第2話
「さて、今日は少し雑談をしようか」
講義の時間が残り十分、と行ったところで、講師はテキストをぱたんと閉じた。必死になってノートを取っていたミオははっとして顔を上げた。すると、講師と目が合ったような気がした。講師がにこり、と、微笑むと、ミオの近くの女の受講生が黄色い悲鳴を上げた。ミオはといえば、自分じゃなかったという認識をして、そのままペンを置いた。
講師は気を取り直すようにふっと小さく息を吐いて、話し始めた。
「縄文期における交流の話は先ほどしたけれど、交流があるという事は、良いことばかりではない。分かるかな?」
講師の言葉に、最前列に座っていた真面目そうなメガネの男が挙手した。
「はい、君」
メガネの男は、くい、と、中指でメガネを上げて立ち上がる。
「閉ざされていたものが蓋を開けるという事のデメリットは大きく二つ」
彼はピースしているように見えた。それほど、得意気だった。
「余計なものが入ってくることと、大切なものが出て行くこと」
「そうだね。流浪の民が嫌われるのはそこにある。伝染病、風土病。それまでそこになかったものを持ちこんでしまう。持ち込まれた方は、対処法を知らないから、下手をすれば滅亡してしまう。そして、自分たちの希少価値のある文化を無造作に持ち出されてしまう事だ。正しい取引が行われなければ、一方が損をすることになる。得てして、それまで他との交流が少ない者達の方が、交渉慣れしていないから、被害にあう可能性は高いね」
「そして、交流するという事は、絆を深めるという意味合いもあるけれど、諍いを産むこともあります」
「その通り」
講師はパンパンと手を叩いた。
「諍い。つまり、人と人、もっと大きく言えば、村、そして、国という単位での争い。これは昔から人の歴史とは切っても切れない関係があるね。そして、これは伝承の域を出ないのだけれど、山のものが海へ、海のものが山へと移動したのは、交流という生易しいものがあったのではなく……」
「略奪行為があった」
ずばっと行ったのは、それまで黙っていたミネだった。ミネの声はそれほど大きくはないが、声質がよく通る。そのため、講堂内の視線が一気にミネに集まった。
先刻のメガネの学生が、言葉を取られたことにあからさまな悪意を以って舌打ちしたが、ミネは気にしていない。講師が、気遣って、彼に礼を言い、彼を褒めなければ、後々面倒なことになったかもしれない。
「略奪行為があったかどうか。それはあくまで可能性として、だけどね。今でも県民性として海のあるなし、あるいは、海側、山側でライバル心を持つ、というのは良くある話なんだよ。その根っこがどこにあるのか、という時に、昔の記憶……前世、なんて言ってしまうと荒唐無稽に思えるかもしれないけれど、例えば、遺伝子的に何かある、という可能性なら、考えやすいんじゃないかな」
そう言うと、講師は机の上に、小さな貝殻を置いた。それは、カタツムリの殻のようにも見え、また、巻貝のようにも見えた。
「これは、とある山の遺跡から発掘されたものだけれど、海のものにも、山のものにも見えるんだ。さて、この子の故郷はどこなんだろうね。そして、海のものだとしたらどういう経緯で、山の上にあったんだろう」
講師がそこまで言ったところで、終業を伝えるベルが鳴った。
「残念。今日はここまで」
そう言って、講師はテキストをまとめて教壇を降りた。
「ミオ、どうかしたの?」
シホが話しかける。ミオはぼぅっとしていた。
「ミオ?」
ミネが呼ぶと、ミオはびくっとして体を震わせた。
「あ、ゴメン。目、開けて寝てた」
「ミオがまともに答えるなんて、初めてだね」
そう言ってミネが笑うと、ミオは正気に戻った。
「シホに、シホに言ったのよ!」
「ミオって……ツンデレ?」
シホの言葉が余計にミオに油を注ぎ、しばらく騒ぎは収まらなかった。
その日の夜。
ベッドに入って、天井を見上げ、ミオが思い出すのは、今日の講義のことばかりだった。正直、それまでは付き合いで受けていただけの講義。興味などみじんもなかった。
なのに。
「どうして、気になるんだろう」
歴史が好きな訳じゃない。謎解きが好きな訳じゃない。
なのに。
今日の講義の内容が、気になって仕方ない。ミオはどうにも収まらない気持ちを抱えて、それでも無理に眠りについた。
その夜、ミオは夢を見た。
それは、とても大きな、大きな男性と、大きな女性が二人で話をしているところだった。
それを自分は、とても幸せな気持ちで見ていた。
彼らが誰なのか、そして、それがどこなのか分からないまま、ただ、幸せな気持ちに満ちていた。
そして、ぽろり、と、涙が零れた。
そのことにもまた、深い幸せを感じるのだ。
どうして、どうしてこれほどまでに美しいものに、自分は蓋をしてしまったのだろう。
夢の中のミオは、そうしてまた、はらはらと泣いた。
翌日、ミオは件の講師、ロバートの研究室の前にいた。ドアをノックすると、中から
「どうぞ」
と、くぐもった声が聞こえた。ミオの喉がごくり、と、鳴った。中に猛獣が居るわけでもないのに、やたらと心臓が音を立てた。ミオは、ええい、と、気合を入れて、それでもそぅっとドアを開けた。
風に乗ってふわりと紅茶の香りがした。
「あの、その、」
他学科の自分が何から言い出していいのか分からず、入り口でもたついてると、
「入って。お茶でも飲もうよ。ミオさん」
「何で、名前……」
「ミネから聞いたよ。双子のお姉さんだろう?顔が似ている」
「……ミネ?」
ミネもまた他学科の学生だ。どこに接点が在るのだろうと思っていると、本棚の影からミネが顔を出した。小さく、や、と、言って笑う。その笑顔を見た瞬間、ミオの顔が真っ赤になった。
「帰ります!」
「まぁまぁ、待ちたまえ」
踵を返したミオの肩にロバートの手が置かれた。
「そう言わずに、そこで帰られたらボクの心が壊れてしまう」
台詞の意味が分からず、ミオはうっかり立ち止まってしまった。
「ホラ、テレビでクイズ番組があるじゃないか。問題だけを聞いて答えを聞き逃すと気にならないかい?あれは何だったんだろう。自分の答えは正しかったのだろうか。それとも他に答えがあったのか……正解を求めてひたすら悩むことになるのだよ?」
「はぁ」
「今君に帰られてしまったら、君が果たして何を言おうとしたのか、何の用事があってボクの研究室を訪れたのか、ボクは君に再開するまでひたすら悩むことになる」
「はぁ」
随分と流暢な日本語を立て板に水といった様相で畳みかけるロバートを半ば呆れもし、また、感心もしながらミオは眺めた。
「そのようなことは避けたいのだよ、ミス・ミオ。分かってもらえるね」
「はぁ」
うっかり返事をしてしまうと、ロバートはぱぁっと顔を輝かせた。
「それではミオ、こちらへどうぞ?」
そう言われて、ミオはしぶしぶ研究室の奥へと歩を進めた。
「ちょうど、フォションの紅茶を頂いたのだよ。美味しいから是非飲んでいって欲しいな。しかも、何とも奇遇な事にこんなところに美味しいクッキーまでもあるのだよ。これもぜひ食べて頂きたいね」
「先生、オレの時は出さなかったのに」
ミネが冷めた紅茶をすすりながら言う。
「ミスター・ミネ。日本の男性は甘いものを好まないという定説に基づいての行動だよ。寧ろ気遣いと思って欲しいね」
「オレは食いますんで、覚えててください」
「心得た」
二人の会話はどこかおかしくて、ミオは小さく笑った。それを見てミネが嬉しそうな声を上げそうになったのを感知して、ミオが再び立ち上がろうとすると、
「オゥ、ファンタスティック!ミス・ミオ、君は笑顔がとてもキュートだ。いつもそうしていることをお勧めするよ」
ロバートがすかさず止めに入った。同時に、クッキーの入った皿を置く。そして、湯気の立ったティーカップをミオの前に置いた。
「召し上がれ」
「……先生、授業中とは態度が違いますね」
「俺だけの時とも違うけど」
ミネとミオはそう言って笑った。
ミオは何故か、もう逃げる気にはならなかった。ロバートは、その二人をどこか嬉しそうに眺めていた。
「それで?もしかして、ミオも海の民と山の民の話を聞きに来たのかい?」
紅茶が二杯目になる頃、ロバートは本題に入った。それまで、すっかり雑談に付き合わされて忘れていた。そもそもその話を聞くために来たのだ。
しかし、ミオはそれ以前に、ロバートの言葉の一片が気になった。
「ミオ、も?」
「そう。ミネもそれを聞きに来たからね」
そう言ってロバートがミネに視線を送ると、ミネは小さく頷いた。そして、ミオに視線が戻ると、ミオも同じように頷いた。どうして、と、思うところはお互いにあった。だが、それも、ロバートの話を聞けば、分かるのかもしれないと思った。
「講義でも言ったように、あれは本当に一説なんだ。本当にそうだったかどうかは誰にも分からない。でも、それを言ったら歴史上の出来事とされている事の全てがそうなるのだけれどね」
「あったかどうかわからない、ということですか?」
「そう」
「有史時代になっても?」
「そうだよ。二冊以上の書物で同じことが書かれて居れば信ぴょう性は高いと言われるけれど、口裏を合わせていないとは言い切れない。可能性はゼロではない。もしかしたら、あの関ヶ原の合戦だって、明治維新だって、無かったのかもしれない」
ロバートはそう言って、弄んでいたクッキーを口に放り込んだ。
「写真が出来てからはどうですか?」
ミオが聞いた。
「細工されていないとも限らない」
それにはミネが答えた。反論されたような形になったけれど、不思議と不快ではなかった。納得は出来る。最近の研究で、偉人とされていた肖像画、あるいは写真でさえも、本人ではないと言われることもある。定説が覆されることが歴史の宿命であるかのように。
「そう。全ては可能性の問題だ。でも、それが正史であると言われている以上は、それが大きな意味を持つことには変わりない。つまり、正にそれが正史であることの必要性というものがあるんじゃないかとも思う。それもまた、面白いと思うんだよ」
「先生、変わってますね」
「君たちもね」
「俺たち?」
「双子なのに仲が悪い、ように見える」
ロバートの目が、鋭く光ったように見えた。
「もしかしたら、自分たちがそれぞれ、海の民と、山の民の生まれ変わりなんじゃないか、とか?」
そう言われてミオはどきりとした。はっきりとそう思ったわけではないけれど、どこかではそう思っていたからこそ、動揺した。それに対して、ミネは、静かに息を吐いて頷いた。そんなミネを見て、ミオは少なからず傷ついている自分に驚いた。自分だってミネを嫌っていたはずなのに、逆にミネに嫌われていると言われると哀しい。
なんて勝手なんだ。
そう、思った。
どこかで、甘えていたのだ。
ミネが甘えてくることに。
自分は、無条件で好かれていると思っていた。
邪魔だと思う、その心のどこかで、やはり、愛されている事を期待し、甘えた。
自分の中の嫌悪感が、根拠のないものであることを知っていればこそ。
「確かに」
ロバートの声で、ミオははっとした。ロバートは俯き、口元に軽く握った右手を添えている。彼の考え事をする時の癖のようだった。そうして、左手でトントンと、机を叩きながら話し始めた。
「君たちは双子であるから……顔もそっくりだから、これは間違いないことだよね。例えば、それぞれがそれぞれの血統で、仲が悪い、という仮説は成り立たない。同じ家で同じように育っているから、環境の所為にもできない。それが君たちの不仲に関与しているとすれば、生まれ変わり、ということが一番考えやすいのかもしれないね」
ロバートの白い指が、円や曲線を描きながら説明する。そういう時はすっかり講師の顔になっていた。
「先生は、信じるんですか?その、生まれ変わり、とか」
ミオが言うと、ロバートはにっこり笑った。
「ある、とも、証明できない。でも、ない、とも、証明できない。これも、史実と言われている事と同じだね。ボクは、同じように面白いと思うよ。今は仮定の話をしている」
それで、と、ロバートは言った。
「君たちは、どうしたいんだい?」
「どう、したい?」
「そう」
沈黙が流れた。重い空気の中で、ロバートだけが、優雅に紅茶を飲んでいる。そうして、静かに双子が答えを出すのを待っていた。
どれほどの時間だったのか。静けさを壊したのはミネだった。
「……オレは、ミオと仲良くしたいと思う。普通の、姉弟みたいに」
それを聞いて、ミオは驚いた顔をした。
「ミネは、私の事、嫌いじゃないの?」
「嫌いだよ」
「じゃあ、何で」
「ミオも、嫌いだよね」
逆に返されて、ミオは黙った。
そして、頷いた。
「知ってる。ずっと避けられてたから」
「じゃあ、それでも私にくっついてきたのはどうしてなの?」
半ば悲鳴のようにそれは響いた。ミオの目が、見る間に涙で一杯になった。それでも、泣かなかった。
最後の意地だった。
ロバートはじっと二人を見つめていた。青と緑の混ざったような瞳が、静かに、二人の会話を見つめている。
「それでも、ミオが好きだからだよ」
「それでも?」
「そう。それでも」
「どうして?」
「じゃあ、どうしてミオはここにいるの?自分の中の感情が正しいと思うなら、それが、自分の望みに則しているなら、それを解決しようとは思わないはずだ。その理由を問わないはずだ。オレは、問いたかったからここに来た。ミオを嫌いだという思いが、オレの中にあって、それでもその感情の意味が分からなくて、それをオレ自身は不当だと思った。根拠のないものは、オレには不当だ。だから、オレはこの訳の分からない感情の理由が知りたくて、ここに来たんだ。ミオは?」
そう言って、ミネはじっとミオの顔を見つめた。ミオの心に、昨夜見た夢が、おぼろげに思い出された。
何故かはわからない。
それでも、今、自分がこうしてここにいること自体が、もう、自分の心が、ミネと同じである事を証明していた。
「うん」
ミオは小さく頷いた。
「私も」
そう言ったミオの目から、涙が一粒、流れて落ちた。
二人は川沿いの道を歩いていた。
一緒に研究室を出た二人を、ロバートは笑顔で見送ってくれた。
「……本当に、海の民と、山の民の争いがあって、それでオレ達がその生まれ変わりなのだとしたら、」
ミネがそう言うと、ミオは
「知らないわ」
少し拗ねたようにそれだけ返した。ミネの言葉を遮るように。
「聞いて」
ミネが足を止めた。つられてミオも止める。そうして、少し遅れたミネを振り向いた。
川の音が聞こえ、心地よい風が吹きすぎていく。ミネは静かに微笑んでいた。
「そうだとして、きっと、彼らも本当は、共に生きたかったんだと思う」
「何、それ」
「嫌いって、好きの裏返しだっていうだろ?感情があるなら、相手のことを意識してるって事だ。それに、お互いに協力しあったほうが利点があるって、彼らも知っていたと思う。諍いのもとは小さなことだったかもしれない。どこかで、何かがすれ違った。でも、本当は、」
「協力しあいたかったってこと?」
「そう。誰でも、自分にない力、例えば、山の民は、恐らく、山中のことは海の民より知っていて、野山を駆けまわる能力については、海の民より長けていたと思う」
「例えば、海の民なら、山の民より海のことを知っていて、長く潜ったり、泳いだりできる」
「そういうこと。でも、お互いにない能力を持っているっていうことは、ある種の脅威でもあるわけで、お互いに持っていない産物や宝を持っているという事は嫉妬の対象でもある」
「そうね」
「それを、認め合って、協力し合えばよかったんだ」
「難しいね」
「うん、難しい」
今ですら、否、今という時は殊更に、そうして、違う場所で生きる者が容易く諍いを起こす。
「それでも、望んでいたんだと思うよ、彼らは」
「どうして?」
「こんなに近くに、オレらが生まれて来たんだから」
そう言われて、ミオは驚き、そして、笑った。
「私たちが、証?」
「そう」
「じゃあ、仲良くしないと」
「義務?」
「ううん」
その後は、声を合わせて同じことを言った。
ホラ、やっぱりね
心の中まで同じ
彼らの共通項、それは、
「希望」
のぞみ 零 @reimitsuki
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