泥中のアリス
柴まめじろ
第1話
ワンダーランドに、冬が来た。
ぼくとアリスは、いつものように海の見える小高い丘に腰かけていた。お互い何を話すわけでもなく、ただ過ぎていく時間を、ぼくはたまらなく綺麗に思った。
「あ、グリフォンが牡蠣食べてる」
つまらなさそうに海を眺めていたアリスが、さらにつまらなさそうに呟いた。冬の冷たい海風が彼女のカラスの羽のような黒髪を優しく撫で上げる。
彼女はそれを鬱陶しそうに押さえつけ、元々深かった眉間の皺をさらに寄せて、ぼそりと毒を吐いた。
「牡蠣喉に詰まらせて死ぬんじゃないかしら、あいつ」
「死にはしないさ」
ぼくは視線を合わさずに答える。
「どうしてそんなことが言えるの?」
「簡単さ。グリフォンは今まで牡蠣を喉に詰まらせて死んだことはない」
「そんなの、今までは偶然だったかもしれないじゃない。今この瞬間に、彼は喉を詰まらせるかもしれないわ」
「そんなことはない。現に今、やつは牡蠣を喉に詰まらせてはいない」
「そんなのは根拠にならないわ。大体ね、死ぬっていうのは」
ビュウっと風が大きな音を立てて、ぼくたちを突き刺した。
彼女は赤いハート柄のガウンを掴んで自分の身体を守るように引っ張った。「さむっ」という小さな声が冬の海にかき消された。
アリスはぼくのほうを向いて、目を細めて、口を開きかけたが、次の瞬間には目を伏せて、観念したかのようにため息をついた。
「どうだい。ぼくの言う通りだっただろ? グリフォンは今も元気に牡蠣を食べているじゃないか」
「……そうね、あなたの言うとおりね」
まるで聞き分けの無い子どもをあやすような言い草にぼくはむっとした。
「あなた怒ってるでしょ」
「どうしてそう思うんだ」
「鼻がひくついてるもの。ぴくぴくって」
ひくついてるのはアリスの方だ。怒ってるのはきみのほうじゃないか。今だって、顔を下に向けて、指で地面をなぞっている。
まあぼくはアリスよりも大人だから、話を変えてやることもしてやらないわけでもない。
「だいたいね、私がグリフォンの話をしたのは、きっかけにすぎないのよ」
「……ぼくがせっかく話を変えてやろうとしていたのに」
アリスはまたもや機嫌悪そうにぼくをにらみつける。首を短剣で突き刺されたような思いがした。アリスの眼は、怖い。ハートの女王がぼくたちに命令をする時の、あの目も怖いけれど、アリスのそれはもっと怖い。
アリスの瞳には、魚が住んでいる。
以前、女王の散歩の護衛に行った時、彼女のドレスに水をかけてしまった魚を殺したことがあった。包丁が無かったから、手で絞め殺した。素手で触る川魚は、ぬめぬめとしていて、滑って握りつぶすのに手間取った。
背後では、女王が「早くしろ!」とカンカンになって叫んでいる。このままでは自分が絞め殺されると思ったぼくは、目を瞑って両手に力を込めた。
「グえっ」という声が聞こえた気がした。魚は喋らないはずなのに。デイジーもパンジーもいつもキーキーと怒鳴り散らしているけれど、魚は喋らない。
恐る恐る目を開くと、そこには虹色の筋がきらきらと輝く、死んだ魚が、ぼくの手の中で横たわっていた。口からは細長い白い糸が飛び出ていた。
だけど、死んだのに、魚は目を閉じていなかった。黒い絵の具で塗りつぶした紙にひとつだけ、針で小さく穴をあけたような瞳だった。
その小さな穴が、ぼくはたまらなく怖かった。「よくもやってくれたな」と死んだ魚はぼくをにらみつける。
「グえっ」という声は、ぼくから出た音だった。
アリスの瞳は、魚に似ている。いや、アリスは生きているのに、魚の眼をしているのだから、アリスの瞳には、魚が住んでいるのだ。
「あなた、今失礼なこと考えてるでしょ」
アリスがこちらをじっと見つめている。彼女の瞳には、もうあの小さな穴はなく、魚はいなかった。
「……そのガウンは女王のものだろう? 盗んできたのかい」
ぼくは質問に答えることはせずに、彼女の羽織っている赤いガウンを指さす。
「まさか! そんなことしたら、今頃首と胴体が離れ離れよ。寒いだろうからって、彼女が貸してくれたのよ」
「あの女王がかい? 信じられないな」
「私も信じられないわ。どうせ返すとき『盗んだな!』って、また裁判にかけられるんでしょうけど」
ぼくにはガウンどころかペン一本も貸してくれないのに。
アリスは、ガウンのボタンを手でくるくると回している。ボタンが取れたら自分の首もとれるのに。
「そろそろ帰らない? お茶会の時間なの」
「いつもより早いじゃないか」
「だって、今日はあなた少しも喋らないんだもの」
「喋っていたじゃないか」
アリスは立ち上がった。それにつられてぼくも腰を上げる。
「返しといてくれない?」と彼女は着ていたガウンをぼくに手渡した。ガウンはさっきまで彼女の体温に直接触れていたため、ほんのりと温かい。彼女の生きている証拠を、ぼくは今手渡されたのだ。
「喋ったって、グリフォンのことだけでしょ。それに、私はグリフォンの事を話したかったわけじゃないの。あれはあなたと会話を始めるきっかけなの」
「おわかり?」と彼女は挑発的に首を右に曲げた。まだグリフォンの話を引きずっているようだ。
何も言えないぼくを見て満足そうに鼻を鳴らした彼女は「じゃあね」と手を振って丘を下っていった。
しかし、何かを思い出したかのようにピタリと立ち止まって、振り返った。裁判の時のように、大きな声で叫んだ。
「だいたいね」
死ぬって、突然なの。
ぼくはガウンを、必死に抱きしめた。
城には誰もいなかった。廊下にも、大広間にも人っ子一人いない。
懐かしい気持ちがした。けれど同時に、不安が襲うような、自分一人だけが未知の世界に置いてけぼりになったような感覚がして、心臓がドクンと波打った。ぼくに心臓はないけれど。
こんな場所のこと、なんていうんだっけ。アリスが前に話していた気がする。り……リミ……何とかスペースだっけ。思ったよりぼくは人の話を聞いてないな。
きょろきょろと辺りを見渡しながら、そっと玉座にガウンを置いた。女王に見つかったら盗んでなくても首をはねられてしまう。
玉座から大広間を見渡す。ぼくなんかが玉座にいるのを誰かに見られたら大変だ。幸い、今は誰もいない。きっと、女王が城中の兵士を連れてクロッケーに行っているに違いない。朝、一緒に薔薇を塗っていたダイヤの6がぼやいていたのを思い出した。
「下手なんだからやめればいいのに」
彼はぼくが女王に告げ口することは考えないのだろうか。ばれたら、首がとんでしまうのに。殺されたら、すごく痛そうなのに。ぼくは首を刎ねられたことがないので、所詮他人事だけれど、それでも痛そうなのは見ていられない。
城には、相変わらず誰もいない。誰かに見つかる前にさっさと玉座から下りればいいのに、できなかった。
誰もいない空間は寒い。冬だから寒いのは当たり前だが、その冬から抜け出せないような感覚に陥る。今みんなはどこかでクロッケーをしていて、誰もが春に向かって歩いているのに、ぼくだけが冬から動けないのだ。未知の世界は、常に冬のように寒い。
アリスもこうだったのかな。
ぼくがアリスと初めて話したのは、今年の夏だった。
ぼくが塗ろうとした薔薇の木の下に、蹲って泣いていた。
「帰れなくなったの」と。
ぼくは何も言えなくて、結局彼女の隣に座ったのを覚えている。
彼女は少し驚いた顔をして、蚊の鳴くような声で「聞いてくれるの?」と問いかけた。
ぼくが黙ってうなずくと、彼女は堰を切ったように話し出した。
「何回眠っても、夢が覚めないの。裁判にかけられたとき、『トランプのくせに!』って言ったのに、もとに戻れないの。その時は女王も他の兵士もバラバラのトランプになったくせに、目が覚めたら、何にもなかったみたいにまたいるの。原作では元の世界に戻れたはずなのに!」
そういうと、アリスは小さく嗚咽を漏らしながら、また泣いてしまった。
当たり前だ。この世界は夢ではないのだから。それに原作ってなんだ。ワンダーランドはワンダーランドでしかないだろう。
「トランプのくせに」という言葉もおかしい。確かにぼくたちはカードだけど、それがなんだっていうんだ。アリスは、当たり前のことを言っただけじゃないか。
思いついた反論を、ぼくは彼女にぶつけようとした。口を開いて息を吸う。
「それは、大変だったな」
アリスはきょとんとした顔でこちらをみた。彼女の瞳の中で、ぼくも同じような間抜けな顔をしていた。
なぜだろう。普段ならスルスルと出てくる言葉が、この時は出てこなかった。絞り出したのが、何の面白みもない「たいへんだったな」の八文字だけだった。
ぼくは、怖かったのだろうか。泣いている彼女に、ぼくの言葉をぶつけることが。理由は全く分からない。当たり前のことを話して、彼女の勘違いを正してやろうと思ったのに、それを他ならぬぼくの体が、拒否したのだ。
「あなた、話通じるのね」
涙でしわくちゃの紙のようになった顔が、にっこりと笑った。
足が動くようになった。ぼくは急いで玉座から降りる。廊下を走って、急いで庭に出る。
わいわいと騒がしい一団を見つけて、そこに何事もなかったかのように最後尾に並ぶ。ダイヤの6がいない。きっと首を刎ねられたのだろう。明日にはまたいるから心配はいらない。
「きみ、どこに行っていたんだい」
隣にいたクラブの7が、にやにやと下卑た笑いを浮かべて話しかけてきた。
「知ってるだろ。アリスのところだよ」
「ああ、そうか。そうだよな。いつも薔薇を塗り終わったら、一目散に彼女のもとに向かうもんな」
「別に帽子屋のところに行っている訳じゃない」
「帽子屋のところじゃない。あんなところに行くなんて馬鹿のすることだ」
「アリスは馬鹿じゃない!」
前にいた数人が振り向く。いけない、真面目に行進しないと首を刎ねられてしまう。
「悪かったよ。あの子と会うのはあの丘だもんな」
「待った。何で知ってるんだよ」
「お前の後を一度つけたんだよ。ダイヤの6に誘われてな」
あいつはあれだ。えっと……で、デ、デリカシーがない。アリスが言っていたデリカシーが無いやつというのはあいつのことを言うんだな。
「薔薇を塗り終わったあとのお前の楽しそうな顔! 傑作だったな」
「お前やダイヤの6のようなやつをデリカシーの無いやつというんだぞ」
クラブの7のやつ、目玉が零れ落ちそうな顔をしている。ぼくが投げつけた言葉の意味が分かっていないようだ。目を見開いた後は唸り声をあげてぼくの言葉を咀嚼している。とうとう、彼は根をあげたのか、降参のポーズをした。
「なんだ、それ」
「えっとな、デリカシーっていうのはな、つまり」
つまり、えっと。
「お前みたいなやつのことだ」
「俺は、ほんとは『デリカシー』ってやつなのか?」
「そうだ。つまり、そういうことだ」
「そうか、俺はクラブの7じゃなかったんだな……」
彼は少し傷ついたような、どこか納得したような複雑な表情を浮かべていた。
「じゃあ、俺はなんでトランプ兵なんてやっているんだ?」
「それはお前がクラブの7だからだろう」
「違う、俺は『デリカシー』だ。クラブの7なんかじゃない」
「お前はクラブの7であり、『デリカシー』でもあるんだ」
「そんなことになったら、俺が二人いることになるじゃないか」
あれ? それもそうかも知れない。アリスはぼくに間違った言葉を教えたのか。
それは絶対に違う。
なぜか確信できた。アリスがぼくにそんな意地悪をするはずがない。
行進が止まった。あたりは太陽がオレンジ色になって、庭を真っ赤に染め上げている。今頃太陽は海の中に入って、眠ろうとしているのだろう。
太陽が海の布団に入って、その代わりに月が昇れば、ぼくたちの今日も終わりだ。今日もいい夢が見られるといいな。
「まあ、きみがアリスのことを気に入っていることはわかった」
「違う、アリスがぼくのことを気に入っているんだ」
「わかったよ、俺が『デリカシー』だったこともわかったから。明日、お礼を言っておいてくれ」
クラブの7は困ったような笑顔を浮かべて、ぼくの肩を叩くと仲間に呼ばれて走り去ってしまった。ぼくも慌てて寮に向かう。まだ仕事があるのは、陛下の夕飯を作るコックと、近衛兵くらいだ。一兵卒のぼくには関係ない。
寮に着くと、もう夜の帳がおちていた。夜は、上から真っ黒なマントを下したようだ。もしかしたら、この世界は一つの劇場で、場面が夜になると上から誰かがマントを下しているのではないだろうか。
城の近くにある大きな館がぼくたちの寮になっている。近衛兵以外はみんなこの時間にここに帰る。ぼくの周りも仕事を終えた兵士たちがけらけらと笑いながら寮に入っていく。城の周りに生えている花たちも騒がしいが、トランプ兵もがやがやとうっとうしい。
「女王め、僕よりも下手なくせに、女王だから優勝になったんだぞ。ずるいよな」
「俺なんて、勝たせないと女王が怒るから手を抜いたのに、『手加減するな』って言われたんだ」
多くの兵士たちが今日のクロッケーの愚痴を言いながらぼくの横を通り過ぎていく。みんな一様に会話の最後には「王様がいてよかったよ」と締めくくっている。
女王を怒らせればそれだけで首を刎ねられる。それがわざとでもわざとでなくても、同じことだ。女王を怒らせた瞬間、そいつはすぐさま断頭台に連れていかれる。断頭台が近くにないときは、そいつの首に斧が振り落とされる。斧の時は、なかなか切り落とせなくて、最後には痛みに気を失ったのか白目になった頭が転がっている。
しかし、王様がいるときは別だ。王様は、処刑を嫌う。以前、庭に僕と同じスペードの兵士の首が転がっていた時、王様は聞いたことのない叫び声をあげた。
近くにいたぼくに「すぐに片づけておけ!」と涙目で命令すると、怒鳴り声をあげながら自分の妻を探していた。
王様は、アリスが言っていた「死ぬこと」をとても怖がっているように見えた。ぼくだって死ぬのは怖い。痛そうだから。しかし、王様の恐れは、ぼくのものとは違う。転がった首をみたとき、彼はぶわっと玉のような汗をかき、かけていた眼鏡をすぐに外して、首から目を背けた。肩をぶるぶると震わせ、ぜえぜえと必死に空気を吸い込んでいた。普段、ぼくたちは自動的に、当たり前のように呼吸をしているが、その時の王様はまるで自分の身を守るために息を吸っているように見えた。
だから、王様がいるときは、誰も首を刎ねられない。王様が女王に口添えして、首を刎ねさせないようにするのだ。昔は、そんなことなかったようだけれど。罪人の処刑の時も、いるのは女王だけで王様は見たことがない。
自分の部屋へ向かう道すがら、ぼくは考える。そんなに処刑が怖いものなのか。処刑が終わっても、次の日にはまたなんでもない顔しているじゃないか。一昨日、首を刎ねられていた白うさぎも、今日はまた遅刻だと騒いでいたじゃないか。毎日何に遅刻しているんだろう。
部屋についた。ドアノブに声をかける。
「ただいま。開けてくれないか」
ドアノブの鼻提灯を割って、鼻をがちゃがちゃと動かす。
ドアノブは面倒くさそうに大あくびをすると「おかえり」と小さく呟いて、鍵を開けてくれた。
ぼくの部屋は、ドアを開けるとすぐにベッドがある。一兵卒のぼくには、近衛兵のような豪華な部屋はもらえないので、狭い一部屋だけだ。なんていうんだっけ、そう、「ワンルーム」だ。
ごろん、とベッドに雪崩れ込む。結局、王様はどうして処刑が嫌いなんだろう。女王はむしろ楽しそうにやるし、自分がそうなるわけじゃないのに。どれだけ考えても、「痛そうだから」という理由しか思いつかなかった。
眠くなってきた。瞼が重い。
「アリスに聞いてみよう」
天井に向かって、そう呟く。
それが最善の策な気がした。結局、「デリカシー」の意味もあんまりわかってなかったし。
耳栓を痛いくらいに突っ込んで、ぼくは目を閉じた。
朝日が眼を突き刺す。ぼくは小さく舌打ちをして、ベッドからのそのそと這い上がる。
いい夢は見られなかった。そもそも内容を覚えていない。
朝日が昇って、女王が庭に出るまでには、城中の薔薇を赤く塗っておかなくてはならない。急いで部屋を飛び出そうとしたが、ぼくは一瞬、玄関前で立ち止まって、ペンとノートを持った。ポケットがあればいいけれど、ぼくは服を着ることができないので、薔薇を塗るたびに、地面に置いておくしかない。
庭に出て、ハートのエースから赤いペンキの入ったバケツを受け取る。ぼくはさっそく白い薔薇の木へと走った。今は冬なので、白い薔薇しか咲かない。そのため、女王が起きてくるまでにすべて塗り終えておくのは至難の業だ。冬は女王も布団からなかなか出てこないから、焦る必要はないが、ぼくはみんなよりどんくさいので、毎日ぎりぎりの時間まで塗っている。
目の前の白い薔薇を一心不乱に赤く染めていく。少しでも塗り残せば、それだけで首が飛ぶ。痛いのはいやだ。
やっとの思いで一本塗り終わり、隣の木へ移る。夏は赤い薔薇が咲くのだが、冬は白ばかりなので、薔薇を塗るのは骨が折れる。そういえば、温室で女王が赤い薔薇を育てているらしい。冬は温室が立ち入り禁止になるのは、そのためだったのだ。
やっと最後の薔薇を塗り終えると同時にけたたましいラッパの音が響いた。ラッパがなり終わると、
「女王のおなぁりぃ」
という白うさぎの甲高い声が聞こえてきた。
再びラッパの音が響き渡ると、薔薇を塗っていた兵士たちが白うさぎのもとに駆け出していく。ぼくもみんなに倣って駆け出す。
白うさぎの後ろには、女王と王様が並んで立っていた。その傍には近衛兵が控えていて、近衛兵の後ろがぼくらだ。
これから行進が始まる。行進は女王が庭中の薔薇が見える、長いテーブルに座るまで続く。女王がテーブルについたら、ぼくはティーカップの用意だ。
「よし、今日も大丈夫」
自分を励ますように呟く。隣のスペードの4が顔を顰めた。ぼくはこんな風に自分の仕事を頭のなかで繰り返すようにしている。このあと自分がする動作を、頭のなかで何度もやっておくのだ。そうするうちに本番になった時、いつもよりは早く動くことができる。
白うさぎが再びラッパを吹いた。行進の始まりだ。一歩一歩、前の兵士と同じリズムで、同じ歩幅で歩いていく。
「いち、に、いち、に」
俯きながらリズムを取る。スペードの4が時折こちらをチラリとみるが、特に何も言ってくることはなかった。
足の裏に芝生の感触が伝わってくる。ぐしゃり、ぐしゃりと芝生を踏みつけて、慎重に歩く。
ふう、ふうと白い息が漏れる。トランプ兵たちはみんな俯いて自分の足元を確認している。前の兵士とずれないように。前の兵士は近衛兵とずれないように。近衛兵は白うさぎとずれないように。白うさぎは公爵夫人とずれないように。公爵夫人は王様にずれないように。王様は女王にずれないように。
女王以外、全員が俯いていた。時折ちらちらと隣を確認する者もいたが、一様に下を向いていた。
お茶会が行われるテーブルまであと4ヤード。ぼくは顔をあげて前の兵士の頭をみる。
あと3ヤード。に、いち。
「とまれ!」
突然、女王が歩みをとめた。
王様が前につんのめり、雪崩のように、公爵夫人、白うさぎ、近衛兵、トランプ兵が倒れこんだ。
「おまえたち! なにをしている。行進の途中だぞ!」
後ろを振りかえった女王が眉間に皺を寄せて怒鳴る。老婆にしては若い、少女にしてはあまりも醜悪な声だった。
「きみが突然立ち止まるからだろう。何があったんだい?」
王様が柔らかな声で女王に問いかける。
「私のせいだというのか!」
「いいや、きみが間違ったことなんて一度もないさ。そんなことより、何があったんだい?」
女王は王様をにらみつけると、無言でステッキを左に向けた。
ステッキの先の方をみると、薔薇の木があった。
赤い、薔薇の木。
「……あ」
短い、絞りだしたような声が隣で聞こえた。
スペードの4が汗をだらだらと流しながら、目をきょろきょろとさせている。かひゅ、という音が彼の喉から聞こえた。
「私の、わたしの庭に、白い薔薇がある! 一輪残さず赤くしろと言ったのを忘れたのか!」
真紅に染まった薔薇の木は、一輪だけ純白の薔薇を咲かせていた。赤の中に一つだけ針を刺したようにぽつんと白が輝いていた。
「魚の眼だ」
ぼくの呟きは女王の怒鳴り声でかき消された。
「あの薔薇の木を塗った者を引きずりだせ! 首を刎ねてやる!」
「首を刎ねる」という単語を聞いたとき、王様の耳がピクリと動いた。
彼は眼鏡を指で押さえ、女王の肩を掴んだ。
「いいじゃないか。このくらいのことできみの自慢の庭が損なわれることはない」
「いいや、損なわれた。即刻首をはねてやる!」
ざわざわと兵士の中でも動揺が広がる。みな不安げに瞳を動かしている。
「お前じゃないのか」
「いや、違う。俺は北のほうを塗っていた」
ざわざわとした周囲は次第にがやがやとしていき、犯人探しが始まった。
「おまえたち! 行進の途中だぞ!」
女王は自分が原因のくせに、行進が乱れたことを怒っている。
「もういい! おまえたち全員首をはねてやる!」
女王の一言でさらに動揺が広がる。ぼくも恐怖で震え上がった。どうして、ぼくは何もしていないのに首をはねられるんだろう。
「死ぬって、突然なの」
昨日のアリスの言葉が鮮明によみがえってくる。
いやだ。死にたくない。痛いのはいやだ。
ぼくは隣をみて、ぐっと手に力をこめる。
スペードの4はもうこちらを見る余裕もないらしく、頭をおさえながら、ぜえぜえと空気を吸い込んでいた。額には脂汗をかき、目はこれ以上ないほどに見開かれていた。
手をあげて、こいつが犯人だと言うんだ。それさえすれば、ぼくが殺されることはない。
ぼくは右手を腰まであげた。そのまま手を頭の上まで持ってくれば、女王にも見えるはずだ。
手を首の横まであげたとき、ふと思った。
アリスはどう思う?
アリスは、今のぼくをみたら、どんな顔をするんだろう。ひょっとして、ぼくは今、大変なことをしようとしているのではないか。
気づけば、ぼくは手をぶらんとだらしなく下げていた。
「女王陛下!」
凜とした声がした。がやがやと騒いでいたトランプ兵たちもシンと静まり返って、声の主を探していた。
ハートのエースだった。
彼は右手をピンと頭の上まで伸ばし、自信に溢れた表情でこう言った。
「スペードの4があの薔薇の木を塗っていました!」
「それで? そいつどうなったの」
「もちろん首を刎ねられたよ。片づけるのが大変だった」
アリスが信じられないというふうにこちらを見た。
「どうしたんだい?」
「いや、ううん。その、人が一人殺されたのよ。あんたなんにも思わないわけ?」
「あいつは人じゃない。トランプだ」
「そういう問題じゃないわよ」
じゃあどういうことなんだ。
「そうじゃない、そうじゃないのよ」
アリスは俯いてぶつぶつと何か呟いている。しばらく彼女は顎に手を当てて考えこんでいたが、何かを決心したようにぼくの方に向き直った。
「あなた、今回殺されたのが白うさぎだったらどうする?」
「今日殺されたやつがかい?」
「そうよ」
「簡単さ。やつが遅刻したんだろう。女王に首を刎ねられても仕方がない」
アリスは何か口を開きかけたが、小さく「そう」と呟いた。
「じゃあ次。メアリーアンだったらどうする?」
「公爵夫人が弁護に出るだろうね。女王の機嫌が直れば、助かるかもしれない」
「帽子屋は?」
「三月うさぎがどうするかだろうが……たぶん首を刎ねられて終わりだね」
「チェシャ猫は?」
「あいつは元から首がないじゃないか! 話にならないね」
アリスはジッとこちらを見ている。黒い瞳はぽっかりと穴があいているようで、覗きこめそうな暗さだった。
反対に、こちらが覗きこまれているような気持ち悪さがあった。
「じゃあ、あんただったら?」
黒い瞳は揺れることなくこちらをジッと見据えていた。
ぼくだったら。
頭が一瞬、真っ白になった。真っ白になった紙のような頭に、黒い点が、ぽつんと浮かんだ。
「それは、えっと、仕方がないだろうね。トランプ兵を弁護してくれるやつなんか、いないだろうから」
「そう」
彼女は小さく返した。夏の庭に遊びに来る、青い鳥の鳴き声のようだった。
彼女は目をそらさない。ぼくは不安になった。真っ白になった頭に垂れたインクが、ぶわりと広がっていく。
「どうしたんだよ。だって仕方がないじゃないか。ぼくがもし首を刎ねられたら、いや、痛そうだから嫌だけれど、それでももし刎ねられても、次の日には、またぼくはなんでもない顔して薔薇を塗っているさ」
不安のままに、勢いよく言葉を吐き出す。とにかく彼女の目線をぼくから逸らしたかった。
どうやらそれは功を奏したようで、ぼくが言い終わると、彼女は「え?」という素っ頓狂な声をあげた。
その瞬間、彼女の目線もぼくから離される。
ぼくはほっと胸をなでおろした。しかし、そんな一時の休息は長くは続かなかった。今度は彼女が矢継ぎ早に質問してきたのだ。
「首を刎ねられてもまたいるってどういうこと? 死んだらそれで終わりでしょ? あんた死ぬの怖くないの?」
なにを言っているんだ。
怖いに決まっているじゃないか。あんなに痛そうなこと、絶対に経験したくない。
「もちろん痛いのは怖いけれど……でも、ぼくたちの代わりはいくらでもいるだろう? 今ここでぼくが死んでも、次のスペードの9が君の前にいるだろう?」
アリスは珍しく話の意味がわかっていないようだった。眉間に深い皺を刻みながら、ぼくの言葉を咀嚼している。
「ええっと、つまり、あなたが殺されても、次の瞬間にはまったく同じあなたがまた生まれるってこと?」
「ああ。でも、違うやつが生まれるわけじゃない。昨日殺されたやつに話しかけても、一昨日のクロッケーの結果とか、花たちのおしゃべりとか、覚えていることは話してくれるぞ」
「それは、つまり、えっと、そうね。あなたが死んでも、あなたと見た目も、記憶も、考え方も一緒のやつが生まれるってこと……なの?」
自信なげな、消え入りそうな声だった。そういえば、城に出てくる幽霊が同じような話し方をしていたな。
「スワンプマンってこと……?」
「なんだい、それ?」
「有名な思考実験よ。ある男がハイキングに出かけて、運悪く死んでしまうの。でも、奇跡的に、えっと、雷と沼が化学反応? を起こして、死んだ男と姿も記憶も全く同じ人間ができたってやつ」
「へえ! きみは物知りだな」
「うろ覚えよ。私心理学部じゃないし。大事なのは、その男が死ぬ前の男と同一人物なのかってことよ」
シンリガクブ、というのもぼくはわからないけれど、そのスワンプマンって男は死んだ男と同一人物だろう。
「一緒なんじゃないかな。だって、ワンダーランドでも、死んだらまた次のやつが生まれてくるから。むしろそれが当然だろう?」
アリスは黙って靴の先を見つめている。
「……そうかしら」
靴の先を見つめながら彼女は呟く。静かな声で、いかにもつまらなさそうにしているが、どこか必死さも含んでいた。
「例えば、死んだ男に奥さんがいたらどうなるの? その奥さんは、男が死んだと知らされて、そのあと自分の夫とまったく同じ人物が来たらどう思うのかしら。夫が戻ってきたって、手放しで喜べるのかしら」
なぜ、こんなに、悲しそうなんだろう。死んだやつのことなんて、誰も何も思わないのに。
「少なくとも、わたしは」
アリスが顔を上げてぼくをみつめた。
彼女の瞳には、ぼくしか映っていなかった。
「いまのあんたが死ぬのは、嫌よ」
黒曜石の瞳から、ダイヤモンドが流れている。日焼けしていない白い手が、ぼくの手を確かめるように包みこむ。
少し赤くなった頬を隠すように、彼女はぼくのそばに置かれたノートとペンを見つめた。
「それ、なに」
「ノートとペンだよ」
「そうじゃなくて、なんで持ってきたの?」
「デリカシーの意味を聞こうと思ったんだ」
彼女はぼくから手を放し、ノートとペンをそっと持ち上げた。
「なんでも教えてあげる。今のあなたが知らないこと、なんでも。私が知っていることなら出し惜しみしないで、教えてあげる」
「だから」と彼女はぼくにノートとペンを手渡す。
受け取った瞬間、ぼくの腕を引っ張って顔をぐっと近づけた。
「だから、約束してちょうだい。絶対に死なないで」
「約束よ」とアリスは微笑んだ。
一心不乱に薔薇を塗っていた。今日は女王がもう起きているらしい。朝、女王が機嫌良さそうに廊下を歩いていたとハートの6が言っていた。
今日は早めに女王がブレックファストティーを庭に飲みに来る。機嫌がいい日は早めに庭に出てくるのだ、あの婆さんは。
薔薇の花びらは塗りにくい。花びらと花びらの隙間にも赤いペンキを差し込んでいく。
ぼくはどんくさいので慎重に薔薇を赤く染めていく。
深呼吸をしながら薔薇と真剣に向き合う。
「こんにちは」
「……え? うわっ」
突然、後ろから聞きなれた声がし、勢いよく後ろを振り返ると、そこにはアリスがいた。
いたのだが、ぼくが見たアリスは逆さまになっていた。
振り返った勢いで梯子から落ちてしまったらしい。アリスはぼくを見てクスクスと笑っている。
「手伝うわ」
そう言って彼女は梯子を登り始めた。
「きみ、どうしてここに?」
「暇だったの。いつもはパンジーのところで世間話を聞かされているんだけど、最近ますます寒くなってきたからね。みんなまだ寝てた」
「花も冬眠するのね。初めて知ったわ」とアリスはぼくのペンキと刷毛を使って薔薇を塗り始めた。
時折、くしゅんっという声が頭上から聞こえてくる。
「きみ、変わってくれ。きみじゃ女王が来るまでに塗り終わらないだろう?」
「失礼ね。ハートのエースが言ってたわよ。あなたトランプ兵の中でもどんくさいんでしょう? 私と大差ないわ」
「そうじゃなくて、きみ、くしゃみしているじゃないか。風邪ひいたのかい?」
アリスは一瞬手を止めて、「大丈夫よ」とまた作業を始めた。
ぼくに薔薇塗りを変わるつもりはないらしい。これ以上はだめだと、ぼくは諦めて彼女が薔薇を塗っていく姿を目に収めた。
「私、赤より白い薔薇が好きなの」
最後の一輪を塗りながら、彼女はぼくの方を見ることもなく話しかけてきた。
「どうしてだい? 白は赤く塗らないといけないから、ぼくは嫌いだ」
「どうして白い薔薇は赤く塗らないといけないの?」
どうして白い薔薇を赤く、か。考えたこともなかった。
「女王が赤く塗れと命令したからだよ」
「そう、怖いくらい白い薔薇ばかりだから、ちょっとテンション上がってたのに」
「冬は白薔薇ばかりだから、女王が来るまでにすべて塗らないといけないんだよ。だから面倒くさい」
アリスは少し驚いた顔をしてこちらを振り返った。梯子からは落ちなかった。
「あら、冬薔薇は咲かないの?」
「冬薔薇?」
「冬薔薇なら赤があるじゃない。植えればいいのに」
冬薔薇というのは初めて聞く。
とりあえず持っていたノートに「ふゆそうび」と書く。
「冬は白い薔薇しか咲かないよ。春は黄色、夏は赤、秋は紫、最後に、冬は白だ」
「へえ、やっぱり、違うのね」
「違う? 何が」
「ううん。こっちの話」
再びアリスは黙って最後の一輪を塗っていく。塗り終わると、その出来栄えを見て、満足げに頷いた。
「うん! やっぱり教えてあげよう。約束したんだし」
「なにが?」
「さっきの冬薔薇のことよ。上手く塗れたから教えてあげようと思って!」
そう言ってアリスは梯子を一段飛ばしで器用に降りた。
「私の住んでいた世界、日本っていうんだけどね」
「にほん」とペンを走らせる。
「そこでは季節ごとに薔薇が咲くのよ」
「なんだ、一緒じゃないか」
アリスは少しムッとした顔をした。
「あんたたちの国みたいに単純じゃないわ」
指を「1」の形にして彼女はニッと笑った。
「日本では季節に関係なく、薔薇の色はたくさんあるの。赤、黄色、白、ピンク、紫、青色もあるわね!」
「なんだ、その色ならここにもあるぞ」
「でも季節ごとに一色しか咲かないでしょ?」
「まあ、確かにそうだけれど……」
ぼくは口を覆うように手をあて、しばし考える。思い出したいことがあるから。
しばらく頭をくるくると回しているうちに、急にピタリと思いつくものがあった。
「そうだ! 青色ならここにもあるぞ!」
「あら? すごいじゃない」
なんだか馬鹿にされているような気もする。
「庭には植えていないけどね。王様が女王に内緒で育てているんだ」
「どうして?」
「どうしてって……女王は赤が好きだからに決まっているだろう?」
「なら、どうして王様は青い薔薇を育てているの?」
考えたことがなかった。
「……青が好きだから?」
「まあ、ここの住民なら、そんな単純な理由もありえそうね」
アリスは納得したような、そうでないような、複雑な顔をしながら答えた。
「……行進の時間ね」
アリスが、遠くを見つめながらぽつりと呟く。
振り返ると、女王が眠そうな目を擦りながら、庭に出ていた。
王様の首を抱えて。
「王殺し! 王殺しだ! 時代が変わるぞ!」
帽子屋が、大声で叫び散らす。
「……そうね。もっと圧政になってこんなふうに暢気にお茶会することもできなくなるわね」
呆れたように言ったアリスが、静かにティーカップに口をつける。しかし、次の瞬間眉をひそめた。
「……ねえ、このティーカップ、何日前に洗った?」
「六日前だ!」
ガシャン! とティーカップが割れる音がする。
「これだから不思議の国は」
アリスが何か言った気がしたが、聞こえなかった。
「んんっ」と咳払いをしてアリスが仕切り直す。
「失礼。でも、実際どうなのかしら。明日になれば、王様もいつもどおり、なんでしょ?」
「雷が鳴ればな」
三月うさぎが割れたティーカップを片付けながら答える。
「雷?」
ぼくが聞き返すと、三月うさぎが目を見開いた。
「なんでトランプ兵なんかがいるんだ!」
「最初からずっといたわよ」
アリスの言葉も気にせず、彼はわなわなと口を震わせた。
「お前、あれだろ! 女王の、えっと、あの、す……す、えっと」
「スパイ」
「スパイだろ!」
アリスがこめかみをおさえ、口を開いた。
「私が連れてきたのよ。今日彼、お休みになったから」
行進のあと、王様の首を抱えた女王からのお言葉は、まさかの「今日は休め!」だった。
「女王にも、気まずいって感情あったのね。それとも、殺人犯の開き直りかしら」
未だに体をぶるぶると震わせている三月うさぎを膝にのせて「で、雷ってどういうこと?」とアリスが聞いた。
いいな、アリスの膝。
「アリスも聞いたことがないか? 毎日鳴っているじゃないか」
思い当たることがあるようで、アリスは目をぱっと開いた。
「たしかに、そうね。でもそれと王様の復活に何の関係があるの?」
「死人が出たら、雷が鳴るんだ。雷が鳴ったら、死んだやつが復活する」
三月うさぎは得意げに鼻を鳴らした。
それまで黙って紅茶を啜っていた帽子屋も、驚いた顔をしていた。
「それは気づかなかった! なんで教えてくれなかったんだ?」
「お前は寝るときは耳栓をしているだろ! 教えたくても教えられないじゃないか」
帽子屋もぼくと同じだったらしい。
「なら起きている時に教えてくれればよかったじゃないか!」
「それじゃあ、眠りネズミが可哀そうだろ! 一人だけ教えてもらえなくなるじゃないか!」
「わかったから! あんたはなんで雷が鳴ったら死人が生き返るのを知ってるの?」
不毛な争いが始まるのを察したのか、アリスは少し大きな声をだして話を戻した。
三月うさぎは、不満げに瞳を揺らしたが、アリスの言う事は無視できないようで、渋々質問に答えた。
「……こいつが首をはねられた夜に、雷が鳴ったんだ。そうしたら、次の日の朝に、帰ってきたんだよ」
三月うさぎは帽子屋を指さしていた。本人はきょとんとしていたが。
しばらく考え込んでいた帽子屋だが、やがて合点がいったようだ。
「ああ、あのときか」
「そう、お前が泥だらけで帰ってきたとき」
「泥だらけ?」
ぼくが聞くと、三月うさぎはギロリとこちらを睨みつけるとふいっと顔を逸らしてしまった。
「嫌われちゃったわね」
アリスが眉を下げて笑った。
「まあ、こいつに嫌われてもたいしたことないさ」
ぼくの言葉が癇に障ったようだ。三月うさぎは「なんだと!」とアリスの膝の上でぴょこぴょこと跳ねていた。
帽子屋はぼくたちのやり取りを見ながら、優雅にパンケーキを切り分けている。
そういえばぼくの分の紅茶がない。
「今日はショートケーキじゃないのね」
アリスがぼくのカップに紅茶を淹れながら聞いた。
「メアリーアンのお裾分けだ」
「あら! なら少しはまともな味ね」
心なしか嬉しそうなアリス。
そんなアリスを睨みつけながら、帽子屋はケーキを取り分けた。
ぼくの分のケーキはない。
「……風邪は大丈夫なのか」
ぼくにケーキを取り分けるアリスを横目に、帽子屋が聞いた。
「大丈夫よ、馬鹿は風邪ひかないの」
「きみ、馬鹿だって自覚があったんだな!」
「言い方が悪かったかしら。馬鹿うさぎには風邪をうつせないって意味よ」
喚く三月うさぎを横目に、パンケーキを口に放りこむ。なんというか、独特な味だ。口の中で砂糖の塊をガリっと砕いた。
アリスも微妙な顔をしている。
「渋谷で食べたやつ、おいしかったな」
とりあえずノートに「しぶや」と書く。
「まずい! まずい! 裁判沙汰だな!」
今だけは三月うさぎと握手したい気分だ。
「まったくだ。女王はメアリーアンの首をはねたほうがいい」
「眠りネズミにも食べさせよう! やつだけ食べないのはずるい」
「そうだな」と帽子屋がポケットを叩いた。しかし、ポケットには一向に変化がない。
帽子屋はイライラした様子でさらにポケットを激しく叩いた。
「ちょっと、やめなさいよ。可哀そうでしょ」
アリスが慌てて止めにはいる。帽子屋は不満げに鼻を鳴らしてまたケーキを口に運んだ。
「……風邪は大丈夫なのか」
しばらくして、帽子屋がまた口を開いた。
「風邪じゃないわよ。最近寒いから」
「風邪は不治の病だぞ! 早く治せ!」
「不治の病なのにどうやって治すのよ」
くしゅんっという可愛らしい音が鳴った。
「今日はもうお開きにしよう。早くベッドに入りなさい」
帽子屋はアリスの手を引いて、森の中に入っていった。
「そういえば、あいつの家知らないな」
「お前らは城でぬくぬくだからな!」
三月うさぎの口に残りのケーキをすべて突っ込んで、ぼくは帰路についた。
夜、耳栓をつけようとしたが、今日はやめておいた。
静かな夜だった。
「へくちっ」
ズッと鼻を啜るアリス。
「ティッシュある?」
「ノートの切れ端なら」
アリスはじっとぼくを見つめていたが、観念したかのようにノートを受け取った。
「ノートって固いわ。鼻かむものじゃないわね」
「あたりまえだろ」
「あんたそういうとこよ」
アリスは鼻をかんだノートをくしゃくしゃにまとめると、そのままワンピースのポケットに突っ込んだ。
「今日王様、いた?」
「いや」
「昨日は雷鳴らなかったものね」
「三月うさぎが『おれは嘘ついてない!』って今朝からうるさかったわ」
あいつなら言いそうだな。簡単に想像できる。
「女王様はどうだった?」
「いつもどおりだったぞ。いつもどおり、怒っていた」
「そう」
アリスも、いつもどおり表情一つ変えずに返事をした。
「まあ、いいわ」
にこり、と張り付けたような笑みを向けた。
「今日は何が知りたいの? なんでも教えたげる」
えっと。
「この前言ってた『よじじゅくご』ってやつ」
「悪事千里、暗中模索、悪逆無道、以毒制毒、一口両舌、十把一絡げ」
「最後よじじゅくごだったか?」
「えへへっ」と彼女は悪戯っぽく笑った。
「意味はね」と続けようとする彼女を遮った。
「いい。聞かなくていい」
きょとん、不思議そうな顔をするアリス。
「全部悪そうな意味だったから、いい」
「あら、ごめんなさい」
謝罪のわりには一つも悪いと思ってなさそうな顔だ。
「いいさ。今度は」
ひくひくと口の端をあげて、彼女の目を見る。安心させるように、なるべく意識した。
「今度は、良い意味なのを教えてくれ」
「それにさ」
ぼくは立ち上がって足についた土を払った。
「風邪を早く治さないとな!」
帽子屋から持たされたガウンを彼女の肩にかける。
仕方なさそうに、おもちゃを欲しがる子どもに根負けしたように、笑った。
「だから、不治の病なのにどうやって治すのよ」
「……夫は、無事?」
「ええ、まあ、無事」
無事。
「亡くなられましたよ」
目の前の麗人は、その言葉を聞くと満足げにうっそりと微笑んだ。今年で五十になるのに、いつまでも現役だな。
「当り前よね。不倫の慰謝料五百万なんて、払えるわけないもの」
払いたくない、の間違いだろう。彼女ほどの国民的女優なら、それこそ五百万なんて、端金だ。俺のような一介の研究助手には、ほど遠い世界だ。
「何言ってるの。助手のくせに自分の上司に内緒でその妻と不倫なんて、私なら怖くてできないわ」
言葉とは裏腹に楽しくて仕方がないというふうにけらけらと笑う女。
「これからどうするんですか」
「決まってるじゃない。こんなバカげた実験をさっさと終わらせるのよ。もとは全部あの人が始めたことなのに、私ばっかり悪者にされて……ほんといい迷惑だわ」
俺の言葉に、彼女はさっきまでの表情を一変させ、苦々し気に吐き捨てた。
「人の夢の中に入ることができる、そこまでは私も賛成よ。楽しそうだもの。でも、私の旦那は、それだけで終わらせなかった」
そこまで言って、彼女は眉間にこれ以上ないほど皺を寄せてため息を吐いた。
「夢の中でスワンプマンを起こして、植物人間を蘇生する、だったかしら。実際口にすると、ほんとイライラするわね」
「しかし、実験が成功すれば、あなたの娘さんは、助かりますよ」
「だからって私に娘を殺せっていうの!?」
見たこともないほど彼女は激昂していた。こいつの旦那に隠れて密会を重ねていた時から、ここまで怒りっぽい、幼稚な女がこの世に存在していたのかと驚いたが、これほどまでに激怒した姿は見たことが無かった。
「別に、あの子以外の首をいくつ刎ねようがどうでもいいの。唯一、あの人の実験に融資をしていた資産家の息子の首を刎ねたときは叱られたけど。でもそれもあの人が悪いのよ。資産家の息子だろうと何だろうと、あの世界ではただのスペードのトランプ兵なんだから。私がわかる訳ないじゃない」
「それに」と続ける。
「どうせあの世界で何人死んだって、あの青薔薇……だったかしら。あそこに連れて行けば、不思議の国では生き返る。癪だけど、スワンプマンは成功するの。不思議の国限定でね」
「『夢が叶う』、ずいぶんご立派な花言葉よね」
「それなら尚更、アリス――いえ、あなたの娘さんの首を刎ねてもよろしいのでは?」
パン! という音とともに俺の頬に鋭い痛みが走った。
「現実世界であの子が目覚めるなら、とっくにやってるわよ!でも、あの世界で首を刎ねられて、あの世界の中で生き返っても! 現実世界で目覚めた被検体は一人もいなかったじゃない!」
目に涙を溜めて、彼女は捲し立てる。少女にしては醜悪な、老女にしては若すぎる声だ。
「あの子が目を覚ます保証もないのに、実験が成功するまで延々と首を刎ね続けろっていうの? そんなの耐えられない。不倫の代償にしては大きすぎるわ。何が楽しくて自分の娘を殺さないといけないの。絶対いや」
「ですが、先生は『殺さないと助からない』と」
「だから殺したじゃない。あの人を」
女の目は魚のように、真っ黒で、濁っていた。
「あの人が死んだから、青薔薇の場所も闇のなかってこと。つまり、もうあの世界で誰が死んでも、復活なんてできないわ。安心してあの世界を終わらせられる」
「……本当に、青い薔薇の場所は知らないんですね?」
「何度も言ってるでしょ。知らないわよ。あの人の人生一番の秘密だもの。……明日、不思議の国の住人全員の首を刎ねて、あの世界を終わらせてやるの。他の連中がどうなろうと知ったことじゃないけど、あの子を何回も殺すくらいなら、たった一回だけ殺して、あの世界で心中してやるの」
「それが私にできる、母親としての償い」と彼女は付け加えた。
「どうして今更、彼女を殺そうと?」
「……あの子、風邪気味なの」
弱弱しい声で母親は呟いた。
「もちろん、夢の中でね。現実世界のあの子はまだ植物状態。どうして夢を見られるのかはわからないけれど」
「娘さんが夢を見ている訳ではありません。私たちが先生の夢の中に入っているだけです」
つまり、先生、こいつの立場からしたら自分の旦那か――の夢をマザーコンピュータにして、俺やこいつを含めた我々被験者が先生の脳にアクセスしている、ということになる。
脳死状態でない限り、人に夢を見せることができる、まさに夢のような発明だ。
「そう、だからこれからは私がマザーコンピュータになるのよね。まあ仕組みなんてどうでもいいけど、あの子は不思議の国で風邪気味だった。死期が迫っているのよ、きっと」
思い込み、と言えば単純だが、確かに母親の立場からすれば気が気でないだろう。
「ただ……
珍しくしおらしい態度でそう言うと、彼女は椅子から立ち上がった。俺が淹れたコーヒーには全く口をつけることもないまま。そういえばこいつは紅茶派だった。
「それじゃあ、これでお別れね。現実でも、あの国でも。あんたも、今のうちに己の罪を見つめ直すことね」
高そうなヒールをコツコツと鳴らして、彼女は研究所を去っていった。あの靴は、俺がプレゼントしたものじゃなかった。
その日、白うさぎは焦っていた。
いつも遅刻だ遅刻だと焦っているが、今日は輪をかけてひどいものだった。
額には脂汗が浮かび、目は充血し、元々赤い目が今日は悪魔のように血走っていた。
「かひゅ、かひゅ」と喉が悲鳴を上げても、それでも走り続けた。足は既にその限界を超え、足の裏からは血が流れ、お気に入りの靴下は赤黒く変色していた。
ふざけるな。あの女、ほんとにやりやがった。
城についた時、庭では異様な光景が広がっていた。どのトランプ兵も、皆一様に首と胴体が切り離されていた。白目をむいて、涎を垂らして、それでもその死を受け入れられず、「うう……うあ……」とうめき声をあげている。
俺もこうなるのか。
嫌だ。ぜったいいやだ。
俺は死にたくてこんな実験に参加したんじゃない。この研究は世界を変えられる。植物状態の人間を蘇生する、他人を夢の中に入り込ませ、その住人にする。画期的じゃないか。先生はあの娘を助けるために本格的に実験を始めたが、人の命を救うだけじゃない。今回のような完全犯罪も可能にしてしまうのだ。
こんな研究、盗まなくてどうする。
ずっと助手として下手に出てやっていたのだ。最後くらい、良い思いさせてくれよ。
「泥の国のアリス実験」は、俺のものだ。
プロポーズの時に百本の赤い薔薇の花束をあげたからって、夢の内容を不思議の国にするなんて、気持ち悪いんだよ。
最近は、俺もこの夢に浸食されていた。他の連中は自我を失い、「不思議の国の住人」として何の疑問も持たずに生活している。
かつての同僚の三橋も、今や完全に三月うさぎとして醜態を晒している。俺はそんなヘマはしない。
俺が完全に「白うさぎ」になる前に、何としてでもこの世界を出るのだ。
青薔薇の場所まで、あと少し。
盗んだ先生の研究レポートを思い出す。青薔薇は、温室ではなく、クロッケー会場のさらに奥、誰も近づかない森の沼地にある。
元々、あの女に近づいたのも青薔薇の場所を聞きだすためだった。残念ながら、あの偏屈なおっさんは最愛の妻にすら、自分の研究の核を、秘密にしていたみたいだが。
青薔薇の場所さえわかれば、この世界から生きて脱出できるはずだ。もうそれに賭けるしかないのだ。
いやだ、死にたくない。
「……なんだよ、これ」
やけに寮の外が騒がしいと思った。外から聞こえる怒号、悲鳴、それは次第に呻き声に変わり、やがて静かになった。
静かになった頃を見計らって、恐る恐る寮の外にでると、赤い、血の道が出来ていた。血は城に続いており、がくがくと震える膝を何とか奮い立たせ、ぼくは跡を辿った。
城に着くと、美しい庭が血の海になっていた。それが全てぼくの仕事仲間のものだと理解するのにそう時間はかからなかった。
足元に転がるハートのエースの首を見つめながら、ぼくはただ茫然と立ち尽くしていた。
今日寝坊していなかったら、ぼくもここの一員になっていたのか。
痛そうだな。
血の海になった庭に咲く薔薇は、こんな状況だというのに、赤く、あかく宝石のように輝いていた。
その中に、たった一つ。
だれかが塗り残した、白い薔薇が咲いていた。
「……そうだ、アリス!」
行かなくちゃいけない。ぼくはまだ死ねない。死にたくない。
呼吸ができるようになった。膝の震えもない。
帽子屋の元へ一目散に走りだす。
お茶会のセットは放置され、テーブルの先には見覚えのある血の道が続いていた。意を決してその血の跡を辿る。
帽子屋の家には、鍵がかかっていた。
体全体を使ってドアに体当たりする。紙の体が悲鳴を上げるがそんなのは大した問題じゃない。
ガンっという音とともに、ぼくは部屋の中に倒れこんだ。
「ひっ」
鈴のなるような声。
「っアリス!」
「え……? なんで……?」
「帽子屋は! あのうさぎは!?」
アリスはぶるりと体を震わせると、何か思い出したのか目に涙を溜めた。
「今朝、なんでか女王が来て、それで、帽子屋と……三月うさぎと……眠りネズミも、みんな」
「くびを……刎ねられて」
そこまで言って限界に達したのか、彼女は嘔吐いた。
「……ごめんなさい。女王は、最後に私を見たんだけど……なぜか、襲われなくて」
「きみが無事ならそれでいい。帽子屋たちは……残念だったけど」
彼女の肩を掴んで、無理やり目を合わせる。
「いいかい、君は今すぐこの世界から逃げるんだ。女王に見つかる前にね」
「そんなの、どうやって?」
「それは……」
皆目見当もつかない。そんなことがわかっているなら、彼女はとっくの昔にこの世界を出ていったはずだ。
それでも、彼女をこのまま置いておくわけにはいかない。彼女を失うことが、ぼくはなにより怖い。
「……お困りのようだにゃあ」
頭上から、男だか女だかわからない、しわがれた声が降ってきた。
「……あんたは?」
アリスがぼくの代わりに疑問をぶつけた。
「ありゃ、知っているはずだと思うがにゃあ。特にそこのトランプ兵は」
え?
「ほら、たまにクロッケーに参加している、おかしな猫さんだにゃあ」
「……ダイナ?」
「にゃんだそいつ」
猫? この世界で猫といったら。
「チェシャ猫?」
「せいかいだにゃあ。愚鈍なトランプ兵」
小馬鹿にしたようににやりと笑うチェシャ猫。
「お前、首を刎ねられてないのか」
「おれはもとから首がにゃいからにゃあ」
いつ見ても生意気な笑みを浮かべ、やつはだらりと首を回転させる。
「……助けてくれるの?」
アリスの言葉にピクリと耳を立て、チェシャ猫は首だけをこちらに向けた。
「勘違いしにゃいでもらいたいが、おれはこの世界からでる方法は知らにゃい。でもなあ、さっき見ちゃったんだにゃあ」
「もったいぶらずにさっさと答えろよ。チェシャ猫」
「それが人にものを聞く態度かにゃあ」
「お前は人じゃなくて猫だろ」
チェシャ猫は「それもそうだにゃあ」とにやにやと笑う。
「おれはお前たちが助かる方法は知らにゃい。知らにゃいが……白うさぎがさっき鬼の形相でかけてったにゃあ」
「まだ間に合うんじゃにゃいかにゃあ」とだけ言い残して、やつは雲のように消えてしまった。「健闘を祈るにゃあ」という台詞が部屋の中に響いた。
「……アリス」
彼女の手を掴んで立ち上がらせる。
「いこう」
「…………一緒に、いてくれる?」
「もちろん」
こういうのって、何て言うんだっけ。えっと、あれだ。
「乗り掛かった船、だろ」
「クロッケー場、よね。ここ」
「城から少し離れているからね。でも、クロッケー場の奥にこんな森があるなんて、知らなかった」
息を潜めて、白うさぎの後を追う。あいつは気づいていないようで、今もぜえぜえと息を荒げながら走っている。
「……! 止まったわ」
アリスの指さす方を見ると、確かに白うさぎの後ろ姿が見えた。
「あれは、沼、か?」
「見て! あれって、もしかして」
黒い、泥の濁った沼の中央には、不釣り合いなほど燦然と輝く、青い薔薇があった。
「……あれだ! あれに、君がこの世界から脱出するヒントがあるんじゃないか?」
「そうね……近づいてみましょう」
ぼくたちは立ち上がって、少しずつ白うさぎのところへ近づいた。
「……! だれだ!」
ぼくたちにやっと気づいたのか、白うさぎはこちらを振り返った。目は血走り、いつもより殺気立っていた。
「そこ、退いてくれる? 私、その青薔薇のとこいって、帰らないといけないの」
そんなことには動じず、気の強いアリスが白うさぎを睨みつける。
そんなアリスに益々苛立ったのか彼はさらに目を吊り上げ、口をわなわなと震わせた。
「ふざけんな! いったい誰のせいでこんなことになったと」
スパンっという小気味良い音が響いた。骨と筋肉が切れる音がした後、白うさぎの首が、ぼくたちの足元にコロコロと転がった。
苦痛に顔を顰め、そこには「死にたくない」という表情がありありと浮かんでいた。
「思ったより手間取らせてくれたわね」
ふと、知らない声がした。
アリスはこの声を知っていたようで、大きな目を見開いて、唖然としていた。
「おかあさん……?」
「え?」
慌ててぼくも後ろを振り返ると、そこにはぼくもよく見知った人物が立っていた。
「女王陛下」
「まずはそこのスペードの9から始末しましょうか。そのあとにあなた。最後にわたし」
女王の姿をした何者かが、ぼくに近づいてくる。アリスがすぐさまぼくの前に来て両手を広げる。
「……アリス、邪魔しないで頂戴。この世界はね、お父さんの我儘で作られたの。存在しちゃいけないの」
聞き分けの無い子どもに言い聞かせるように、女王はゆっくりと、穏やかな口調で話す。いや、諭す、か。
しかし、それでもアリスは首を横に振る。
「いいえ、存在するべきよ」
女王は意味を図りかねているようで、怪訝な顔をしている。
「だってね」とアリスはすました顔で続ける。
「だって、この人がいるんだもの」
その瞬間、アリスに手を掴まれて、沼に引きずりこまれた。
「きみ、こんな状況で心中か!?」
「そんなわけないでしょう! あの薔薇のとこまでいくのよ!」
ぼくの手を握りしめながら、ずんずんと沼を、いや、泥の中を進んでいく。水色のワンピースは泥だらけで、白い肌にも黒い斑点のように泥が跳ねていた。
もう少し、あと少し手を伸ばせば届く。
何かが、首に入り込んでいるような感覚がした。それは、ぼくの首の骨を通り抜けて、皮を貫こうとしている。目だけを隣に向けると、くびのないありすがいた。
そういえば、かまいたちの噂を、聞いたことがあったな。
首の無い彼女は、それでもぼくの手をしっかりと握りしめていたが、その手は力を失いかけていた。
「トランプ兵の方は少し甘かったかしら。もう一度だけだから、じっとしていてね」
女王がステッキを振り上げる。
その時、ぼくが感じたものは、恐怖でも、悲しみでもなく、怒りだった。
ぼくはアリスの胴体を抱きしめ、首を抱え、必死で足を動かした。
泥がまとわりつく。靴に泥が入って気持ち悪い。それでも、生きる理由が、ぼくにはある。
目の前の青い薔薇を握りしめる。棘が刺さり、手に血が滲んだ。
同時、だったと思う。
ぼくの首と胴体が離れるのと、薔薇が引きちぎられた瞬間は。
雷が鳴った。
「有川くるみ」と書かれたプレートが下げられた、重たいドアを開ける。
個人用の病室は、19歳の女の子が入院するには、あまりに広い。
「久しぶり、九十九くん」
広い病室の端で、ポツンとベッドに横たわるくるみは、普段より益々小さく見えた。
「調子、どう?」
お見舞いの花を花瓶に生けながら、彼女に話しかける。
「さいあく。明後日退院したら、お父さんのお葬式でなきゃいけないし。警察のところにも行かなきゃだし」
「……お母さんは?」
「まだ目が覚めないみたい。もう一生あのままかもって、お医者さんは言ってた」
くるみは少し俯いて、嘲るように笑った。
「うちのお父さん、だいぶグレーな研究していたみたい。研究のために、職員の人とか、大学生とか、ほとんど誘拐みたいなかたちで実験体にしていたんだって」
それに関しては僕も昨日、警察の事情聴取を受けた。最も、僕はただ高給なバイト代につられてしまった、と言うしかなかったのだが。
「それだけじゃないでしょ。あなたは私の友達として、協力させられていたんでしょ」
「……ごめんなさい」と消え入りそうな声で彼女は謝罪した。
「謝ることじゃない。大学の友達が事故にあって意識がないって聞けば、誰だって心配するよ」
「だからって実験に協力する義理はどこにもないわ」
「それは……うん、仕方がなかったんだ」
「なにが仕方なかったの?」
彼女の問いに僕はあいまいに笑って誤魔化す。
仕方がないじゃないか。実験に協力すれば必ず彼女は目を覚ます、なんて聞けば、僕が協力しない手はない。
「それより、くるみのお母さんのことが心配だよ。今もあの世界で、一人ぼっちなのかな」
「ああ、そうね。そうだと思うわ」
「……ショックじゃないの?」
意外にもアリスは涼しい顔で返してきたので、僕は少し面食らってしまった。
「だって、あの世界には、青い薔薇があるじゃない。今まで何人もあれで復活していたんでしょ? たぶん、あの薔薇は一度引き抜いてもまた生えてくるのよ。そうじゃなきゃ、毎日のように雷は鳴らないでしょ」
「そうだと思うけど……それとくるみのお母さんと、何の関係があるんだ?」
くるみは、わからずやのトランプ兵にものを教える時のように、悪戯っぽく笑った。
「つまり、お母さんは青い薔薇を使って、いつでも目を覚ますことができるの。でも、それをしないってことは、あの人なりに、けじめをつけようとしたんじゃないかしら」
「けじめって?」
「さあ……? 夢の中とはいえ、何人もの命を奪ったこと、じゃない?」
それも何となく違うような気がしたが、黙っておくことにした。これは母娘の問題だから、僕が踏みこんではいけない、ある意味聖域のようなものだ。
「でもさ、結局、実験成功だったな。こうして僕と君が、生きているんだから」
「そうかしら、ただスワンプマンが実現しただけじゃない。不思議の国に存在していた私たちはあの時確かに死んだはずよ。だから、今ここにいる私たちは別物。それってなんだか」
「なんだか?」
くるみは大きく息を吸い込んだ。
「虚しくならない?」
「……それなんだけどさ」
この病室に来る前から、いや、不思議の国にいたときから考えていたことを、ゆっくりと吐き出す。
「別物で……いいんじゃないかな」
怪訝な顔をする彼女。
「ぼくたちは確かにあの時死んで、今ここにいる僕らは、君の言うようにもう別人かもしれない。それでもさ、またこうして君と逢えて、もう一度話して、また友達になっただろ」
「今のこの関係は、誰にも文句がつけられない、以前のぼくたちにすら、何も言う権利もない、今の僕らのものだ」
「だからさ、もう一度、生きてみようよ、一緒に」
くるみは、黙って俯いていたが、顔をあげて、僕の方をまっすぐみて、「そう」とだけ返した。
その頬に一瞬、朱がさしたのを、僕はみることができた。
「それで、お見舞い来ただけなら、もう帰ってくれる? 面会時間、もうそろそろでしょ」
窓の外を眺めながら、なんでもないふうに、彼女が呟いた。
あ、そうだ。忘れていた。
「くるみ、あのさ、お前、何色が好き?」
「……は?」
「ぼくはさ、白が好きなんだ」
お見舞いの花が生けられた花瓶から、9本抜き取って、彼女に渡す。もちろん、棘はあらかじめ取ってある。
白い薔薇を、9本。
「好きだよ、アリス」
泥中のアリス 柴まめじろ @shiba_mameta
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