ゾンビビビ

香久山 ゆみ

ゾンビビビ

 あれ、頭洗ったっけ? 頭を洗って、顔、首から順に下りていって最後に爪先。ぼーっとルーティンをこなしてたら、背中を洗っている時にふと、あれ、髪ってもう洗ったっけ? と。まるで記憶にない。念のためもう一度(?)シャンプーからトリートメントまでする。そしたら、さっき何考えてたっけ、ともうそれさえ思い出せない。まあ、ずいぶん長い時間気絶するように眠っていた寝起きだから仕方ない。いつ眠ったのかも思い出せないけれど。

 髪を乾かし脱衣所を出ると、入った時にはまだ暗かった窓の外が、すでに青く雀の声もする。ああいけない、会社に行かなくちゃ。

 鏡に向かうと、長く寝たせいか顔色だけはすこぶる良い。何かお腹に入れておかなくちゃと、冷蔵庫を開けると、いつの間にか期限が切れている。まあ少しくらい平気だろう。牛乳とヨーグルトとクラッカーを飲み込む。

 いそげいそげ、ほらもう家を出る時間。水曜日は不燃ゴミの日なのに、もう二週間も出せていない。あーあー、今日もだめだ。舌打ちしながら集積所の前を通ると、あれ? 『木曜日 燃えるゴミ』の掲示。が、それどころじゃない。いそがなきゃいつもの電車に乗り遅れる。小さな違和感を見て見ぬふりするのには慣れっこだ。振り返らず駅へいそいだ。

 なんとか発車前に改札を抜けたけれど、だめだった。ホームへ出ると、心拍が上がり呼吸困難でその場にしゃがみ込んだ。走ってきたせいではない。いつものことだ。うずくまる私の側を革靴やヒールが通り抜けていく。立ち止まることなく。

 何本か満員電車をやり過ごし、途中で何度か電車を降りながら、ようやく会社に辿り着いた時には、とうに始業時間を過ぎていた。

「すみません、遅くなりました」

 蚊の鳴くような声でふらふら入室した私を振り返る人はいない。皆、自席でパソコンに向かってカタカタとキーボードを打ち、鳴り響く電話を取っては何事か喋っている。私は入り口で立ち竦んだまま呆然とフロアで働く彼らの様子を眺めていた。それで、なんとなく、思い出していた。

 たまたま目の前を通った課長に反射的に「あのっ」と声を掛ける。課長は、どんより濁った目を私に向け「あーあー」と吐き出すように言った。そうだ、そうだ。私はぺこりと頭を下げて、踵を返した。

 オフィスビルを出る。そうだ、そうだ。どうして忘れていたのだろう。私は、先月この会社を自主退職したのだった。体が壊れて、心が壊れて、病院からはおかしいのは会社ではなくお前だとお墨付きを貰って、それで辞めたのだった。思い出すと、ふっと心が軽くなり大きく息を吸った。

 電車には乗らず、そのまま歩いてうちの方まで行くことにした。抜けるような青空に、ぷかぷかと白い雲が浮かんでいる。街行くサラリーマンも、スーパーやショップの店員も血色の悪い青白い顔で、ゆらゆら踊るように動き、あーあー言っている。そうだ、そうだ。

 昨朝の通勤時間帯に、隕石が地球上空を通過した。それは怪しい光を放ち、その時目を開いていたあらゆる人間はゾンビと化してしまったのだ。ちょうどその時間、ドロップアウトして眠っていた私は謎の光を目にすることなく難を逃れた。昼過ぎに起きて、いつものニュースキャスターが青白い顔で「あーあー」と何を言っているのだかまるで分からなかったけれど、字幕テロップを見て状況を知り、窓の外を見てそれが事実なのだと理解して、気絶したのだ。ショックを受けると短期健忘の症状が出るって本当だったんだなあと、へんに感心しながら街を歩く。スーパーの品揃えもいつも通りだし、途中の路面店で買ったクレープも変らぬ味だ。ただ、メニューにないものを注文してみると、「あーあー」と店員は露骨にうろたえ、右往左往するばかりだった。

 噴水前のベンチに座り糖分を摂取しながら状況を整理する。

 あの発生時間帯だと、通勤通学に当たる日本ではほぼすべての人が感染したと考えていいだろう。そしてゾンビ化すると自発思考を失い、それまでのルーティンを繰り返すようになるらしい。真面目な日本人は平時と変らず仕事や学校へ行っているようで、物の流通にも特に影響はないらしい。自らを振り返ると、確かに働いていた時もすでにゾンビみたいなもんだったものなあとしみじみ思う。見上げると、飛行機もいつも通り飛んでいる。

 ただ、思考能力がなくなったから誰かの悪口を言い合うこともないし、仮に言われても「あーあー」だからノーダメージである。

「うひっ☆」

 楽しくて思わずへんな声を出してしまう。それでも誰も振り返りもしない。自由だ! さいわいゾンビ達が働き続けるから不便はないし、日常生活のレベルを落とすこともない。彼らを壊さない程度にうまく使っていけば、問題なし。よし、映画でも観にいくか。

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