伊藤先生と上林先生

椎茸

第一話 春

 始まりの季節といえば、薄紅のちいさな花弁が風の穏やかさを知らせてくれる景色だったり、死体の埋まっていると言われる場所に集う人々の様子だったり、そういうものが描かれることが多い。しかしながら今年はひどく寒い冬であったので、未だに開いた蕾は多くなかった。

 そんな中でも、学校という場において新しい年度というのは淡々と進行する。自分の勤める公立高校でもそれは変わらない。

 鮮やかな色の桃の木のみが道に植わっている東門では、まだ花弁で埋まっていないアスファルトの何ともいえない寂しさは少し薄いように感じた。東門の担当を引き受けて良かったかもしれない。

 新入生の担任以外の教員で、門の前に立ったり入学式の会場の設営をしたりするのは、うちでは毎年のことだ。そうはいっても、昨年度、自分は一年生の担当であったためかこのような取り組みには何だか慣れない。一年間絆を育んだ生徒と共に二年生の担任となった代償なのかもしれない。

 次々と歩いてくる生徒に、笑顔にはなりきっていないような柔い顔でおはようございます、と呼びかける。会釈のみであったり、若干かたい声で言葉を反芻してくれたりと返事は様々だ。その緊張も、明日にはどうなっているかわからないのだと思うと、その変化が何となく愛おしい。生徒は初めてその道を通学路として歩む歩幅が、すこし大きくなったりするのだろう。皆が一様に慣れないなぁという顔つきをして校門をくぐるその風景を、登校時間の間、ただぼうっと眺めた。

「あの、」

 殆どすべての新入生を教室に埋め込み、下駄箱の清掃を始めようとしたそのとき、不意に後ろから弱々しい声が掛かる。なにか嫌な予感がしつつも、振り向けばそこには心の中に冷や汗を浮かべた一人の女子生徒が居た。いかにも新品そうなブレザーが不安そうに衣擦れの音を立てる。

「入学式って……十時十五分からですよね?」

「……あー、ええと。残念、九時五十分からです」

「……」

 気まずそうに唇を丸め込んだ生徒。入学早々混乱させてはいけない、と生徒に駆け寄って、またしても笑顔になりきれていないような顔で問うた。

「君、自分が何組かわかりますか」

「えっと……三組です」

「三組……あぁ、たしか伊藤先生のクラスだったかな。ちょっとギリギリですけど、とりあえず行きましょう。着いてきてください」

「は、はい」

 二人で一年生の教室が多く配置されている棟に急いだが、既にどの教室も施錠され、人がひとりも居ないらしかった。現在時刻は九時四十五分。恐らく、入学式のための体育館への移動が完了しているのだろう。

「一足遅かったみたいです。直接体育館に行きましょうか」

「はい……」

 生徒の申し訳なさそうな顔を見て、あぁしまった、と思った。決して怒っているわけではないのだけれど、どうにも自分の表情や声色には愛想というものが無いらしい。

「その……すみません、怒っているわけではありませんからね」

 ぎこちないであろう笑顔で言うと、生徒は豆鉄砲を食らい損ねた鳩のような顔をする。今は謝るタイミングではなかったのだろうか。教師を何年勤めても生徒とのコミュニケーションは難しい。

「え。あ、はい。……大丈夫です」

「良かった。じゃあ急ぎましょう」

 教頭が祝辞を読み上げる厳かな空気の中、体育館の脇の入口からひょっこりと顔を出し、一年三組の場所を確認する。入口の手前側から数の少ない順に並んでいるようだ。生徒にそれとなく静かに後ろの列に並ぶよう指示すると、軽く会釈をして言う。

「ありがとうございました。……あの、先生はどのクラスの担任なんですか」

「? 二年一組です……」

「ふうん。また会いに行きますね」

「え?」

 お気に入りの玩具をみつけた幼子のような顔を見せて、その生徒はそそくさと新入生の列の中に紛れていった。文字通り気に入られたと見えて、少し呆気に取られる。入学して少ししたら、あの子を含む何人かのグループでおれという教師の視察に来るのかもしれない。生徒というものは、先生とのこういうちょっとした縁をなぜかずうっと大切にしてくれることが多い。そうして彼らにとっての貴重な三年間が終わる間際、わざわざお礼を述べに来てくれるのだ。

 しかし、そうは言っても自分は愛想が悪い方であるので、ああいう風に絡んでくる生徒は稀だ。それこそ、彼女の担任である伊藤先生に比べれば雀の涙であろう。

 伊藤先生は自分より三つも年下でありながら、学年やクラス内外問わず人気のある先生だ。まともに話したことはなく、好きな食べものや通勤手段すら知らないけれど、何となくその立ち振る舞いと良い噂は耳にしていた。

 生徒が遅れてきたことは担任の教師に報告するべきだろう、と思い件の伊藤先生のもとへ静かに歩く。正直に言えばすこしだけ近づきにくいイメージがあった。都会から来た数学教師と聞くだけでも身構えてしまう。

 遠い距離ながらもお互い目が合ったのが分かって、軽く会釈をする。特筆して美しいというわけではないけれども一般的には年下の女性から人気のありそうな顔立ち。淡い青のシャツと紺のネクタイが良く似合う人だ。話しかけようという意志を持って寄ってきたのを察したのか、伊藤先生は近くの入口を指先で示し、外での会話を提案した。その一連の動作は終始真顔であったけれども、その気遣いから、関わりにくい人ではないのかもしれない、と感じた。

「どうされました、上林先生」

「先程、遅れてきた生徒が伊藤先生のクラスの子でしたので、……報告をと思いまして」

「ああ。黒川さんですよね。送ってくださってどうもありがとうございました。心配してたんですよ」

「……それなら、良かったです」

 お互いの生温い顔と、数秒の沈黙。教頭が降壇する足音がやけに耳に響く。得意の人見知りと内に閉じた性格を発揮し、それじゃあ、とその場を立ち去ろうとしたとき、不意に話しかけられて心臓が跳ねる。

「上林先生」

「っ、はい」

「黒川さんと親しげでしたよね。気に入られちゃったんですか」

「み、てたんですか。……うーん、どうでしょう。面白がってるだけじゃないですか」

「そうですか? 俺はそうには見えませんでしたよ、何となくですが」

 控えめに、かつ穏やかに笑う伊藤先生。低めの声色と都会人っぽい雰囲気のせいか普段は冷たい印象になりがちだが、この笑顔を見ればその手のひらを返す人も多いだろう。生徒からの人気があるのも、この笑顔の輝きのためなのだろうか。

「でも、すぐ伊藤先生の方を気に入ると思いますよ」

「……それならそれで教師冥利に尽きますね」

「、ふ」

 真顔で明るいことを言うものだから思わず笑みが零れる。よくよく思えば今日はじめて、愛想ではない笑いが出たかもしれなかった。振り向くと、瞬きをしながらじっとこちらを見る伊藤先生の姿。今度は豆鉄砲をきっちり食らった顔である。

「……」

「……あぁ、すみません、笑っちゃって。そろそろ戻りましょうか」

「い、えその。上林先生が笑ってるの、初めて見ましたので」

「おれも久しぶりに笑った気がします」

「それなら……良かったです」

 体育館にゆっくりと戻りながらも、横顔に伊藤先生からの視線を何回か感じていた。その視線が何色なのか分からなくて、終ぞ入学式が終わるまで何も言えず、そのことを引きずるほどの過剰な自意識も持ち合わせていなかった。

 入学式の日はとくにこれといってがっつりした授業もなく、上級生も新入生と同じ時間に放課となった。が、無論教師にはそのような慈悲はない。簡単に家路につけるようなことはなく、新しく始まる学年の授業の準備と、すこし陽気な雰囲気の会議で午後は潰れた。

 八割の教師が退勤していく職員室で、北門の様子が望める窓から顔を出す。色とりどりのお疲れ様です、のキャッチボールを遠くに聞きながら、片腕で頬杖をついて景色を眺めた。東門にはなかった桜の大木が道に植えられていて、少しずつ開花している様子だった。桜も人間と同じで、遅く咲けば文句を言わない人ばかりでは無い。価値がないと不満を言う人、関心がない人とさまざまだ。自分は、遅咲きでも美しさは変わらないのだから、いつの時期にも咲いていてほしいと願うものだが。

「遅咲きですよね、今年は」

「……伊藤先生」

 唐突に声が近くに聞こえたかと思えば、その男はひとつ隣の窓から同じように顔を出した。少しの間沈黙が続く。なんとなく手持ち無沙汰になって、ポケットから煙草を探ろうとする癖が出たが、此処は校内だと思い直して咄嗟に引っ込めた。隣の彼とは会議では特に接点がないため、会話をするのは先程の入学式ぶりだ。不思議と久しく感じる。人見知りの人間にとって、互いの顔が見えない距離感は心地良かった。

「遅咲きはお嫌いですか」

「いいと思いますよ。上級生も桜を見て気持ちを新しくできるかもしれませんし」

「あぁ、確かに」

「上林先生は」

「おれは……遅くても早くても、好きです」

「国語の先生っぽいですね」

「それを言うなら、先生こそ」

 窓のサッシで互いの顔が覆われていても、相手が笑顔になっていることは何となく理解できた。心地よい風が吹いて、遠くの方で淡い紅の花弁が数枚、宙に舞うのが見えた。

「そういえば、職員室の新しい配置。背中合わせですね」

「え。そうなんですか」

「知らなかったんですか……? まあ、俺でよければ、話し相手になりますので」

「……そのときは、よろしくお願いします」

 優しい声色。この、氷砂糖みたいな優しい人と邂逅するべきは本当に自分だったのだろうか、なんてことを考えながら、目を閉じて風を香った。


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