

 その人が言ったどんな人だったのか、そして、いくつくらいの、男だったのか女だったのかもわからない。この話も後になってから思い出されたくらいで、最近、よく思い出すことであった。

 あの時は女性の、しかも、三十前くらいの人としか話をしていなかったはずなのに、どうしてこの記憶が残っているのか、実に不思議な感覚だった。

 あの団体は、何かの事実があって、それをカモフラージュするかのような団体だと思っていたが違っていたのだろうか?

 いや、そういうことでもないような気がしてきた。

 どちらかというと、今の時代に近いような団体ではなかったかと思えた。

 そういえば、おかしなことを言っていた人がいたのを思い出した。

「もし、ここであなたと縁が切れたとしても、必ずまたあなたの意識が私たちを思い出してくれる。その時にまたお会いできるのではないかと思っていますよ」

 と言っていた。

 そのことを思い出していると、

「すみません、少しお時間よろしいですか?」

 と言ってくる初老の女性がいた。

「私たちは、人の人生について考える団体なのですが、ご一緒にあそこの会場で、お話しませんか?」

 と言われ、ビックリして彼女の指差す方向をみると、まるでロールケーキを半分に切ったかのような見覚えのある会場が見えた。

「お兄ちゃん」

 と言われ、ビックリして振り返ると、そこにいたのは、記憶の中ではシルエットになっていたはずの、あの会場で久則を、

「お兄ちゃん」

 と呼んだ、高校生の女の子だった。

「だから、また会えるって言ったでしょう? お兄ちゃんは、将来の世界を今垣間見ている証拠なのよ」

 と言って屈託のない笑顔を向けている。

 きっと久則もその時、大学生に戻って、彼女に笑顔を向けていることであろう……。


                 (  完  )

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

昭和から未来へ向けて 森本 晃次 @kakku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ