第二話 夏

 教室に冷房を導入しようと発案した人は偉大だ。熱中症による死者が減るばかりか、暑さで集中できないという生徒の不満も解決し、さらには教師の発汗の管理にも貢献してみせた。しかし、我が校においてはその恩恵が働くのは授業がある時間のみで、放課になると、事務に許可を取らない限りは何度ボタンを押しても反応してくれない仕様だ。灼熱の空気を味わわなければならないのである。

 それは夏休み中であっても、もちろん例外ではない。我が校で夏期休業中の補講として導入されているのは英数国の三教科であり、一応自分は国語の教鞭を執っている身分であるものだから、例に漏れず駆り出されているのだった。

「先生は好きな食べ物とか、ありますか」

「うーん……なんだろう」

 冷房が十分前に止められた教室。窓の外から吹奏楽部の基礎練習が聞こえてくる中、トロンボーンの音階が下がるのに合わせてサマーニットの下では気持ちの悪い汗が流れ落ちていた。それは暑さから来るものかもしれないが、全てがそれの所以ではない。自分の担任でもない生徒と二人きり、教室から解放されない教師、という立場への焦りから来る冷や汗である。補講というのは大抵午前中で終わる。しかしここ最近のおれは昼時になっても職員室に返して貰えないことが多かった。何ヶ月か前の入学式で助け舟を出した黒川という一年の女子生徒は、教卓に前ならえをするように腕を乗せ、大きな瞳いっぱいにおれを映している。

「私はパフェが好きなんですよー」

「パフェ。うん、おいしいよね」

「先生も好き?」

「え? あぁ、まあ……人並みには好きなんじゃないかな」

「ふふ。実は、最近流行ってるお店が近くにあって……」

 スマホの画面を見せながら無邪気な笑顔をたたえる彼女。それは今自分だけに向けられても良いものなのだろうか。この問答は、いったい君にとって楽しく、有意義な時間となっているのだろうか。そう考えるとどうにも嫌な汗が止まらない。そして、泡のように浮かんでは意図的に消そうと努めている勘違いらしきものが、そろそろ手に負えないほどの速度で浮上してきていた。

「……素敵なお店だね」

「私まだ行ったことなくて。……あの、上林先生。よければ、今度、一緒に」

 勘違いは頭の中で沸騰し、そして蒸発した。確信へと一変したそれは、サウナの後の水風呂のように脳みそをただ冷やしていくだけだった。期待と情に満ちたその視線と、緊張の中無理に作った笑顔。眩しい青い春の光。なんて幼気で、尊い感情と行動だろうか。それを自分が受け取ることなど、目の前の生徒が頷いても、この世のあらゆるものがきっと許しはしない。数十年ぶりの同窓会の誘いを拒むようにして、柔い笑顔に戸惑いを滲ませてみせる。

「……ごめんね、先生はどうにも忙しんです」

「……」

 あぁ、これが大人というものの残忍さなのだ。彼女はそういう顔をしていた。しかしそれでも、彼女は笑顔を崩さなかった。その強かさを教師に見せたことは、やはり、この場限りの秘密として抹消しなければならないのだろう。

「このことは誰にも言わないから、今日はもう帰りなさい」

 彼女はそう言われて初めて目を逸らした。自分もそのあと目を逸らすと、吹奏楽部の合奏がやけに大きく聞こえてくる。こんなときだというのに、吹奏楽部の顧問の伊藤先生もそこにいるのだろうか、なんてぼんやり考えた自分を呪いたかった。


 諸々の作業を終わらせると、陽が地平線に隠れ出していた。退勤後だというのに、どうにも退勤した感覚がない。どうやら、昼間に起こったことをいつまでも頭の中で気にしているらしかった。自分の中では、いつだって生徒にとっての最適解を考えているつもりではある。それでも、それが正しいなんて根拠も確証もどこにもない。ならば自分はどうあるべきなのか。もう何年も教師をやっているくせして、一向にわからないままだった。

「……先生。上林先生」

「! はい、」

「アイス溶けますよ」

 唐突に耳元で低い声がしたものだから、驚いて手元の氷菓を落っことしてしまうところだった。コーンの上に溶けだしたバニラを舌で掬う。

 数十分前。いそいそと職員室から出ていこうとしたとき、背中越しに伊藤先生と目が合った気がした。おれのいつにも増して辛気臭い顔を見て、途中のコンビニ寄って一緒に帰りますかと提案してくれたのだった。偶々今日は原付ではなく電車での通勤だった、という理由だけで気をつかってくれた上に、あれよあれよという間にアイスまで奢らせてしまった。申し訳ない気持ちで満ちてしまう。

 コンビニの前の太い鉄棒に腰掛けると、不意に彼はこちらの顔色を伺うような声を出した。

「……教師やってると、悩むこともありますよ」

「……」

「年下の俺が言うことじゃないかもしれませんけど」

 思いがけない言葉に横を向けば、彼がこちらをじっと見ていた。しかし見つめ返そうとするも彼は直ぐに正面を向いてしまう。こちらばかり見ているのもなんとなく恥ずかしくて、同じように正面を向いた。

 伊藤先生はいつ何時も気遣いが上手くて、今も言葉で背中をさすってくれる優しい人だ。気を抜けば、全てを吐露してしまいそうなほどに。

 すこしの静寂と息苦しさがおれたちを支配している。この静寂は彼にとって何を待つ時間なのだろうか。次の電車の時間なのか、おれが辛気臭い顔をしている理由なのか。もし、後者ならば。そう考え始めると、彼の優しい言葉にも、くれた目線にも、今目が合っていないことのもどかしさにも、なんだか耐えられそうになかった。

 今、自分はきっと彼に対する人見知りをしまい込もうとしている。人見知りが無くなった自分の面倒くささはわかっているつもりだけれど、彼にはそのような自分もすこしだけ見せたいと思ってしまった。アイスを持つ手にすこし力が入る。

「……あの」

「はい」

「誰にも言わないで欲しいんです、けど」

「……はい。勿論」

 ふと、少しの張り詰めた空気。目が合う。彼は表情ひとつ変えていなかった。彼の中では、何かを打ち明けられる準備が既に整っていたのだ。それがわかった途端、心を縛っていた紐がするすると解けていく気がした。

「今日、……補講に来ていた女子生徒に、帰りがけに少しだけ。そういうふうに言われてしまいました」

「……」

「でも、上手く返せなくて。……私のせいで傷ついてしまったのかもしれません」

「先生、」

 少し食い気味に口を開いた伊藤先生。身体の距離を縮めて、今度ははっきりとおれを見つめていた。その行動は彼の得意な気遣いではなく、もっと深いところから来るものに思えた。本能とか衝動とか、それに近いような。他人のためではなく自分のために動いていたのではないかと、そう思えた。

 しかし伊藤先生は自分でも前のめりになった理由が分からなかったのか、はっとした表情をしてから口を噤む。自分を責めた教師の精神的な末路を考えて焦ってくれたのかもしれない。そんな真っ直ぐな彼の様子を見て何となく、自分が昼間にこの人を思い浮かべた理由が知れた気がした。

「……大丈夫ですよ、ありがとうございます。伊藤先生」

「い、いえ」

 取り乱している自分に納得ができていないながらも、このことは誰にも言いませんので、と意気込んだように伝えてくる様子がとても好ましく思えた。お礼を述べながらアイスを齧ると、先程よりもバニラの香りが芳醇に漂った。



 夏休みが明けても、未だ熱気はすさまじく校舎を支配していた。そのようなうざったい熱気は過ぎたことのように扱いつつ、体育大会や文化祭の準備がはじまっている。そしてそんな中、全学年に共通して実施しなければならないのが、教師と生徒の二者面談であった。

 放課後の教室を面談仕様に改造し、生徒を待ち受ける。手元の資料は成績や進路希望の紙で埋められており、なにかの面接官にでもなったかのようだ。一年生のうちから進路を決めろというのは無理な話かもしれないが、それなりに考えて来るように言っておいたため、皆何とか絞り出した興味や関心を話してくれているようだった。次に面談する予定の女子生徒の書類を見た。成績も進路希望も抜かりなく、トップというわけではないが良い状態を保ち続けている。

 一見して特に注意することもないかと思われたが、俺は夏休み中の上林先生と彼女との出来事を忘れてはいなかった。無論、上林先生からの話では名前は伏せられていたが、一年生だというから何となく気になって彼の補講の時間割と履修者を覗いたところ、女子は俺の受け持ちである彼女──黒川のみだったのだ。年の離れた教師にそういった話を持ちかけるのが、悪い事だとは一概にいえない。心の揺れやその原因に寄り添いつつ、精神的に力になるのが教師の務めであろう。

 不意に響いたノックの音に返事をすると、直ぐにドアは開いた。

「失礼します」

「どうぞ、座って」

「はーい」

 元気に返事をした彼女が席に着くと、早速面談が始まる。

「今日はよろしくな」

「お願いします」

 成績や進路希望について尋ねる前に、件のことについてそれとなく聞いておかなければならない。互いの呼吸が一旦落ち着いてから、なるべくなんでもないように問うた。

「黒川……最近、何かあったのか?」

 言うと、彼女が怪訝そうな顔をするのでぎょっとする。女子生徒の扱いには大分慣れたつもりではあるが、やはりこういう顔をされると肝が冷える。思わず何かしらの弁解をしてしまいそうになるが、こういうときには余計にちょっかいを入れずとも、生徒が自発的に話してくれるものだ。

「なんで、そんなこと聞くんですか」

「あーいや、何となくだよ。夏休み中はあんまり話す機会もなかっただろ」

 怒らせたわけではなかったのだと安心すると共に、ふと、自分の中に疑問が湧いた。何故わざわざ、あのような聞き方をしてしまったのか。これでは、きみに何かがあったと知っている、と伝えているようなものではないのか。そんなふうに言い方を間違えてしまうほどに、自分は理性を失っていたのだろうか。ならばそうして理性を失っていたのは何故か。そんなにも知りたがったのは何故か。……それはただひとえに、生徒のことを心配するゆえのことであって。そう考える頭の裏で、鼓動はいつもより速く脈打っていた。

「先生。おーい、先生ー」

「! 悪い。ぼーっとしてた」

「先生、なんか今日変だよ」

「あ、はは。疲れてるのかもな」

 それを自分に言い聞かせるかのようにして、その後も面談を続けた。彼女の目を見る度に、眼鏡をかけた彼の控えめな笑顔が脳裏にちらつく。それがやけに気にかかった。

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