夢想家の蝶
「まーた駄目だったかぁ」
男はそう言って自虐的に笑いました。これで一体何度目の落選でしょう。男にはもうそれすらもわからなくなっていました。
男には小説家になるという夢がありました。幼少期から絵本に囲まれて育った男は、年齢を重ねる毎に本の魅力に取り憑かれていきました。
保育園までは文字どおり絵本に齧り付いて離れない子どもでした。小学校から児童書を読み始めると、直ぐにホラー、SF、純文学とジャンルの幅を広げていきました。男にとって小説は、普段目にしない難解な言葉や漢字を覚えられる知識の宝石箱でした。それと同時に、自分で登場人物や作品を自由に想像できるという、映画でも漫画でも舞台でも味わえない至高の娯楽でもありました。男は同年代の子ども達がゲームや外遊びに夢中になっている間も、自室に篭もってただひたすら小説を読み漁っていたのでした。
男に友達はいませんでしたが、別に虐められていた訳ではありません。授業だって真面目に受けますし、話しかけられれば応じます。割り当てられた当番や委員会の仕事もきちんとこなしていました。ただ、優先順位の最上位が男にとって『本』であるだけなのです。少年団や部活にも所属せず、偶にくる同級生からの誘いにも一切応じないで帰宅するので、いつからか誘われることもなくなりました。同じ熱量の同級生に出会えていたら、それはそれは良い友達になっていたことでしょう。男が目を輝かせながら持ち寄った本の魅力を相手に語る場面がありありと浮かんできます。
残念ながら男にそうした出会いはありませんでしたが、頭の中は常に物語の登場人物や名シーンで溢れてたいたため、男は毎日が幸せでした。
読破した数が丁度3,000冊を超えた頃から、男の興味には読むことだけでなく創造することが加わりました。自分好みの小説を探すのは意外に大変で、それならば自分で創ってしまおうと考えるのは確かにごく自然な発想です。
「こんなに書いてるのに、一体俺には何が足りないんだろう」
わかりませんか?わかりませんよね。男の時間は今もまだあの頃のままで止まったままなのです。
地方の大学に進学した男は、ここでも授業にきちんと出席する一方で、例に漏れず1人部屋に篭って小説を書く日々でした。男の通う大学には文芸サークルや読書サークルが多数ありましたが、見識の狭い男は目先のことにしか目がいきませんでした。男がもう少し世界に目を向けて入ればと思うと、非常に勿体無い思いで一杯です。才能の有無は別にして、小説にリアリティを持たせるための凡ゆる経験や、同じ志を持つ同士との得難い体験を大学時代に幾らでも得られた筈なのですから。
男には働いた経験がありません。男は自分のイメージどおりの小説家像を目指していましたから、学生時代にもアルバイトなどせず、勿論大学を卒業してからも働かずに書いては投稿し、書いては投稿しを繰り返したのです。
学費も生活費も全て両親からの仕送りでした。男の小説に対する熱意に偽りはなく、卒業後3年を条件に両親も我が子をサポートする道を選んだのです。
けれども、何ということでしょう。あれからもう10年以上の月日が流れましたが、男が全てを犠牲にして執筆に捧げた血と汗と情熱は全て屑篭に丸めて捨てられてしまいました。
時代の流れに乗ることなく手書きの原稿用紙を使い続けるその姿勢は評価に値します。ですが肝心の作品についてはこれまで毎年最低でも5編は書き上げてあらゆる新人賞に応募してきましたが、箸にも棒にもかからなかったのです。
一次選考は大抵通過するので、文章を書く土台ができているのは間違いありません。ですが、そこまでなのです。かつて一度だけ最終選考まで残ったこともありましたが、それを糧に成功の階段をかけ登ることはありませんでした。無論、編集者から個別の連絡なんてきやしません。
「少し散歩に出て気分転換でもするかな」
男は煮詰まった時は必ずアパートから少し離れた所にある河川敷を歩くことにしていました。対岸に望む雄大な橋と目の前を流れる川のせせらぎがいつも変わらず男の心を癒してくれます。今は平日の昼間ですから、すれ違う人と言ったら健康増進のために散歩を日課にしている老人と、子連れの専業主婦しかいませんでしたが、男は社会における自分の存在に何の疑問も持っていないようでした。
「ううむ…」
男は河川敷の端に足を投げ出すと、陽光で鈍く輝く水面を眺めながら自分に足りないものをぼんやりと考えました。風が緩く吹いてきて、周囲の草と男の髪を凪ぎます。鼻をくすぐる春の匂いに男は思わず笑顔になるのでした。
さて、それでは男の作品に足りないものは何なのでしょう。これまでにただの一度も社会経験がないこと?
それもあるかもしれません。男が世の中の酸いも甘いも嚙み分けた人物であれば、書く物語に深みが出たことでしょう。ですが、残念ながら三十年以上歩んできた男の人生は、紛れもなく箱に入った新品のガムでした。実家で暮らしていた学生時代も、家を出て社会人になってからも、男の世界は自室と原稿用紙とペンと、そして頭の中が全てなのです。
「家族…ね。うん、家族かぁ」
男は川辺で遊ぶ母子を見つめてそう呟きました。
細長い草を川に千切っては投げ、千切っては投げして喜んでいる女の子と、それを暖かく見守っている母親の姿は、男にとって水面に映る太陽よりも輝いて見えるのでした。
男に兄弟は居ませんでした。男の事を見守っていた両親も、約束が果たされるのを見る事なく不慮の事故で他界してしまいました。先ほどお話したように、友人など生まれてこの方出来たことも欲したこともありません。
こうして男は三十代にして天涯孤独の身となりましたが、特に寂しさは感じていませんでした。葬儀屋の言うとおりに両親の葬儀を終わらせた後、これでやっと執筆に専念できると安堵した程です。世間ではこれを親不孝者と呼ぶのでしょうか?こうして約束の三年をとうに超えた今も、賠償金と相続財産のお陰で食うにも困らず自室に篭り続けているのでした。
「俺に足りないのはやっぱり…」
川辺で遊ぶ母娘の元気な声が今日はやけに男の耳に残ります。その瞳に映るのは、案外亡き母の面影なのかもしれません。
そういえば、近頃は家族小説を数多く執筆していますが、結果は芳しくありませんでしたね。男の創造した家族にはいつも大事なものが欠けていましたが、それも男の人生を振り返れば仕方のないことでした。
それにしても、少し前は自分の好きなホラー小説一本で行くと息巻いていたのに、あの時の決意は何処へ行ったのでしょう。
男は選考に落ち続けるとその原因をジャンルの設定の所為にして題材をコロコロと変えてしまうので、どれもこれもが中途半端なのでした。
男は三十代半ばにして未だ而立せず、小説家として迷ってばかりでした。
「…リアリティだ。そう、圧倒的にリアリティが…」
男は苦虫を噛み潰したような顔で呟きました。
やけに深刻そうにしていますが、それは言うまでもない事でした。
何せ男は人生経験が浅いだけでなく、書くに当たって全く下調べをしないのですから。特定の職業や分野に関することを初め、史実や実話に基づくものから果ては異世界転生ものに至るまで、その全てが男の頭の中の知識だけで書かれているのです。男は自分のこれまでの読書量に絶対の自信を持っていましたし、知識を得るには小説の中だけで十分だとも考えていました。
今持っているものだけで勝負する。それが男のポリシーでしたが、小説を書く上で明らかに自分の幅を狭めてしまっていました。
「でも、今更結婚なんてできないし」
なるほど、確かに結婚して自分が親になれば、家族小説にもリアリティが生まれますね。
でも、男にとって時間とは執筆であり、それ以外の時間は全て無用の産物です。こんな偏った考えを持った男が何かの拍子に結婚出来たとしても、今のままでは父親になるどころか結婚生活がすぐに破綻してしまうことでしょう。
男は眉を顰めて、ああでもないこうでもないと独り言を呟いています。自分の殻を破る為の鍵を、どうやら「家族」に見出しているようでした。
「ん?」
不意にがさがさと草が擦れる音がして、男の左手にサッカーボールが転がってきました。転がった先を見ると、それを蹴ったであろう少年がボールを追って必死にこちらにかけて来ます。この散歩道は道幅が広いので、スポーツをする者も少なくありません。ボールは雑草に阻まれて次第に減速し、男の太腿に軽くぶつかって少し先で止まりました。
「ねえおじさん、こっちにボール飛んでこなかった?」
男は無精髭を生やし髪も伸び放題でしたが、ボールを見失った少年は物怖じせずに其処にいた男に声をかけました。男が不審者でないことを見抜いたのであれば少年の観察眼は中々のものです。
男は思考を中断されたことで不機嫌でしたが、意外にも男の子にぎこちない笑顔を見せました。男は特段子ども好きという訳ではありませんが、家族を題材にした小説を書いていることもあり、子どもを観察するいい機会だと思ったのかもしれません。
「ああ、あれかい」
男は立ち上がって目の前にあるボールを拾うと少年にそっと手渡しました。
「これこれ!おじさんありがとうっ!」
「どういたしまして」
これが子どもです。とにかく元気で、純粋で、素直で。男は目の前の子どももそっちのけで次回作の構想を練り始めました。
「おじさんここで何してるの?」
心ここに在らずの男を見て不思議に思ったのでしょう。少年は曇りのない真っ直ぐな目で男にそう尋ねました。
「何を?ええと…。そ、そうだな。私は…」
男はそこで言い淀んでしまいました。例え相手が年端のいかない少年だったとしても、男にも見栄というものが有ったのでしょう。物思いに耽っている等と言って不審者扱いされたり馬鹿にされるのが怖かったのかもしれません。
男の頭にいくつか答えが浮かびましたが、どれも言い訳がましくて口にできそうもありません。なんて答えるべきか途方に暮れていると、どうやら少年の方が先に何かを思いついたようでした。
「あ、わかった!おじさんあそこにいる子のお父さんだ!」
男の子の指した指の先には確かにさっきから観察していた母子が居ました。男の子が男の視線の先を見てそう考えるのも自然な事でした。
「えっ。いや、違う違う。その子はっ」
男の子の予想外の答えに男が狼狽していると、「おおぉいっ!やっほーっ!」と少年が母子に向かって元気よく手を振りました。男はぴょんぴょん飛び跳ねる男の子を必死で遮ろうとしましたが、どうにも止まりません。
ところが何という事でしょう。男の焦りと裏腹に、川岸から女の子も元気よくこちらに手を振り返したではありませんか!男が困惑するのをよそに、更には母親までがにっこり微笑んで軽くお辞儀をしています。これまで他人と全く関わりを持たなかった男にとって、それは雷に撃たれたように衝撃的な出来事でした。
「え?え?何でこっちに手を振るんだ?」
男は戸惑いながらも不器用な笑顔で手を振り返しました。
〈もしかして、私はこの子の父親だと思われてるのか〉
その瞬間、男の脳にある閃きが降りてきました。男は不意に立ち上がると、驚いている少年に向かって言いました。
「そう、私は父親だよ。あの子の父親なんだっ!うおぉぉぉぉいっ!」
男も少年のように飛び跳ねながら川辺の母子に向かって大きく手を振りました。
「あっはっはっはぁ!」
「ははははっ!」
散歩道に男と少年の甲高い笑い声が響き渡ります。少年がそろそろ戻ると言い出したので、男は母子にお辞儀をすると慌てて母子から見えないように散歩道から離れました。
「え、何急に。どうしたの?おじさんはあっちでしょっ」
少年は怪訝な顔で男を見つめています。
「いや、私はちょっと行けないんだ。ええと…。そう。みっ水があ、怖くてねっ!うん、こうやって離れた場所から見ているのさ」
「ふぅん。あっそっ。じゃあねっ!」
少年は訝しがりながらも、納得すると、自分を待つ親の元へと帰って行きました。少年が去ると、男は安堵のため息をついてその場にへたり込みました。あんな拙い嘘で男の子を誤魔化せて良かったですね。
少年は屹度この奇妙な#父親__・__#との出会いについて、自分の父親に聞かせるかもしれません。その中では男は天涯孤独の小説家もどきではなく、立派な父親なのです。
男は今度こそ決意しました。二十四時間三百六十五日、家族小説の完成のために「良き父親」を演じてみせると。今回は初めての事で少し焦ってしまいましたが、次からは父親として完璧な対応してみせると。努力のベクトルは少しおかしいですが、今までのことを考えると大きな一歩と言えるでしょう。
「そうと決まれば早速実践だ!」
男は急ぎ足で散歩道を後にしました。荒れた風貌にニタニタした笑みを浮かべ、俺は父親だと呟く男のことを、すれ違う通行人たちが不審な目で見ていたのは言うまでもありません。
男が父親を演じると決意したあの日から、凡そ一ヶ月が経ちました。あの日を境に男の生活は一変しました。かつての世捨て人のような男はもう何処にもいなくなっていました。
「おはよう、たかし。偉いなぁ自分で起きて来れて。流石小学生だ。もうすぐご飯できるから座って待っていてな」
男は朝起きると、まず息子の為に朝ごはんを作ります。両親がまだ健在だった頃に一人暮らしの為に買い揃えた大きめの食卓テーブルと椅子が役に立ちました。
食卓には段ボールをくり抜いて出来た#自慢の息子__・__#がお行儀よく座っています。
「よーし出来たぞぉ。今日の朝ごはんはお父さん特性のおにぎりだ!」
男はテーブルに二人分の食事を並べ、家族で食卓を囲みました。どうやら男の演じたい家族とは、父親と息子を指すようです。
「それじゃあいただきます。どうだ、美味しいかい?…ああ良かった。盛り盛り食べて大きくなろうな!ん?…こらこら、好き嫌いは良くないぞ。ちゃんと野菜も残さず食べなさい」
たかしが居るだけで家の中は途端に賑やかになり、男も自然と顔が綻びます。男が家で言葉を発するのは執筆の時の独り言くらいなものでしたが、今、家の中は男の#会話__・__#で溢れています。最初の頃こそぎこちなかったですが、一月も経てば父親役も中々様になって見えるから不思議ですね。男は執筆そっちのけで役作りに励んでいて、肝心の家族小説を書く気配すらありません。
「じゃあ父さん仕事に行ってくるから。お家でいい子にしてるんだぞ」
男はそう言うとスーツを着て出かけて行きました。たかしは学校に通うことができませんので、いつもお家でお留守番をしています。小学生にして父親のいいつけをきちんと守って偉いですね。
男は勿論仕事なんてしていませんが、父親は働いているもので、働くといえば会社員だと安直に考えて、押入れの奥から引っ張り出してきた埃まみれのリクルートスーツで毎日#出社__・__#しています。時間と身だしなみに無頓着だった男が毎日早起きして髪を整え髭を剃り、スーツを着て出社する日が来るなんて夢にも思いませんでした。
とはいえ、男に出社先なんて何処にもありませんから、隣の駅で降りて日がな時間を潰しているだけでした。そこで本当に就職活動をしたり、短期のアルバイトを探したりしないところが男らしいですね。
それでもスーツを着てただ延々と歩いていると、側から見れば立派な外回り中の営業マンに見えるのです。男の演技は既に観客を欺き始めていました。
見知らぬ道を歩いていると、其処には多くの発見があります。ひび割れたアスファルトに凛と咲く花、暗い路地裏に響く機械音、何処からともなく聞こえてくる子どもたちの遊ぶ声…。こうして自室から外に出て世界を眺めるだけで、男の小説の幅は間違いなく広がっていくのです。けれど、男はそんな事はお構いなしに、せっかく得られた閃きを書き留めることなくその場を去ってしまうのでした。
「そろそろ帰るかな」
男はいつもお昼頃まで降りた駅周辺を歩くと、昼ご飯を食べに帰宅していました。元々部屋に引きこもっていたために、男の体力では午前中に歩き回るのがやっとでした。帰宅した後はさも一日働いたかの様に、たかしと二人でまた家族#ごっこ__・__#を続けるのでした。
「これは…何の店だろう」
ふと、男は駅へ戻る途中である建物に目が行きました。赤茶色をした煉瓦造りのその店に、男はふらふらと引き寄せられていきます。
太陽に照らされ輝くショーウィンドウを覗いてみると、色取り取りのパンが所狭しと並べられています。煙突から漂う焼きたての香ばしいパンの匂いが男の鼻腔をふわりと撫でました。歩き疲れてお腹がぺこぺこの男は、窓に顔を近づけると忽ち涎が溢れてきます。
「パン屋か…。たまにはいいかもしれないな」
男は普段外で食べる事はしませんでしたが、今日は暖かくてとてもいい天気でした。この先に小さな公園があるのを思い出した男は、少し悩んだ末に意を決してパン屋に入っていきました。
「いらっしゃいませぇ。焼きたてのパンは如何ですかぁ」
店内はこじんまりとしていて、お昼には少し早い時間だからか男の他にお客さんはいませんでした。見たところ夫婦二人三脚で経営しているようで、カウンターには女の店員さんが笑みを浮かべ、奥で男の職人さんが黙々とパンをこねています。パンにつけられた数々の名前や手作りのポップには、どれも親しみやすさが滲み出ていました。
あんぱんや食パン、カレーパンにジャムバターパン。どれも美味しいそうで何を買っていいのか迷いますね。男も何度も同じパンの前を行ったり来たりしています。
「ええと…じゃ、じゃあ。ふーっ。この耳だけ食べても美味しいサクサクメロンパンと我が家の特製カレーをたっぷり詰め込んだずっしりビーフカレーパンを一つ。すうーっ。後は…」
息継ぎをして一気にそこまで言ったところで、注文を聞いていた奥さんが笑いを堪えられなくなって吹き出してしまいました。
「ぶふっ!あ、すみませっ…。ぐっ。くふふふっ」
男は何故自分が笑われているのか分からず、顔を真っ赤にしてその場に立ちすくんでしまいました。
「ああ、ごっ、ふふ。ごめんなさいっ。あははっ。だって、真面目な顔して商品名を全部言うからぁ」
男は生まれてこの方、お店に一人で入った事はほとんどなく、注文の仕方もよくわかっていませんでした。いくら小説をたくさん読んでいようとも、空想と現実は大きく違うものです。自分の頭の中のイメージだけで会社員の父親を演じていても、世間知らずには変わりません。
「そ…そうかな。あ、あまり買い慣れていなくて。えっと…じゃあ、この…ロボットのパンを一つ下さい」
男は怪しまれないように目についたパンを手に取りました。
「あら、じゃあ奥様からのお使いですか?このパンはウチの一押しで、砂糖不使用で甘すぎないし、お子さんにも大人気なんですよ」
そう言ってにっこりと微笑んでくれる店員さんを見て、男は心底安堵しました。
「そ、そうなんだ。確かにこれならたかしも喜んでくれる」
男は取り繕うために咄嗟に#息子__・__#の名前を口に出してしまいました。男はまだ他人と世間話出来るほどの父親ではありません。しまったと思いましたが、時既に遅しでした。
「お子さんはたかし君って言うんですね。ロボットが好きなんですか?」
「え、ええ…。毎日テレビで見てますよ」
男が脳内にある知識を絞り出して答えます。
「あれ、ロボットのアニメなんて毎日やってましたっけ?」
「え?いや、違うんです。えぇと」
「ああ、そっか、毎日DVDを見てるんですね。そんなに好きならきっとうちのパンも喜んでくれると思いますよ」
再び焦る男を余所に、女の店員さんは1人納得したように頷きます。
「そ、そうだそうだ、DVD、いやぁとにかく好きなんですよ。もう繰り返し繰り返しでね。たかしの喜ぶ顔が眼に浮かぶよありがとうっ!」
男は水を得た魚のように早口で捲し立てます。
「そ…それは何よりですね。…はいどうぞっ!ありがとうございましたぁ」
店員さんは男の急な勢いに少したじろいだ様でしたが、すぐにまた元の営業スマイルに戻ると男へ商品を手渡しました。これこそ男が見習わなければいけない姿ですね。男はそれをひったくる様に受け取ると、にやにやと引き攣った笑みを浮かべながらパン屋を去っていきました。
男は急ぎ足で近くの公園まで向かうと、ベンチに腰掛けて溜息を一つ吐きました。
「ふぅ。危なかったなぁ。でも…」
男は安堵する一方で更なる可能性に気付いたのです。今までは自分の中だけで理想の父親を演じてきましたが、あの散歩道で男の子から父親と間違えられた時のように、積極的に他人にも父親をアピールしていくことで、より一層理想の家族像に近づくのではないかと。ただ、今回はなんとかなりましたが、今のままの男では知識不足でぼろが出る危険性もあります。男は結局自分の頭の中でしか調べませんから、自分の古い記憶を引っ張り出そうとしても、どうしても限界があるのです。
ロボットパン以外のパンを食べ終わった男は、早速自宅へと歩き始めました。家に着くまでの道中、男の頭の中はその事だけで占められていました。
「ただいまぁ。いやー今日の外回りは特に疲れたよ」
家に帰るといつもの様にたかしとの時間が始まります。
「ほら、今日はたかしにお土産があるぞぉ。何だと思う?じゃじゃーんっ!たかしの好きなロボットの形のパンだっ!おおっそんなに嬉しいかぁ良かった良かった」
男は一人得意げな顔で頷いています。心なしか椅子に座っている#たかしの表情__・__#も嬉しそうに見えてくるから不思議ですね。
「もう食べたのか凄いなたかしぃ。ん?たかし、ご馳走様はどうした?どれだけ嬉しくてもちゃんと言わなきゃ駄目だぞ、全くお前ってやつは…」
おや、何やらたかしがお行儀の悪いことをしているみたいですね。男の叱り方も最初の頃に比べて随分様になっています。
「よーしわかればいいんだ。お利口さんだぞぉ」
それに、一方的に叱るだけでなく、よくできた時にちゃんと褒めてあげています。
「さて、お父さんは明日から忙しいから、今日はもう寝なさい。よしよし良い子だ。おやすみたかし」
男は早々にたかしを寝かしつけると、しばらく机の前に座って何やら唸っていましたが、すっきりとした顔で自身も電気を消して眠りにつきました。何かいいアイデアが思い付いたに違いませんが、それはきっと小説に関することではないのでしょうね。何にせよ明日が来るのが楽しみです。おやすみなさい、また明日。
次の日、男は急いでたかしに朝ごはんを作ると、ろくな会話もせずに出勤して行きました。男は真っ直ぐにアパートから最寄り駅まで歩くと、電車には乗らずにそのまま周辺を歩き回ります。どうやら男は隣町だけでなく、自分の住むこの町でも日課の外勤を始めることにしたようです。
男はこの町に住んでしばらく経ちますが、河川敷を散歩する以外に家から出ることはなかったため、男にとってここは異国も同然でした。周りの住民にしても、時たまホームレスのような見た目で河原に座っていた男がまさかスーツを着て外勤に来ているとは夢にも思わないでしょう。上手くいかなければすぐに諦めてしまう男の性格からすると、最寄り駅での外勤はいい考えかもしれませんね。
駅周辺を一通り歩くと、男はまず玩具屋さんに向かいました。店主が一人で切り盛りしているその小さな玩具屋は、新たな父親をお披露目するには持ってこいでした。男は迷わずアンパンマンコーナーに行くと、並んでいる様々な玩具をじっくりと眺め、たかしの好きそうな変形するロボットを手に取りました。
「すみません、これ一つ下さい」
男はパン屋で注文の仕方を学んだつもりでした。
「あんっ?あんたがレジに持ってきなよ」
店主の不機嫌な顔を見て、男は自分がまたしても何か間違った頼み方をした事に気づきます。
「あ…えーと。す、すみません。こういうのに慣れてないもので…」
男はひとまずパン屋と同じように謝ります。
「慣れてないってよぉ…。あんたもコンビニぐらい行くだろ。普通に考えて商品はレジまで持ってかねえか?」
スキンヘッドに鉢巻きをした昔気質の店主が、腕組みをしながらじろりとこちらを睨みつけています。
男は買い物を全て最低限の宅配サービスで済ませていました。思い返せば小さい頃に両親と一緒に買い物に行った記憶が朧げにありましたが、小説以外のことは正直あまり覚えていませんでした。
「すみません、ちょっとそういうのに疎くて…。でも、今日はたかしの誕生日だから、今日くらいは自分で買いたくて」
男は内心今すぐにでも店を飛び出したい気持ちで一杯でしたが、今後の為に何とか踏み止まりました。今までであれば間違いなく逃げ帰ってきたはずで、いつの間にか随分と成長しましたね。
「へえ、そうかい。そりゃ息子さんも喜ぶだろうよ」
男の返答で店主の顔が途端に緩みました。男は一人で生きてきた所為でそもそも他人と会話するのに慣れていませんでしたが、この不慣れな感じがまた父親としての好感をもたれるのかもしれません。
「これだ、この感じだ」
男は軽く頷くと小さく呟きました。
「そんで、息子さんは何歳になるんだい?」
「ええと…5歳になります。もうロボットが好きで好きで」
男はようやく頭の中で昨晩考えた台本を読見合わせることができました。
「そうかそうか。あんたも殊勝なこった。こいつぁ俺からのおまけだよ。ほれ、遠慮せず取っときな」
店主は一旦店の奥へ引っ込むと、しばらくしてロボット柄の小袋を男に寄越しました。
「ありがとうございます!」
男はそれを受け取ると笑顔で店を後にしました。近くにあったベンチに腰掛けて中を見ると、おまけは胸を押すと赤く光るロボットの玩具でした。
「怖かったけど、結果的に良かったな。それに玩具が二つも…。喜ぶだろうなぁたかし」
男は紙袋に小袋と自信を入れると、それを持ったまますぐにまた駅前に向かいます。次の目的地は駅の中にあるケーキ屋でした。
「いらっしゃいませぇ」
店内は駅中ということもあって平日の午前中でもそれなりに混んでいます。男が少し離れたところからショーケースに入ったケーキを眺めていると、早速売り場に居た若い女の店員さんが話しかけて来ました。
「お客様、ご注文はお決まりでしたか?」
男はしめしめと心の中で笑います。男はどうやらすぐに調子に乗る性格だったようです。
「はい、えーと、あの大きなケーキ一つ下さいっ。今日は子どもの誕生日なので」
男は自信満々にそう言いましたが、その途端に店員さんの顔が曇りました。
「すみません、あちらはもう売り切れなんです」
男はこの店が人気店で、特にホールケーキは事前に予約しないと買えない事などもちろん知りませんでした。
「え、な、無いんですか?そんな…。せっかくの誕生日にケーキを買ってあげられないなんて…」
男の計画は音を立てて崩れ落ちました。
「あの…もしよろしければ、代わりに小さいケーキは如何ですか?今はそういう方も多いですよ。お祝いのチョコプレートはお作りいたします」
男にはこの店員さんが天使のように見えたことでしょう。そして男もまた、迫真の演技で店員の心を動かすことに成功したのです。
「ほ、本当ですか?なら、ええと…。たかし、誕生日おめでとう、と書いて下さい。ケーキは…このいちごのショートケーキを2つで」
「はい、ありがとうございます。お父さんのお気持ち、たかし君にきっと伝わりますよ!」
男の心底残念そうな顔を見て、優しい女の店員は男を励ましてくれました。男はその言葉で徐々に笑顔になりましたが、それは優しい言葉をかけられたからだけではありません。男は手渡されたケーキを上機嫌で受け取ると、ケーキが崩れるのもお構いなしに急いで家まで帰って行きました。
「ただいまぁ。お、そうか、驚いたかぁたかし。今日はお前の誕生日だからサプライズで早く帰ってきたぞぉ。それにほら、見てくれ!誕生日プレゼントとケーキだ!はっはっは。落ち着け落ち着け。開けてもいいぞもちろん。どうだ?嬉しいかぁ、良かった良かった。よし、じゃあケーキも食べよう。見てみろこれ、たかしおめでとうって書いてるぞー。おいおい、一気に食べずにちゃんと味ってな。そうだ、聞いてくれよ。今日玩具屋のおやじがな、おまけもつけてくれたんだよ。昔堅気の頑固そうなオヤジがさ、たかしの話したらにこーってさぁ。なんだ、嘘じゃないぞ。ほら、これが証拠の玩具だぞぉ。ダメダメ、信じてない子には上げないぞ。ははは、そんなことで泣くんじゃない。わかったわかった冗談冗談」
男とたかしの会話は途切れることはなく、ぐちゃぐちゃになったケーキを囲んで空が明るくなるまで続きます。家の中には男の笑い声がいつまでもいつまでも響いていました。
あれから更に半年が経ちました。男が小説を全く書いていない事を除いて、父親役の道のりは意外なほどに順調でした。男の思い描いた脚本の通り、地道な努力で男とたかしを知る者が少しずつ増えてきたのです。「転勤で最近越してきた」「外回りの営業の合間に」「息子のために不慣れな買い物に励む」「冴えないけど子ども思いな憎めない中年」
たかしの父親という存在は他人によって徐々に形作られていきました。男は毎日欠かす事なく外勤し、周辺の駅の目ぼしい店を回っては息子の存在をアピールしていきます。ケーキ、玩具、絵本に文房具、果ては昆虫採集まで、男はたかしにあらゆるものを買い与え、代わりに住民達に少しずつ好感と息子の存在証明を積み重ねていきました。男の貯金は目に見えて減っていきましたが、元々お金に無頓着の男は特に気にすることはありませんでした。
「よお、たかしの父ちゃん。今日もいい玩具揃ってるぜ。だからって甘やかせ過ぎんのはよくねえけどなっ」
「あらこんにちは。今日のオススメのパンは怪獣パンよ。たかし君も喜んでくれるかしら?」
「いらっしゃいませぇ。ホールケーキのご予約ありがとうございます。たかし君にクリスマスメッセージもおつけしますよ」
助言もしてくれる彼らの存在は、男をより一層父親役へと没頭させるのでした。父親になったことで、家にこもって俗世間から離れた生活を送っていた男の世界は大きく広がりました。早起きして毎日歩いて外勤することで運動不足は解消され、
少し太り気味だった体型が今では寧ろ引き締まってすらいました。一人で買い物しながら店員さんと会話を弾ませている姿は、以前の男を知るものからすれば驚きの一言です。
「たかし」は生来頑固者で忍耐力のなかった男を変えてくれました。今の男が家族小説を執筆したら、以前よりも格段に良いものが書けると思いませんか?
それなのに小説も書かないで男は一体どこに向かうのでしょう。今まで人付き合いを一切してこなかった反動で、単に自己承認を得たいだけなのでしょうか。季節が春から冬へ次々と移り変わっても、男の熱は冷めるどころか益々増すばかりでした。
その日も男は朝からダウンを着込んで外勤へと向かいました。昨年の冬に自分の部屋で昼まで布団でぬくぬくしていた男とは思えない変わりようですね。今日は新たな市場開拓のために、今まで行ったことがない駅を回ってみることにしたようでした。
駅周辺から徐々に範囲を広げて歩き回りますが、中々めぼしい店は見つけられません。玩具屋やケーキ屋、パン屋はありましたが、子どもの好きそうな店は大体もう間に合っています。冬の凍てつく寒さが男の肌を容赦なく襲います。
「はあぁ…。仕方ない、今日はもう止めるか…」
せめてもの抵抗でしょうか、男は電車には乗らず、線路沿いの道を歩いて隣の駅まで向かうようです。
しばらくは注意して周辺の建物をチェックしていましたが、歩けども歩けども何も見つかりません。古い雑居ビルや同じ形をした平屋の借家が立ち並ぶ線路沿いには、そもそも人の影すらありませんでした。男は途中から諦めて、線路の反対側にあるビルや看板の広告をぼんやりと眺めながら歩きました。絶え間なく行き交う電車が奏でる重低音と、すれ違い様に巻き起こる地面の揺れと突風が男自身の魂までも浮遊させるようでした。思考を止めることなく四六時中父親を演じている男にとって、何も考えずにぼうっと歩くだけの時間は久しぶりでした。いざ役から離れてみると、自分が自分でないような不思議な感覚に陥りました。
まるで今の自分すらも台本の中の登場人物で、それを俯瞰して見ているような…。
また一台、男の脇を急行列車が通り過ぎて行きました。体を揺らす振動と巻き上げる風が男をより一層深い場所へと誘います。ふと顔を上げると、男はいつのまにか小さな劇場に座っていました。観客は自分一人で、舞台の中心には電車に乗ったスーツ姿の男がつり革に少し身を持たれかけさせていました。舞台から背を向けているその男は、過ぎ去っていく景色を黙って見つめています。
「次はぁぁ蝶番ぃぃぃ、蝶番ぃぃぃ」
間延びした車掌のアナウンスで舞台は瞬時に暗転します。少しして舞台が明るくなると、そこはもう住宅街でした。背景には手作りの家やアパートが所狭しと並べられ、聴きなれない駅で途中下車した男は使い古した営業鞄を片手に町の住人に片っ端から声をかけて行きます。
さっきまで真上にあった太陽はどんどん西に傾いていき、時間が有限であることに観客は嫌でも気付かされます。舞台が黄色から赤に染め上げられ、その中を男はコマ送りのように世話しなく行ったり来たりしています。
「おはようございます、それでは早速プランのご説明をさせて頂きますっ!」
「こんにちは、現在加入中の保険はありますか?」
「こんばんは、あの、せめてチラシだけでも入れさせて貰っていいですか…?」
常に照射されるスポットライトで観客席から営業する男の顔は見えませんが、言葉の端々に疲れと挫折が感じ取れます。どうやら保険の新規開拓は思うように進んでいないようです。何とか全ての世帯を周り終える頃には、辺りはすっかり暗くなっていました。
「…お、こんな所に玩具屋があったのか。たまにはあいつにも何か買っていこうか」
帰社の途中で物珍しい玩具屋を見つけた男は、そう呟くと舞台袖へと消えて行きました。舞台が再び暗転し、場面が三度変わります。
「良い店がないなぁ。まあ仕方ないか。今日は帰ろう」
スーツ姿の男が、線路沿いの道に立っています。男はどうやら右手にある雑居ビルに貼られたテナント広告に気を取られているようでした。しばらくして、不意に鳴り響いた踏切の音が黙って立ち尽くしていた男を現実へと引き戻しました。再び歩き出そうとして男が客席へ振り返ろうとした正にその時、舞台が暗転して代わりに客席で鑑賞していた男の真上にスポットライトが当てられたのです!
客席にいた男は何が起こったか皆目見当もつきませんでしたが、その眩しくも暖かい光を浴びることは不思議と悪い気がしませんでした。しばらく光悦としていた客席の男の元に、暗がりから主演の男がゆっくりと近づいて来ました。スポットライトの明かりの所為でしょうか、主演の男の顔は客席からではよくわかりません。
そのまま舞台を降りた主演の男は、男が座る客席の左隣にある通路をのろのろと歩いてきて、遂には男の真横へと立ちました。けれど、舞台であれ程話していたはずの男が、隣では全く無言で立ち尽くしているのでした。
「あんたは一体誰なんだ?」
客席の男が問いかけても、主演の男からは返事どころか息遣い一つ伝わってきません。静まり返った劇場に、男の声だけが反響していきます。
しばらく無言の時間が続きました。その間に客席の男に向けられたスポットライトの光量が段々と強くなり、あまりの眩しさと顔を焼く熱気から男の顔が光悦から苦悶の表情に変わります。観客の男は堪らず立ち上がると、勢いそのままに主演の男に向かい合いました。
スポットライトから離れ、男の視界は暗闇に包まれました。相変わらず、目の前の男からは生きている証が何一つ感じられません。瞳孔が徐々に広がっていき、ようやく舞台の暗さに目が慣れた時、目の前のその顔には…。
何も。そう、何もありませんでした。本来顔があるはずの場所には、ぽっかりと空いた黒い穴があるだけでした。観客の男は無性にその穴が気になってきて、主演の男の顔に頭を突っ込みました。穴の中はとても居心地がよく、そのまま寝てしまいそうな程でした。
「もう疲れただろう?今日から彼処が君の居場所だ」
口も無いのに耳元で主演の男の声がして、観客の男は思わず穴から顔を出そうとしましたが、勢い余って顔の向こう側に突き抜けてしまいました。主演の男の視点からみる舞台はとてもとても輝いて見え、歓喜の男は思わず手を伸ばしました。その瞬間、観客席のスポットライトが落ちてそれと同時に舞台上に新たなワンシーンが現れました。
殺風景な部屋に机と椅子だけが置かれ、机の上には原稿用紙と鉛筆が無造作に散らばっています。椅子の横に置かれた屑かごにはまだ夢も希望も孤独も挫折も何も入っていません。その部屋は男にとって馴染みの深い部屋でした。
「ああ、なんて美しい…」
何の変哲も無いただの執筆部屋も、舞台上でスポットライトに照らされると極上のスイートルームのようでした。男の想いに共鳴したのか、主演の男は重くてバランスの悪い体を引きずりながらよろよろと舞台上へ歩いて行くと、遂に壇上へと登りました。目の前に用意された精巧な椅子に腰掛け、鉛筆を握りしめて机に向かうと、突然舞台から大きな拍手の音が聞こえて来ました。男が客席を振り返ると、さっきまで#一緒だったはずの__・__#顔のない男が頷きながら此方を見つめていました。それだけではありません。いつの間に集まったのか、舞台は満員御礼でした。顔の無い観客達が総立ちで男に拍手を送る様は圧巻でした。
「これは良い作品が書けそうだっ!」
男は大袈裟にそう呟くと、降り注ぐ光源と興奮で熱に浮かされたように執筆に没頭していきました。
「凄いっ。頭にアイデアが無数に湧いてくるっ!はははっ…。手が止まらない。手が止まらないぞぉ。これじゃあ紙が追いつかない。もっと。もっとだ。この閃きを二度と忘れないようにしないと。一つも逃さない」
澱みなく思考を写していた男の手が不意に止まり、代わりに目玉だけが高速で前後左右に動き出しました。どうやら濁流のように押し寄せる思考の波に男の体が追いついていないようです。
鬼気迫る演技に観客が息を飲む中、顔の無い男だけが客席から姿を消していました。片側だけ開け放たれた劇場の出入り口に漏れ出る闇は、まるで顔の無い男そのもののようでした。
ある晴れた日のことです。男は川辺の散歩道に腰掛けてぼんやりと景色を眺めていました。平日の昼間にすれ違うのは、散歩中の老人や子連れの母親くらいでした。川のせせらぎや犬の遠吠え、甲高い自転車のベルや子どもがはしゃぐ声。そこにはあらゆる音があり、どれだけ聴いても飽きることがありませんでした。
ふと、遠くの方からサッカーボールが転がる音が聞こえ、次いで「すいませーん、ボール取ってくださぁい」と声変わり前の甲高くて元気な少年の声が響いてきました。ボールはそれから少し遅れて男の足元にコツンとぶつかりました。ボールを追って男の元に駆け寄って来た少年は、男の顔を見るなり目を丸くして叫びました。
「あーっ!あの時の嘘つきおじさんっ!」
何という偶然でしょう。ボール遊びをしていたのは、男が父親役を演じるきっかけとなったあの少年だったのです。
「ふふっ。人をいきなり嘘つき呼ばわりは感心しないなぁ」
男は優しく微笑みながら少年にそう語りかけます。
「僕、いっつもここでボール遊びしてるから知ってるんだぁ。おじさんさ、あの子のお父さんじゃないじゃん。僕、前にあの子がここで遊んでるの見たんだ。そんで、お父さんはおじさんじゃなかった!おじさんの嘘つきっ!ねえ嘘はよくないんだぁ」
男の子は早口で雄弁にそう捲し立てます。どうやら少年は曲がったことが大嫌いな性格のようでした。
「おじさんは本当の父親だよ。あの子じゃなくてたかしのね」
「たかしって誰だよ」
「おじさんの息子だよ」
「嘘つきっ!そんな子ホントはいないんでしょ」
「ははぁ。いるさ」
「じゃあ会わせてよっ」
「会わせたいけどたかしは今家でお留守番だからなあ」
男は何を聞かれてものらりくらりで、少年はそんな男の態度に苛立ちを募らせていきます。
「ならおじさんの家に遊びに行かせてよ」
「おおっ、たかしと遊んでくれるのかい?」
「ふんっ。ホントにいるならねっ!僕、晩御飯までに帰ればいいから、今すぐ行かせてよ」
「それは随分急だね。でもたかしも喜ぶだろうし大歓迎だよ。ほら、あそこに見える鼠色のアパートがおじさんの家さ」
男の指の先には住宅街があり、建物の間から年季の入って錆びたトタン屋根が覗いています。話がとんとん拍子に進んでいき、少年はすんなりと男の家に遊びに行くことになりました。
「なら早く行こうよっ!」
そう言うなり少年は男を置いて勢いよくアパートに向かって駆け出しました。少年は男が何か悪いことをしないようにと、自分が一番最初に家に入るつもりなのでしょう。そこまでして他人の嘘を暴こうとするその執念は、曲がったことが大嫌いで厳格な父親譲りのものでした。当の男はというと、そんなことはどこ吹く風で微笑みながらゆっくりと少年の後ろについていきます。
「おぉい、あんまり急ぎすぎて転ばないようにねぇっ」
家に招いても結果は分かりきっているというのに、男のこの余裕は何処から来るのでしょう。大人ならではの狡賢さで話をすり替えて少年を煙に巻くつもりなのでしょうか。
「早く早くぅ!置いてっちゃうぞーっ!」
遥か先から少年の呼ぶ声が聞こえて来ます。なんだかんだ言って、少年も今の状況を楽しんでいるようでした。
「わかったわかった、今行くよ」
男はまるで本当の息子と接しているかのように、嬉しそうに少年の元へ走り寄って行きました。
「もー、おじさん遅いよっ!まあでも、これでズルはできないよね」
件のアパートの前で少年が男を呼んでいます。少年は待ちくたびれて責めたような口調になりめしたが、男を追い詰めた優越感から表情は笑っていました。
「ごめんごめん、ええと…君、はすごく足が早いんだねぇ。ところで、君の名前は何ていうんだい?せっかく遊びに来てくれるんだから、たかしにも紹介しないとね」
「……そうた。近藤、奏太」
男の子はやや警戒しながらも、ぶっきらぼうにそう答えました。
「奏太君か。良い名前だなぁ。けんたにそうた。ふふっ。何だか双子みたいだね。よし、じゃあ奏太君、早速行こうか」
男はそう言うと一番手前にあった部屋の鍵を開けてゆっくりと中に入っていきました。
間近で見るアパートは男の子の想像の何倍も汚れていました。外壁の白いペンキは所々剥がれてひび割れていて、階段や手すりのあちこちに蜘蛛の巣が貼っています。2階への階段は手すりと共に途中で崩れ落ちていて、男の隣の部屋の入り口を塞いでいます。アパートの敷地内の雑草も伸び放題で、男の子は足を踏み入れるのを少し躊躇いました。
とはいえ、荒れ放題であること以外は何の変哲も無いただのアパートです。男の子の同級生の中にもそうした家に住んでいる子が何人か居たのを思い出しました。入り口の横には金属部分が少し錆びた子供用の自転車が一台立てかけられています。タイヤや泥除けには所々真新しい汚れがついていて、ついさっきまで誰かが遊んでいたように見えました。男の部屋の周りには草を踏み倒した後がいくつもありました。
散々生意気な事を言っておきながら、もしこの部屋の向こうに本当に知らない男の子が居たらと思うと、男の子の足は中々前に進みません。
「たかしぃ、今帰ったぞー。実は今日、お前と遊びたいって言うお友達が来てくれたぞ。ほら、奏太くんも入って入って」
部屋の奥から再度男に促された男の子は、意を決して中へと足を踏み入れました。
「お、お邪魔しますっ!」
玄関には男の靴に加え、子ども用の靴が少し崩れて並んでいました。それを見て、やっぱりたかし君はいるのかも、と男の子は考え始めます。
「ごめんなたかし、遅く…。ちょっと…が長引いて…」
玄関の奥にあるドアの向こうから、男の話す声が途切れ途切れに聞こえてきます。男の子がそっと扉を開けると、床に散らかったロボットの玩具や脱ぎ捨てられた靴下が目に入りました。
「お、来た来た。でも先にそこの洗面所で手洗いうがいをしてきてね」
男の子は洗面所に行くと、言われたとおりに手洗いとうがいを済ませました。少し高めの洗面所には子ども用の小さな台が置かれていて、鏡台には色とりどりのコップが並べられています。天井に吊るされた棒には何枚もの白いワイシャツに混じって恐竜や戦隊モノのキャラがプリントされた子ども服が干してありました。古い外観とは裏腹に、家のなかは手入れが行き届いているように見えました。
「…やっぱりたかし君はいるんだ」
男の子は自分のカンが外れてバツが悪そうでしたが、近所に新しい友達が出来るならそれはそれでいいやとすぐに切り替えて居間に戻りました。
「やあ、よく来たね。改めて自己紹介するよ、この子がたかしさ。今日はよろしくねっ!」
居間は真ん中に大きな食卓テーブルが置かれているだけの殺風景な部屋でした。散らばっていた玩具や子ども服は一体どこに仕舞っているのでしょうか。男の子は辺りを見回しましたが、たかし君は見当たりませんでした。隠れているのかと思い男の顔色を伺いましたが、どうやらそうではないようです。
「え、え、たかし君ってどこ?」
「だからほら、この子だよ」
「いや、だっていないじゃん」
男の子が戸惑うのも無理もありません。男が自信満々に紹介したのはどう見ても紙で出来た薄っぺらい人型なんですから。
「おいおい目の前に居るだろう。全く冗談きついなぁ。いくらたかしでも悲しんじゃうぞ」
「いや、だって、それどう見ても紙…」
「さあ、何して遊ぼうか!うん?…そうか、たかしは戦隊ヒーローごっこをしたいんだな」
男はまるで本物のようにしきりに人型に話しかけ、全く聞く耳を持ちません。
「あ、あのっ!やっぱりぼく帰っ…」
「ふふふ、何言ってるんだい来たばっかりで。玩具も沢山あるんだから好きなだけ遊んで行きなよぉ」
男は親しげにそう話し、男の子が何を言っても聞き入れてくれなそうでした。何せ自分の創り上げた息子に初めてできた友達ですから、子煩悩の男が喜ばない訳がありません。霊感など一切なく、どちらかといえば勇敢である筈の男の子が、形容し難い異常さから背筋に冷たい汗を流していました。この家にこれ以上居続けると頭がおかしくなると思った男の子は、混乱する頭で必死に考えた末にある作戦を思いつきました。
「…あ!ああっ。そ、そうだ、おじさんごめんっ。今日は用事があって早く帰らないといけなかったんだ!もう行かないと」
「うん?どうしたもじもじして。なになに?おお、奏太君と一緒にご飯食べたかったのかっ!そう言う事は照れてないで自分から言わないと。どうだい、奏太君。君さえよければおじさんちで夜ご飯を食べていかないかい?」
男の家でご飯なんて食べたら、もう二度と帰れなくなってしまう。男の子は直感的にそう思いました。
「だから、うちで早く食べないと…」
「ほら、親御さんに電話しなよ」
男はにっこり笑うと電話台にある親機を指差しました。
「え?」
「いいからいいから。僕が代わりに話してあげるから」
男の子にとって、これは願ってもないチャンスでした。お父さんに連絡すれば、大事な息子が不審者に連れ去られたと知ってすぐに助けに来てくれるはずです。男の子は震える手で自宅の電話番号を押しました。余りに震えるので何度も押し間違えてしまい大変でしたが、そんな様子を見ても男はただ黙って男の子を見守っています。何度目かのコール音の後、男の子にとってのヒーローの声が受話器越しから聞こえてきました。
「あ、も、もしもしお父さんっ!?たす…助けてっ!実は今変なおじさんの家に来ちゃって、ご飯も食べてけって言われて…。僕、僕、どうしたらいいの」
父親からの返事を聞く前に、受話器が男の手に渡ってしまいました。
「あ、もしもしお父さんですか?誘拐?はっはっは。私はたかしの父親なんですが、実は今お宅の息子さんがうちに遊びに来ていまして…。あれっ!その声はもしかして…玩具屋のご主人ではっ!?あ、そうですそうです私ですいえいえこちらこそいつもありがとうございます。そう、偶然散歩道で会いまして。家にまで来てくれて遊んでくれるなんて奏太君は優しいですね。あ、良ければ今日夜ご飯でもどうですか?いえいえ、遠慮なさらずに今までのお礼ですから。ああそうですかありがとうございますっ!今日はご馳走させていただきますよ。いやぁうちのたかしも大喜びでね、今も飛び跳ねてる所です。ははは。帰りはお店まで送りますんで。ええ、ではよろしくお願いします」
無情にも電話はそこで切れてしまいました。椅子にいるたかしは玄関から入り込む隙間風のせいか嬉しそうにパタパタと揺れています。
「え?え?何、おじさんお父さんと知り合い?嘘でしょ、お父さんオッケーしちゃったの?」
男の子は呆然とその場に立ち尽くしました。もうお終いです。まさか自分の父親がこの男と知り合いで、しかも息子の話より紙ペラのたかしの存在を信じているなんて。
「さて、お父さんの許可も取ったところで、夜ご飯はたかしの好きなハンバーグでどうかな?ははっ、たかしそんなにはしゃぐんじゃない」
男は相変わらず満面の笑みを浮かべながら男の子に話しかけています。その笑顔は驚くほど自然で、男の子はそれが逆に怖くて堪らないのでした。
「…うん」
「よぉし、そうと決まればおじさん張り切っちゃうぞー!あ、ご飯作ってる間はたかしと遊んでてね」
男はそう言い残すとキッチンで何やら作業を始めました。断続的に響き渡る食器の擦り合う音と男の鼻歌が男の子の意識を曖昧にしていきます。椅子に座って隣にいる人型をぼんやりと見つめていると、何だか全てがどうでも良くなってきて、男の子は自分からたかしに話しかけていました。
「…たかし君も大変だね」
「ふんふんふんっ。ふふふふふんふん」
「僕も今大変だけどさ。君のお父さんにも困ったものだよ」
居心地の悪さと背中を這う恐怖を紛らわすように、男の子は絶え間なくたかしに話しかけています。
「君のお父さんってちょっと変わってるね。いや、まあ別に何かされてる訳じゃないんだけどさ」
「ごめん、怒ったかな?うん、まあ僕がそう言われたら怒るね。悪く言ってごめん。何もされないといいな」
お飯事に熱中して役に入り切ってしまうように、何度も話しかけている内に男の子には人型が段々と形を帯びていきました。
「ふふふぅーふふっ」
「君もハンバーグ好きなんだね。僕も大好き。でもハンバーグがくるのがこんなに嫌なのは初めてだよ」
「よーし出来たぞー。奏太君もお待たせしたね。よしっ、それじゃあ食べようか。こらこらたかし。お行儀が悪いぞぉちゃんと座りなさい」
たかしは男の子が来た時から寸分違わずきちんと椅子に張り付いています。
「よし、それじゃあ食べる前に、いたぁだきます」
「いただきます…」
男の子も嫌々ながら挨拶を交わします。
「はい、召し上がれ」
目の前のハンバーグには当然ながら毒なんて入っていませんし、見た目も匂いも普通でした。寧ろ奏太の母親には及ばないにしても、男の料理の腕前は中々のものでした。けれども、今の男の子の舌は味を全く感じられませんでした。ただただい口の中に異物を運び、ジュースでそれを流し込んでは気合いで飲み込んでの繰り返しです。
「どうだい奏太君、美味しいかい?待て待てたかしにはまだ聞いてないぞー。でも美味しいなら作った甲斐があるな!」
「ごぶっご馳走さまっ、でしたぁっ!あの、ご飯食べたしもう帰らないとっ」
男の子は酸っぱい唾を気合いで食道に押し込むと、急いで帰り自宅を始めました。
「おや、もう食べたのかい。そんなに美味しかったなんて嬉しいね。はい、おかわりどうぞ」
「え、僕もうお腹いっぱいだよ!」
これ以上食べたら本当に戻してしまいそうです。
「なに、遠慮しなくていいよ。育ち盛りなんだからもっと食べて。お、たかしもおかわりか。こりゃフードファイト勃発かな?」
「あの、ホントお腹いっぱいで…。それにうちは門限が厳しいから、今すぐ帰らないとっ!」
「なんだなんだ、さっきからそわそわしてると思ったら、門限を気にしてたんだね。でも奏太君にはもっとゆったりと過ごして貰いたいなあ。あ、そうだ」
男は席を立ち上がると、何処かに電話をかけ始めました。
「あ、もしもし?私です。たかしの父親です。ええ、今番号教えてもらいまして。奏太君とても喜んでご飯食べてくれてましてね」
「な…ちょっと何でお父さんに勝手にかけてるの!」
男の子が慌てて通話を終わらせようとしますが、男はそれを軽くあしらってどんどん話を先に進めていきます。
「ははは、奏太君もこの通り元気ですよ。たかしとはいいお友達に慣れそうです」
「いいから貸してよ!お父さんっ!聞こえるお父さんっ!僕もう家に帰りたいよっ!」
「そうなんですよ、門限を凄く気にされてましてね。私としてはもっとゆっくり遊ばせて上げたかったのですが…。え、いいんですか?ありがとうございます。ええ、奏太君と代わりますよ。ほら奏太君、お父さん、泊まってもいいってさ」
男の発した言葉に男の子は耳を疑いました。この家に泊まったりなんかしたら、正気で居られる自信がありません。男が満足気に差し出した受話器をひったくるように受け取ると、男の子は自分の父親に食ってかかりました。
「あ、もしもしお父さんっ!泊まるってどう言う事!?いや、恥ずかしがってないって!ゆっくりしてけじゃないよ!僕は早く…」
無情にも、父親からの電話はそこで切れてしまいました。
「さ、お父さんの許可も得たし、今日はたかしと思う存分楽しんでね」
笑顔の男と揺れる人型を前に、男の子は呆然と立ち尽くすばかりでした。
次の日、男の子は男に送られて自分の家へと帰りました。男は玩具屋の店主と会うなり男の子そっちのけで会話し始めます。その横で男の子がにこにこしながら二人の話を聞いていました。たかしが家で留守番しているのを知って、初めて会えると思っていた店主は酷く残念がっていました。
「それでよ奏太。昨日の泊まりは楽しかったか?」
「…うんっ!おじさんも優しかったし、たかし君とも楽しく遊べたよ!」
父親の問いかけに奏太は一瞬表情を失い硬直しましたが、直ぐにまた笑顔に戻ってそう言いました。
「はっはっはっそいつぁ良かったっ!悪いけどまた頼むよ」
「ええ、いつでも言って下さい。じゃあまたね、奏太君」
「うん、ばいばいおじさんっ!」
男が帰った後、男の子はたくさん遊んで疲れたせいか昼食後に嘔吐し、原因不明の高熱で三日三晩寝込みました。すっかり良くなった頃には、あの日の出来事がごっそり記憶から抜け落ちていたそうです。結局この日の約束が実現することはなく、男の子は後にも先にもたかしに会ったことがあるただ一人の人物でしたが、最後まで失われた記憶が戻ることはありませんでした。その日を境に男の外勤がぱったりと止み、たかしの存在はいつの間にか忘れ去られていきました。
暖かい春の日差しの下で、コートを着込んだ老人が一人路肩に手向けられた沢山の花束の前で祈りを捧げています。朝黒く日焼けした皮膚はよく見るとひび割れて黒く変色し、髭はサンタクロースのように伸び放題でしたが、一心不乱に祈るその姿は浮浪者ではなくどこか聖人を思わせました。
「ねえおとーさん、何であの人は何もない所で目をつむってるの?」
偶然通りかかった子どもが、不思議そうな顔で父親にそう尋ねました。
「あの人はね、とっても可哀想な人なんだ。丁度あそこの場所で、自分の子どもが死んじゃったんだ。天国に行っちゃってもう会えないんだ。だからね、毎日あそこに来て、子どものために花を添えてあげてるんだ」
父親は言葉を選びながら自分の娘に説明しています。
「お花をあげると死んじゃった子は喜ぶの?」
「ああ、そうだよ。結奈だってお花を貰ったら嬉しいだろう?」
「そっか。じゃああたしもあげてくるっ!」
女の子は公園で詰んだシロツメクサを持って、元気よく老人の元にかけていきます。
「ねえおじいさん、あたしもその子にお花あげていい?」
老人はいきなり話しかけられて少し驚いた顔をしましたが、すぐに優しく女の子に微笑みました。
「ああ、勿論だよ。この子はね、たかしって言うんだ」
「じゃあたかし君、お花どうぞ。おじいさんも元気出してねっ!」
女の子は老人の手向けた花の隣にシロツメクサを並べると、再び父親の元へ戻っていきました。
「おお、ありがとう…。本当にありがとう…」
女の子の純粋な優しさに触れて、老人は涙を流して親子に感謝の意を示しました。父親の方も軽く会釈してそれに応えます。
「ねえ、たかし君、喜んでくれたかなぁ」
「そうだね、きっと天国から結奈にありがとうって言ってるよ」
「そっか、良かったぁ」
老人は息子を失った日から毎日欠かすことなくこの場所を訪れて花を供え続けていました。最初のうちは一人でひっそりと続けていましたが、毎日熱心に通って息子の死を悼む姿に周りの住人が感化されていき、今では老若男女問わずひっきりなしにこの場所を訪れるようになっていました。毎日誰かが息子の写真に語りかけ、花束や水を備え、そして涙します。
「相変わらず今日も早いねぇじいさん。花置いとくね」
老人とたかしの事を知らないものは、この町にはほとんどおりません。ほら、こんなにやんちゃそうな若者だってたかしの事を知っています。
「おはようございます。たかし君は今日もいい顔ね。生きている時に会いたかったわ」
ええ、笑顔が素敵な良い子でしたよ。
「たかしぃ。今日も遊ぼーっ!」
たかしはロボット遊びや戦隊ヒーローごっこが特に好きでしたね。
「俺、最近越して来てお前のこと知ったんだ。小さい頃にお前と一緒にハンバーグ一食べたらしいな」
ああ、懐かしい。あの夜は二人とも興奮して大変でしたね。
実は老人は持病もあってもう先は長くありません。けれど、老人は自分の人生に未練は全くありませんでした。息子と過ごせた時間は短かったですが、それでも一生分の価値があるかけがえのない幸福な時間でした。息子の亡き後は先の見えない辛く苦しい時間が続きましたが、心優しい町の人たちに支えられ、何とか立ち直る事が出来ました。そうして今ではこんなに沢山の人たちが息子に会いに来てくれて、老人に息子の話を聞いてくれるのです。そのうちの何人かは、自分の死後も息子に会いにこの場所に来たいと言ってくれています。だから老人は安心して旅立って行けるのです。
町の人たちが帰ったあと、老人は天に向かって再び祈り始めました。老人の一日はこの場所で始まってこの場所で終わるのです。願わくば連綿と、たかしを悼んでくれる人の縁が続いていきますように…。老人の乾いた咳の音が、春風に乗って空高く巻き上げられて行きました。
男が一人、机に向かって小説を書いています。部屋の中は数十年の歳月を経てうず高く積み上がった原稿用紙の束で埋め尽くされ、もうすぐ男の居る場所さえも飲み込もうとしていました。けれども、そんな事はお構いなしに男は一心不乱に小説を書き続けています。書いても書いても次から次へと素晴らしいアイデアが浮かんで来て、この数十年間ただの一度もペンが止まることはありませんでした。その凄まじいまでの集中力と創作意欲も、遂に終わりを迎えようとしています。今までに一体どれだけの作品を書き上げたことでしょうか。
男の小説が世に出ることは恐らく一生ないでしょう。それでも、男の心は常に満たされていました。なにせ自分の好きな小説を何も気にせず思う存分に書き続けられたのですから。強いて言うなら、この無限に湧き続けるアイデアをもう物語に出来ないことだけが心残りです。男の人生は天涯孤独で、それでいて報われませんでした。でも、例え人からどう思われようと、自分が幸せならそれでいいのです。男は咳払いをすると、幸福のうちに目を閉じました。その幸せが誰かの見る儚い夢だったとしても、それで。
産声 波と海を見たな @3030omio
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