最終話 冬

 世間がチョコレート色のポップと広告に包まれる時期になると、上級生の目付きが変わる。特に三年生は来たる大学という人生のひとつの分起点を目前にして、友人との接し方まで変化しているように思う。まるで会社の他部署の同期になったかのような振る舞いで日常を過ごすのだ。

 三年生が血眼になって入試の対策を詰めるなか、一、二年生は期末考査というものが行われる。嫌だ来るなとあらゆる生徒が宣うが、それが終わってしまえば彼らは教師の採点作業には目もくれない。無論それは彼らにとっては当然なのだろうが、憂鬱な顔をする生徒たちの話をにこやかに聞きながら、心の中で数日後の自分を憂う教師も多かろう。

 中でも時間を費やすのは国語教師かもしれない。尤も、自分の担当でない教科の先生方と関わることがそもそも少ないので詳しいところは分からないが、国語教師のみが、生徒の難解な日本語の文章と向き合いながら夜中もうんうん言いながら机に向かっていることが多いように思う。ある程度の採点の枠組みは決められているが、その枠を意図せずすり抜けようとする回答はきっと山のようにあるのだ。

 自分の受け持つ数学の期末考査の採点も、残すところあと一クラスぶんとなった。いつも自分の受け持つクラスの採点は楽しみにと最後に回しているが、今回は何となく気が重たかった。疲れているわけではない。この採点が終わってしまえば、職場を後にしなければならないと思うとその気になれなかった。

 背中合わせの彼が無言で赤ボールペンを走らせる音だけが、今俺が彼と繋がっていられる支点だ。ほのかに煙草の香りがして咄嗟に顔を上げそうになるけれど、どこからともなくやって来た気まずさに潰されて動けない。

 彼を嫌いになったわけじゃない。あの日のことを後悔しているわけがない。それでも、あの日の翌朝、彼のすこやかとは言いがたい寝顔を見たとき。そんな姿すらも網膜に焼印の如く残された自分の存在に気が付いて、悟ってしまった。次に彼と話したときには、もう彼に対する心と姿勢は揺るがないものになってしまうのだと。そう考えると、どうすればいいのか分からなくなった。

 情けなくも尻尾を巻いて逃げ仰せたくせして、いつ何時でも思い出すのはあの日のことである。同僚じゃ満足できなくなった、なんて。この先ずっと、俺たちが何になっても満足しなければいいのに、と心の中でぼんやり思った俺のことを、きっと彼は知らない。

「伊藤先生ー」

「はい」

「明日の大雪のことでお話がありまして……」

「はいはい」

 亀のような速度で進む採点のなか、ふと学年主任の先生に呼び出され席を立つ。明日は大雪が降るという予報であり、おそらくは生徒を午前と午後のあいだに返さねばならない。今のところまだ決定ではないけれど、そのときは生徒に伝えるよう仰せつかった。

 普段は原付で通勤している自分も、明日ばっかりはどうにか帰れるように都合をつけておかねばならない。遅延した電車と徒歩でどうにかなるだろうか。こういうとき、職場の近くに家があれば何倍も楽なのに、なんてないものねだりをしてしまう。それこそ上林先生は徒歩圏内なので羨ましい。

 もう炬燵は出しただろうか。出していたとして、そのままベッドに行かずに眠って体を痛めていないだろうか。冷たいフローリングを、ルームシューズも履かずに歩いていたりしないだろうか。……気が付けば、彼の心配という名の飢えが頭を支配していた。


「──以上です。みんな気を付けて帰るように」

 窓から見える景色は別世界のように白い。緊急のホームルームを終えると、生徒がわいわいと笑顔を湛えながら教室を出ていった。皆、人肌と暖房で温められた教室と無慈悲に風が吹き抜ける廊下の気温の差に驚いているようだった。

 全員が捌けるまで待ち、がらんどうになったら教室の施錠をして、しばらくして学校そのものの戸締りをして。帰るのが何時になるか分からないが、どれだけ遅くなろうとも雪は降り止まないだろう。しもやけは作りたくないな、と考えながら窓を眺めていると、目の前に一人生徒が立った。

「黒川。どうした」

「先生。先生は上林先生とプライベートで過ごしたことありますか」

「え? どうした、急に」

 まっすぐな、感情の読めない瞳が俺を見つめている。黒川は、あの夏休みの一件以降特に変わった様子もなく、健康に毎日を過ごしているように見えた。ゆえに、そもそも上林先生に言い寄ったのは黒川ではなかったのかもしれないとまで思っていた。そういう事情もあって、偶然ではあるかもしれないがこのタイミングで黒川の口から上林先生の名前が出るのは少し意外だった。

「……」

 じっと見つめる彼女。頭の中に鮮烈に蘇る夏と秋のとある日のことを、見透かされているような気がした。水をひたひたに零す情けないところも、へらりとして笑ったかどうかも分からないような笑顔も、煙草を吐いたあとの気恥しそうな紅い耳の縁も。彼女ではなくて、他の誰でもない俺に見せてくれた彼の一部で。それに嘘をつくことはできなかったし、したくなかった。

「うん。……あるよ」

「……そっかぁ」

 いいなあ。消え入りそうな声で、俯きながら彼女は確かにそう言ったように思う。彼女なりに、夏の一件から自分の中で決着を付けようとしたのだろう。否、諦めることが正しいのかもしれないと彼にやんわり教わったから、そのように振舞っていたのだろう。彼の言うことに従って彼に好かれる生徒でありたい、しかし生徒では彼の隣に居られない。そんな葛藤を一人で抱えて。

 今更誰が彼女を憐れむ権利があるというのだろうか。見ないふりをする選択肢を選べる大人は、ずるいのかもしれない。それでも手短な同情で撫で回されるよりはずっといい。彼女の心が救われるならそれで良かった。

「上林先生はいい人だよ。本当に」

「……知ってます」

「はは。普段は何考えてるか分かんないけどな」

「けど、そこがあのひとの魅力ですよね、たぶん」

 意識的にかどうかはわからないけれども、同意を求めてくるということは、俺の上林先生に対する気持ちも既に悟られているのだろうか。もしくは無意識に同類の香りを感じ取ってくれたのかもしれない。

「あぁ。たぶん、な。……そろそろ帰らないと本格的に寒くなるぞ?」

 こくりと頷いて窓を一瞥し、彼女はマフラーを巻き直す。そして扉の前に立つと、開く前にこちらに声をかけてきた。

「先生」

「なんだ」

「今日寒いから、上林先生に風邪引かせないようにしてください」

「……」

「じゃあ、さよなら」

 悪戯っ子のような笑みを残し、彼女はスカートをはためかせながら廊下を駆けていった。彼女は決してすべてを諦めたわけじゃない、上林先生に関して俺を信頼したのだ。そのような輝きは大人には眩しすぎるのかもしれなかった。

 彼女の未来で、上林先生はどのような存在になるのだろうか。どうか、叶わぬ恋のひとだとかそんな言葉に収まらないものとして彼女の歴史に刻まれていて欲しいと思う。彼と共有した時間を頭の片隅にすら置かないのは、たいへん勿体ないことだから。

 指に引っかけた扉の鍵が歩くのに合わせて踊る。教室から職員室への道はそう長くないけども、雪とともに吹き付ける風は窓をも突き抜けて身体を冷やす気がした。身体が強くない人なら、ここでくしゃみをしたり、風邪を引いていてもおかしくない。暖かい職員室のことを思い浮かべれば、必然的に背中を預けた彼のことも頭に浮かぶ。彼はここから家も近いし、仕事も速い。もう帰ってしまっただろうか。

 黒川の言う風邪を引かせないようにする、というのは、実質彼の隣にいることと同義だ。遠隔操作で人を操ったり監視カメラで見守りでもしない限り、離れた状態で彼の体調を保証することは叶わない。しかし、それが今の自分にできるかどうかだ。自分とて彼の体調が心配だ。ただ、彼ともう一度話したとき、俺はきっと。……あぁ、でも、こうして一人で悩み続けるより、彼

に面と向かって何だそれと笑われるほうがよっぽど良いような。黒川がああいう風に言ったのも、そろそろ覚悟を決めろというお告げなのかもしれない。

 職員室に入ると、別世界のような快適な気温の空間が広がる。少し空気が乾いているが、暖を取れるだけでありがたい。室内はやけに静かで、コピー機の音すら聞こえなかった。中を見回してみると、神隠しにでもあったかのように人が居ない。どうやら多くの教師陣はあまりの大雪に足早に退勤したらしかった。

 自分もそろそろ帰らねば、と席の方を見ると、後ろの彼が机に突っ伏して静かな呼吸を立てている。近頃の採点作業による疲れが限界に達していたのかもしれない。この気温と天候の中、誰も職員室には帰ってこないと踏んで仮眠をとったのだろう。暖かい室内とはいえ、シャツとニットのみを着たその背中はすこし寒そうに見えた。瞬時に蘇る、看病の記憶。

「……上林先生」

 こんなとこで寝てたらまた風邪引きますよ。なぜか少し緊張して、震えた声しか出ない。言いながら、俺が仕事中に使っているブランケットを肩からかけた。いつもくたびれたような瞳の彼だが、寝顔はあどけなさを含んでいる。彼がそんな顔を晒している今、職員室に誰も居ないのが背徳感に似た愉悦を感じさせた。そうして今更、自分の溢れんばかりの感情を思い出す。あぁそうだ、彼はふとしたときに可愛らしくて、年上なのに子どもみたいで。

 今の自分を客観視してみるとなんだかおかしくて笑いが零れる。自ら距離を置いたくせして、姿を見かけた途端にこんなことを考えてしまう。そのくらいに彼から離れられないというのなら、無駄な足掻きはもう懲りた方がいい。彼を目前にしながらも何も成せない日々が、どれだけ自分の首を絞めてきたか。そう思うと、もう話しかけることにも躊躇いが無くなった。

「ねえ、上林先生。……起きないんですか」

 かなり疲れているのだろう、熟睡しているようで返事はない。どれだけ雪が降りしきろうとも、俺は彼が起きるまではここに居よう。そうして一秒でも長く、上林先生と過ごす時間を味わっていたかった。彼が起きたら何て言葉をかけようか。久しぶりに正面から彼の笑う顔が見たい。あの、笑顔か笑顔じゃないのかよく分からない顔を。笑ってくださいと、素直に言ってみるのも悪くないかもしれない。淡い色の名残を惜しむように、視線でゆっくりと目の下と唇の端を確かめた。

「起きたら……一緒に、帰りましょう」

 彼が聞いていないと分かっていても、ただ願望を口にしただけだと理解していても、言っている途中で恥ずかしくなってしまった。最後の方は自分の席に座りながら小さな声で呟いた。どうしようもない心の焦りを紛らわせるため、少しだけ残った仕事を片付けようと書類を取り出す。そのときふと、後ろの椅子が動いたような音がした。一瞬心臓が止まったかのような心地がして、咄嗟に振り返る。と、目の前に彼の顔。

「……」

「……」

 彼は真顔でこちらを見つめた。鼻先が触れてしまいそうな距離感に、俺は呼吸の仕方を忘れる。ゆっくりとひとつ瞬きをしたかと思えば、彼は親指の腹でていねいに俺の唇を端から端まで触っていく。背中の奥で何かがざわ、と蠢いた感覚。何も言えずに居ると、彼は少し距離をとってから首を傾けて問うた。

「帰ってくれますか? おれの家、に」

「か、……」

 職場に配慮した結果だろうけれど、後半は耳元で呟かれたものだから、喉が締まって何も言えなくなってしまう。彼はあまり表情が豊かでないながらも、このときばかりは主人を待つ犬のように柔く微笑んでいた。話しかけてくれて嬉しい、と顔に書いてくれているかのようだった。そんな風に見えるのは、自分が彼のことをよく知っているからなのだろう。

 あれだけ空白があいて、もう前文に何が記されていたのか覚えていなくてもおかしくない。それなのに、俺がその空白の間にも前文を繰り返し頭の中で埋め込んでいたみたいに、彼もずっと覚えてくれていたのだろうか。あの日の朝、メモひとつ残さずに逃げ出した俺のことも、ちょっとだけ頑張った料理の味付けも、誰にも言えないような相談をしてくれたことも。彼の中では生きていたのだろうか。

「……」

「い、いんですか。俺……」

「おれは……伊藤先生が一緒に居てくれない方が嫌です」

 食い気味に言ったその言葉は、彼のこれまでの心情を代弁しているかのようだった。一種のトラウマを想起したときのような瞳の奥の色。

 目の前のこの人が自分に明るい感情を向けてくれていることが甚だ信じられなくて、もう返事が声になったのかどうかすら分からない。彼はあの日から今日までずっと、俺と同じように歯痒い心持ちで過ごしていたのだと、今更知った。ここにいるふたりの大人は、臆病なだけだった。互いの気持ちも確認せずに、無かったことにもできずに、立ち往生していた。何をやってるんだと他人から笑われるかもしれないが、今なら、それさえもいい思い出に変えられるような気がする。

 二人して急いで荷物を片付け、職員室と校内の戸締りを確認して門を出た。終始無言だったけれども、話していなかった間と違って全く気にならなかった。気にならなかったというより、気にしている余裕がなかったのかもしれない。上林先生の家に上がってからのことを、お互い必死に考えていた。青い春を過ごす若人の如く。


 上林先生の玄関を跨ぐのももう三度目だ。しかし、インターホンの前に立ち止まることなく家に入るのは初めてのこと。玄関で頭や肩に積もった雪を払って廊下を抜ける。と、相も変わらずシンプルな家具と部屋で、なんだか安心してしまう。部屋に入って荷物を置くなり、上林先生はゆっくり口を開く。

「足冷えたでしょう。炬燵入っててください。みかんとか……持ってきます」

「あ、りがとうございます」

 長方形の天板のテーブルに分厚い布が挟まった炬燵。中に脚を突っ込むと、氷みたいな温度をした指先がじわりじわりと溶けていく感覚があった。正面を向けば、ローカルバラエティ番組が賑やかな声を出している。近所に新しく出来たラーメン屋の特集だ。絶品などと謳われると今度時間があるときにでも行ってみたくなるものだが、一人でいくのも何だか味気ないような気がした。

 準備が終わったらしい上林先生は、みかんとチョコレート菓子と煙草が乗った盆を手に俺の隣に座る。長方形の面積はそこまで大きくなくて、自然と肩どうしの距離は縮まった。少なくとも、普段の背中合わせよりずっと近いだろう。

「すみません、ろくなものがなくて」

「ありがとうございます。……上林先生、ラーメン好きです?」

「んー。まあ、おそらく人並みには」

「今度これ、行きませんか」

「えー……」

 言いながら、みかんをむいてふたつに割ったあと、それを置いてチョコレートを口に放り込み、煙草に火をつけた。全てを同時にやろうとするのがなんだか面白くて、少し微笑む。上林先生は暫く画面の中の著名タレントを眺めて、そのまま話しかけてくる。

「あんまり人が多いのはちょっと……」

「うーん。でもいつかは行きたいです、上林先生と」

 少し緊張しながらそう言うと、彼は一度こちらを見た後楽しそうに笑った。唐突に笑い出したものだから璃由もわからず困惑したが、吸っている最中の煙草の煙を口から漏らすその様子はやけに美しく思えた。

「ふ、はは」

「……どうしました」

「なんか、だめだなって」

「だめ?」

「うん、だめ。帰り道から今もずっと、信じられないんですよ、おれ。伊藤先生とこうしていることが」

「……」

 人間、長らく熱望していたものをいざ手にすると、その現実味の無さに喜びを忘れてしまうこともあるのかもしれない。それでも、今この時間と空間と景色が夢の産物だと思って欲しくはなかった。薄紅の舞う季節に初めて素手で触れて、それから地道ながらも着実に距離を埋めて。その過程と思い出はすべて大事に抱きしめていてほしい。そういう期間を経た上で、あたたかくて優しい今という時間の愛おしさがわかるのだから。

 俺たちは、周りから見ればずいぶん遅い開花であり発芽だったのだろう。しかし周りの評価より、よっぽど大切なのは相手の存在そのものなのであった。これからも必死こいて向き合っていかなければならないのは自分と相手なのだから、俺たちは俺たちのペースで、気ままに日々を過ごすことができれば十分なのだ。現実が信じられないと言うのなら、ゆっくりでも夢じゃないと言い続けて、手を握って、抱きしめればそれでいい。彼の為ならば、そんなこと造作もない。

「誠司さん。……と、呼んでもいいですか」

「好、きに、呼んでください」

「あはは、動揺してる。ちょっとは現実感増しました?」

「……ちょっと」

「ふうん」

 照れ隠しか素なのか、はたまた緊張なのか。彼は一向にテレビから視線を外さない。煙草を吸う間隔が短くなっているのを見るに、緊張なのかもしれない。目が合わないのがもどかしくて、テーブルの上に肘をついて彼を眺めた。

「誠司さんは呼んでくれないんですか」

「え」

「ちゃんと現実ですから、ほら。一回呼んでみてくださいよ」

少し考え込むように下を向いたあと、誠司さんは耳の縁を少しだけ赤くして言う。

「か……る」

「聞こえません」

「か、おるさん」

「……もう一回」

「薫さん、」

「──はい」

 自分でも笑ってしまうくらいに柔い、ほろほろの返事だった。呼び掛けに応えるとともに、煙草ごと指を絡める。観念したかのように幸せそうな顔で笑う彼の唇に、ゆっくりと約束を捧げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

伊藤先生と上林先生 椎茸 @sitk_11037

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ