第三話 秋
とある金曜日。季節の変わり目をなめてかかると痛い目に遭うのだと思い知らされる。彼の携帯と事務には朝一で風邪だと連絡を入れておいたが、どうにか業務は回っているのだろうか。こういうときの急な連絡は致し方ないとはいえ、なんと迷惑なことかと考えるだけで頭痛が増した。
夕方になってやっと回復しはじめたはいいけれど、この調子だとまともに外も出歩けず、栄養を摂取出来そうにない。かといって介抱させるために呼び出すことが出来るほどの間柄の人間など居るはずも無い。否、自分には今、一人──
「……いや、」
いくら職場で仲を深めたとはいえ、プライベートまで踏み込む必要はないのではないか。当然だ、それが同僚というものの適正な距離なのだから。
部屋の壁掛け時計がやけに煩い。秒針の音も伊藤先生の顔も、火照った頭にまとわりついていた。踏み込む必要はない。ならば踏み込みたいという願望はないのか。そんなこと、心に問わずとも解る。無いと言えば嘘になるのだと。けれども、その願望のままに彼に我儘を言うことはなんとなく怖かった。せっかく少しだけ明るく見えるようになった職場を、公私混同という理由で潰したくはない。
……あぁ、それでも、どう抗っても彼の顔は頭から離れてくれないらしい。彼を振り払えないし、今の自分は彼のことしか考えられないけれど、彼には言えない。彼からすればおれは、ただの同僚なのかもしれないからだ。この前みたいに優しい言葉をくれたのは、自分がただの同僚だから、共感したからという理由に過ぎないのかもしれない。そういう可能性を考えるだけで、風邪で弱った心はあっという間に折れてしまうのだった。
それからどれくらい眠っていただろうか、ふとチャイムが鳴る。もう陽は沈んでいるような時間帯に誰が訪ねてくることがあろうか。またこの前みたいに聖書を持ったおばあさんだったらどうしようか。重たい身体を起こしてテレビドアホンを応答すると、画面の向こうに居たのは、先程まで思い浮かべていた人だった。紺のネクタイが少し揺れている。
「い……と」
「上林先生。大丈夫……じゃないですよね」
「は、い」
「あの、桃缶とかゼリーとか買ってきました。もし良かったらですけど……開けてください」
「……よ、ろこんで?」
「っ、あはは、」
弱ったおれと裏返った声が心底面白かったのか、彼は初めて顔を崩して大きく笑った。笑顔が意外と幼くて可愛らしいな、なんて思いながらドアのロックを解除した。
遠慮がちに家に入りながらも、上がってからはまるで自分の家のようにてきぱきと看病の準備を始める伊藤先生。スポーツドリンクに濡れタオル、風邪薬に冷えピタ、桃缶を器にあけて布団の横のテーブルに並べた。キッチンからは粥の暖かい香りが漂っている。生活力の化身のようなその姿にただ圧倒されるばかりで、ひたすらに動き回る彼を目で追った。掴まされたペットボトルの水を飲むのも忘れて、獲物に釣られる猫のように。
小一時間後、唐突に伊藤先生が目の前に跪いた。疑問を投げかける間もなく、ほかほかの粥が乗ったスプーンを向けてくる。
「口、開けてください」
「……伊藤先生」
「はい」
「流石にこれは……」
「そんなこと言ってる場合じゃないです。上林先生、今握力がゴミなので大人しくされるがままになっていてください」
「だいじょぶ、です」
「ダメです。さっきペットボトルの水を全部カーペットに吸わせたのもう忘れたんですか」
やはり伊藤先生は真顔の圧が強い。ずい、と鼻先についてしまうくらいにスプーンを近付けられ、目の前でゼリーが揺れる。可愛らしい透明ゼリーと、その奥に見える彼はミスマッチかもしれなかった。
すこしも譲る気がないらしい伊藤先生の瞳を見てしまうと、この空間の中で自分だけが恥ずかしがっている事実に恥ずかしくなり、渋々口を開いた。先程ぐいぐいと近付けてきた割にはおそるおそる口の中に入ってくるスプーン。引き抜くときに唇と歯が当たったのに驚いたのか、彼の喉が小さくキュッと鳴った。爽やかなりんご味が熱い頭に沁みる。なんだか、幸福感と眠気で頭がぼうっとする。
大人しく咥えて咀嚼したのを見て安心したのか、ずっと顰められていた眉がすこしだけ緩まった。お礼を言うのも忘れて、脳みそから来た欲望をそのまま口に出してしまう。自分の聞きたいことを聞いた。
「なんで……今日来てくれたんですか」
「うーん。俺が来たかったからですかね」
「……」
明日の天気でも確認したかのようにすらりと放たれた言葉。ぼうっとする頭でも、目の前の三つ下の男が、自分に出来なかった行動を容易くやってのけたことは理解できた。彼は、彼自身の願望でここに来たのだ。年下として年上を心配するとか、同僚の様子を見てこいと言われたとか、そういう理由ではなくて。
なんだかそれがとてもいいことのように思えて、思わず笑い声が零れた。我ながら、脳みその溶けたような、はしゃぐ子供みたいな笑い声だった。
「ん……それだけの理由じゃ、まずかったですか?」
「嬉しいに決まってるじゃないですか」
「……」
「おれが来てほしいと思ってたら、来てくれたんですよ。先生が……伊藤先生が」
嬉しいに決まってるじゃないですか、とまた同じことを言った。それが本心だったのだから仕方がない。伊藤先生は、頭のネジが外れた病人の手に負えなさに呆れたのか、片手で顔を覆って溜息をつく。不思議とその様子はずっと見ていても飽きなさそうだった。
「……あの、上林先生」
「はい」
「その風邪治ったら、どこか行きましょう」
「どこか、とは?」
「向かい合って同じものを食べられるところならどこでもいいです」
食事の誘いをまたしても真顔で伝えてくる彼。その誠実さというか、馬鹿正直さというか、そういうところがひたすらに可愛らしかった。もうすでに彼は、上林誠司という男に対して同僚という目線以外のものを持ち合わせていたのだ。おれが怖がって触ろうとしなかったものを、ひょいと抱えて見せた。
「……ならまた明日、ここに来て。それでテーブル挟みましょう。お酒と煙草ならありますよ」
「なら料理は俺がします。……あと、俺は煙草吸いません」
そう言いながら再び差し出されたスプーン。今度は自ら、潔く食らいついた。
土曜日の夕方のテレビはどうしてこうもぱっとしないのだろうか。あの頃大流行した芸人さんや芸能人ははてどこに行ったのやら、と思えばこんなところで全国の奥様に羽毛布団を販売してたりするし、効果が見込めるのかそうでないのかよく分からないようなドリンクのモニターになっていたりもする。この時間帯の番組で得られるものといえば、その芸人さんたちはこれからどこに向かうのかとか、商品の売り込みは次にどこに手を出すのかとか、テレビはいつまで元気なのかとか、そんなことを思考する力のみだ。
くだらないことを考えていると、昨日みたくチャイムが鳴る。インターホンの前に立てばカメラ越しに目が合って、互いが笑った。
「本当に治ったんですか」
「はい、おかげさまで」
「なら良かった。とりあえず飯作りますね」
靴を脱ぎ、キッチンへと向かう彼。伊藤先生が提げているバッグには今夜の食材らしきものが詰め込まれているようだった。ろくに使わないゆえに綺麗すぎる台所。伊藤先生がそこに立つと、あまりの新品具合にうわ、と害虫でも見たかのような声が聞こえた。エプロンはないですよ、と声を掛けると、時が止まったかのような少しの間の後に了解ですと返事があった。
テレビを眺めながら、まな板と包丁が会話をする音や、伊藤先生が慣れないクッキングヒーターと奮闘する音を聞く。生活音独特の心地良さに眠ってしまいそうになるも、漂ってきた醤油とごま油の香りに一気に目が覚めた。いい匂いがします、と若干へらへらわくわくした声で言うと、遠慮のない笑い声が返事としてかえってくる。何度聞いても飽きなさそうな、楽しそうな声色だった。
そろそろいい香りに釣られた腹の虫が暴れだしそうだ。持っていかれそうな意識を誤魔化すため、好みの酒を尋ねようと振り向く。そのタイミングで、伊藤先生が大きな皿を持ってテーブルの前に現れた。
「日本酒にしますか、それかワイン? ビールもありますよ」
「ワインで。……はいこれ。簡単ですけど」
「う、わ」
「こっちは鶏もも肉とさつま芋と蓮根の甘酢あん炒めです。あとこれは青梗菜と人参とツナ缶のサラダ。カプレーゼはつまみに
どうぞ。口に合うかわかりませんが……」
思わずワインオープナーをコルクに埋め込む手が止まる。ドラマやグルメ漫画で見たぞこれ、と口に出しそうになった。主菜は見栄えが良くなるようにさつま芋の皮を残していて仕上げに煎りゴマが散らされているし、副菜は整頓された細切り人参の流れの上に鰹節がひらひらと踊っている。トマトとチーズが重なり合いながら行列のように並んだカプレーゼの上空には、天の川みたくバジルソースが流れていた。
昨日の世話の焼きようを見て、伊藤先生は器用な人なのだろうと思ってはいたけれども、こんなにも食欲をそそられる盛りつけを見せられては言葉を無くしてしまう。
「これ、全部美味しいです」
「え。まだ食べてないじゃないですか」
「食べなくてもわかります」
「じゃあ食べない?」
「……食べる」
あはは、とどこか嬉しそうに笑う伊藤先生。そんな顔を見て、おれもつられたように笑った。そのまま乾杯しましょう、と言おうとしたが酒が開いていないことを思い出す。ワインオープナーに手をかけて力を入れるも、コルクはなぜか頑なに引っこ抜かれてくれない。子供が重いものを持ち上げられずぷるぷる震える様というのは愛らしいけれども、三十路もいいところのおじさんがこんなところで腕を震わせながら苦戦していては笑いを呼び起こすのみだった。
「ふ、くく……上林先生、貸してください」
「すみません……」
「はは。ほんと、──」
言葉を無理やり飲み込んだかのように黙ったのに気づいて顔を上げると、目の前で伊藤先生が見たことの無い顔で笑っていた。確実にそこには、優しくて暖かくて、献身にも似た何かが滲んでいたように思えた。人知れず腹の奥がぎゅう、と軋む。
おれが呆気に取られている間にコルクを撃退した伊藤先生は、グラスにその液体を注ぐ。血液みたいな見た目をしておいて葡萄の芳醇な香りをさせるので、吸血鬼の脳を混乱させそうだ。どうぞ、と言って差し出されたグラスを持つと、お互いに自然と目が合う。そしてそのまま静かに乾杯の言葉を交わした。彼の方が下でグラスを鳴らしてくれる。気遣いは彼にとっては癖なの
だろう。こくりと喉に流し込めば、フルーティな味と香りが感覚を支配した。
それからはテレビ画面に映るあらゆる映像を見ながらくだらない会話をして、料理の美味しさに圧倒されながら酒を進めた。一人ではない食卓なんて久しぶりで、気の合う誰かと同じものを食べるのがこんなにも楽しいことだと知らなかった自分を憐れに思ったりした。伊藤先生は気分の良さそうなおれを見て、一応満足してくれた様子だった。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまう。あれから数時間後。酒も料理もたらふく摂取したあと、おれはベランダで顔を冷やしつつ煙草を咥えていた。伊藤先生はというと、食事中から少しうとうとしていた様子だったので、そのままそっとしておいている。料理を振舞ってくれたせめてもの礼にと皿洗いは済ませておいた。彼もおれも特別酒に弱いわけではないんだろうけれど、今宵はやけに酒が回ってしまった。普段よりも多く飲んだ気もするが、不思議と嫌な気分はしない。伊藤先生は飲むと眠くなるタイプか、なんてぼうっと考えながら柵に凭れて、特に見栄えがいいわけでもない夜闇を眺めた。……泊まっていくんだろうか。明日は日曜で、急ぎの仕事も特にないらしい。終電ももう見えるところまで迫ってきているというのに、目覚ましもかけずに眠ってしまっていて。誰かを家に泊めるなんてあまりに久々で、そういう時どうやって言葉をかけるべきかとか、色々忘れてしまっていた。
どうしたものかと煙草の煙を吐いたそのとき、ふと後ろの戸が開く音。
「また風邪引きますよ」
「伊藤先生、起きたんですか。歩けます?」
「ええ、問題ありません」
「……あー、煙草吸ってるのであんまり寄らない方が、」
言い終わる前に、伊藤先生はベランダに出た。いつかの春と同じように、隣で柵に肘を乗せて、頬杖をつく。ひやりとした秋の夜だというのに、一瞬、彼越しに月明かりに照らされた桜が見えた気がした。今はあの時と違って、互いを隠す窓のサッシも人の目も無い。少しの沈黙が流れてから、伊藤先生は口を開いた。
「俺が、なんで上林先生を食事に誘ったか分かりますか」
質問の答えはひとつしか思い浮かばなかった。昨日の時点では分からないと答えただろうけれど、今は違う。それは、なぜおれが誘いを喜んで受け入れたのか、の答えにも繋がるもののように思えた。しかし、彼に向かって答えを言葉にするのは遠慮した。自信が無いからとか、怖いからじゃない。彼が、おれがわざと真の答えを言っていないことを見抜いてくれるのかどうか、それを知りたかったのだ。
「……風邪を心配してくれたから」
「上林先生、」
間髪入れずに少しの怒りと切なさを顕にした伊藤先生。ある意味拗ねた子供とも取れるそれを見て、思わず安堵した顔で彼を見つめてしまった。彼にとって自分が、そういった感情を抱くまでの存在だということも、しっかり嘘だと見抜いてくれたことも、心底嬉しくて。目が合うと、おれの安心しきった表情を見た伊藤先生は困惑していた。
「嘘です、ごめん。おれは同僚じゃ満足できなくなった。……なってます。今も」
「……」
「伊藤さんは?」
静寂の中、その色素の薄い瞳は確かにおれだけに焦点を定めた。
「俺よりも仲良い人を作らないで欲しい。とか思ってます。割と真面目に」
少し赤い顔で、小さな声で返された言葉。照れたような笑顔がやけに可愛らしくて、色を孕んだ瞳がおれを捉えていて、今はこの心地いい緊張感に浸っていたいのだと本能が訴えた。
目の前の男の存在があまりにも眩くて、目を細める。徒に、彼の顔へふう、と白い煙を柔く吹きかけた。彼の表情が一瞬見えなくなって、それがやけに心臓を煽っていく。何十時間にも感じられる数秒を経て、煙をかき分けた彼が身体の距離を詰めた。
「それの意味、知ってるんですか」
「はは、すごい耳赤い。……知ってる、と言ったら?」
人の赤い耳を笑うくせして、自らの心音の速さに動揺して目を見れない。明後日のほうを見つつ、首を傾げながら問うた。彼は骨ばった手で口元を覆う。
「な……んのつもりですか、それ」
「何でしょうかね。風情、みたいなものかな」
少なくとも、彼にならどんな意味で取られてもいいと思えた。信頼しているのだ、彼はおれの風情を蔑ろにして笑う人ではないのだと。彼なりの心で、それに応えてくれるのだと。
灰皿と煙草を擦り合わせ、伊藤先生と目を合わせてから室内へ帰った。
◇
ひどい二日酔いは二日に留まらず、月曜にまで侵食していた。広い職員室の遠くから聞こえるコピー機の音ですら頭の骨に鈍く響いてくる。授業だっていつも通り執り行っているつもりが、黒板に書く字を三行に一度は間違えたりする始末だ。ため息をつくことすら躊躇われる。無論すべて一昨日の影響だが、それだけだったならまだ軽傷だった。実際は、もっと重篤な症状が重
く背中にのしかかっている。彼の、伊藤先生のことだ。背中合わせですぐ存在を感じられるというのに、互いに振り向くことができていない。あの日以来一度も、連絡も何も取っていない。
おれたちをそうさせるのは、きっととめどない罪悪感と臆病さだ。あの日の夜。頭の中で映画みたいに煌めいて、鮮烈に網膜と鼓膜と味蕾のひとつひとつに焼き付いた夜のことを、今更無かったことにしましょうとか、忘れてくださいとか、情緒のないことを言えるはずもない。かといって、相手を前にしてどういう顔をすればいいのかわからない。同僚とか友達とか、そういう名前をつけて縛り上げたくはないし、大切にしたい関係なのだけれど、どこに向かうのかは検討もつかない。
互いの内をこれ以上ないほどに晒しあい、心の距離が縮まることを喜んで、浮かれて。あれらがすべて酒のせいだと言えるほどおれは無責任ではないし、嫌な記憶じゃない。ならば今、結局自分は彼との関係を何処へ持っていこうというのか。動かないまま朽ち果てるのは御免だけれども、明確な目的や願望をもってして導いていけるほど勇敢ではない。わからない、と声をあげることもままならない。昔からどうしようもない臆病者の自分を呪った。
今彼は何をしているのだろう。もしかしたらこちらを向いていたり、するのだろうか。それとも向かいの席の新任教師と仲良く談笑しているのだろうか。……かの妖怪のように、頭の後ろに目があればいいのかもしれないな。そんなことを考えながら無言で立ち上がる。無性に白煙を肺に流し込みたい気分だった。
校内で濫りに煙草を吸うのは良しとされていない。東門を出て少ししたところに高めの植え込みがあるので、それに腰掛けて煙草を咥えた。秋の終盤となると冷え込みが厳しい。外でゆったりと吸うことが出来るのも今の気温が限界かもしれなかった。
「上林先生」
「……こんにちは、黒川さん」
火をつける前にふと話しかけてきたのは、夏の補講以来特に接点の無かった彼女だった。担当の学年でもなく、一年生に国語を教える教師も自分ではない。そのため普段はあまり関わりがなかった。やはり彼女は強かだ、と思う。皮肉ではなく、一切おれに動揺を見せないその様が人として美しいと思えた。彼女は少し怒ったような顔をして、小さな声で問うた。
「先生。私が先生に言ったこと、伊藤先生に話したんですか」
伊藤先生。その言葉の響きだけで心臓が音を立てる。自分は確かにあの時、彼に打ち明けてしまったのだった。それでも、三十年も生きていれば、自分と他人に嘘をつくのも得意になってしまっていたのだった。
「話してないよ」
掴みどころのない笑顔を携えて答えた。あの夏の日、彼に心の内を少し晒した自分。生徒との口約束より、自分の願望を優先した自分。おれの言葉に焦ってくれた彼の顔。すべてが走馬灯のように頭を駆け巡る。彼のことばかり考える自分は何のつもりなのだろうとか、あのあと彼が行動を起こして黒川さんを突き止めたのはどうしてなのか、とか沢山の感情が浮かぶ。それでも、胸の中に沸き起こった罪悪感のような後暗いそれは決して表に出さなかった。
「……」
「もうすぐ暗くなるよ。早いうちに帰りなさい」
そのときの、何かに幻滅したような彼女の顔と、振り返ったあとのいつもと何ら変わらない後ろ姿。その美しさを見ても終ぞ、おれは罪の意識よりも先に、自分の心の捧げどころは既にひとつしかなくなっているのかもしれないなんてことを考えていた。
彼女がもしも、伊藤薫という男よりもおれに近づいて来れたのなら、彼女とおれの表情も青春も、変わっていたのだろうか。そのような未来も、来世くらいには見てみたい。けれども、今世のうちはどうか、見逃してくれやしないだろうか。もうおれの心は、きっとおれと彼によって逃げ場もないほどに雁字搦めになって動けなくなってしまったのだ。
職員室に戻ると、そこは暖房でなく人の熱で酸素の薄い空間と化していた。なんとなく自分の席を見遣ると、背中合わせの彼が手元のテスト答案用紙に必死に向き合っているのが見えた。きっとこちらを見ることは今は無い。あぁ、今更気がついたけれど、あの瞳の色素が薄いのが、おれはいちばん。
無意識に遠回りをして席につくと、後ろから新任教師の溌剌な声がする。
「伊藤先生。今日飲みに行きません?」
「いいですね。……俺と佐々木先生の他にはどなたか誘われますか?」
「じゃあ、上林先生はどうですか」
あまり予想していなかった話の振られ方に、まるで銃口を向けられたかのように心臓が縮む。あの新任教師とは下の名前もよく思い出せないくらいの間柄だというのになぜ自分が呼ばれてしまったのだろうか。
背中からは視線も圧も何も感じない。それがなんとなく不安だった。臆病者の自分と残業するほどでもない先の仕事を言い訳にしようと考えついた。
「あー、おれは残業したいので遠慮します」
「お忙しい中すみません、お疲れ様です。では森先生──」
漢字の宿題プリントを眺めながら、今宵の彼のことを考えた。あの日のように、朗らかに笑いながら眠たそうに酔う様子を、皆にも見せるのだろうか。そもそも、おれが一昨日まで知らなかっただけで、今までも何度も見せているのかもしれない。一世一代の大舞台、みたいに心の内をさらけ出したおれとは違うのかもしれない。そう考えると尚更、自分からまた近付いていくのは憚られた。また誰にでも内向的な自分に戻るのも、ひとつの道なのだろう。
それでも無情なことに、看病してもらった記憶も、美しい料理に感動した記憶も、破顔して笑った彼の顔も、自分が夜に放った熱っぽい言葉も、おれたちの頭からは消えてくれない。おれは三十路にもなって、諦めることと諦めないことの難しさを知った。
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