第9話 常識的行動

「安楽死の問題は、生殺与奪の問題に絡んでくるので、倫理観がそのまま善悪の問題に関わってくる。それを思うと、本当であれば、

「神の領域」

 ということになるのだろうが、前述のようなことを考えてしまうと、神の存在を疑問に思っても無理もないことではないだろうか。

「ノアの箱舟や、ソドムの村の話など、明らかに生殺与奪の権利というよりも、創造主としての責任」

 という発想ではないだろうか。

 権利というよりも、責任ということにしてしまうと、生殺与奪を神であれば、支配できるものだという信憑性を持つことができるだろう。責任というのは、そういう意味では都合のいい言葉としても使うことができる。聖書などの聖典が、神をも支配できる力を持った人間がいるという発想を抱かせるのだ。

「人間が神によって作られたのであれば、神はさらに神をも超えた人間によって創造されたものだ」

 という考え方だ。

 ということは、

「神を後ろ盾にして、生殺与奪の権利を与えられたということにすれば、尊厳死も言い訳がつくのではないか?」

 と思ったが、おっとどっこい、そうは問屋が許さない。

 ほとんどの宗教では、人間が人間の命を奪うことを戒めている。モーゼの提唱した、

「十戒」

 というものの中に、

「人を殺めるなかれ」

 という戒めがある。

 そして、キリスト教では、自殺を許していない。つまり、自分の命であっても、自由にはできないという発想である。

 そういう意味では神というものは、人間社会において、融通を利かせていない。人間にとって、神というのは、どういう存在なのだろうか? 本当に存在するとすれば、人間が勝手に想像していることをどのように感じているだろう。

 ただ、聖書の世界の中に、

「バベルの塔」

 の話が出てくると、この話は、権力をまわりに認めさせたいという欲を持った国王が、人海戦術で、

「世界で一番高い塔」

 を作って、自分の権勢をひけらかそうという意思を持って、塔を作ったのだが、もう一つの意識として、

「神に近づく」

 という意識があったようだ。

 そこで、塔がある程度完成した時、空に向かって弓矢を撃った。それを見ていた神が、

「人間事気が、こざかしい」

 とばかりに、怒りから、塔を壊して、さらに、それまで共通語で話をしていた人類と、言葉が通じないようにしたことで、人類は世界に広がったという話であった。

 これにはいくつかの解釈がある。言葉が通じなくすることが、どれほど人間にとって疑心暗鬼に陥ることで、恐怖を煽るかということである。まるで前がまったく見えない暗黒の中に放り込まれたかのように感じたのではないだろうか。何しろ、たった今まで会話ができた相手が、何を言っているのか分からない時点で、自分の意志が通用しない。言葉が通じることを当然のように思っていたのに、いきなり何を言っているのか分からない状態に陥れば、これほど怖いものはないだろう。

 つまり、言葉というものがどれほど人間の信頼と絆を結んでいたかということを示していると思う。神の逆鱗で、言葉が通じなくされたと考えると、逆に言葉というものがどれほど大切なものであるかということを教えてくれているようなものだろう。

 人間と神との関係、それを家族に当て嵌めて考える人もいる。

「親というのは、子供にとっては、神のようなものだ」

 という考えがあるが、それが昔の古臭い考えだと思うと、苛立ちを感じさせる。

 その思いがあるからなのか、神というものを都合のいい存在だと考えるのは、無理もないことなのかも知れない。

「君は父親にかなりのコンプレックスを感じているようだけど?」

 と十勝氏から聞かれた。

「コンプレックス? そんなものは感じないが?」

 と少しむくれたように答えた。

「そうそう、その態度がコンプレックスを感じさせるんだよ。コンプレックスというのは、自分が相手に劣っているところがあるから感じるのだが、だけどコンプレックスを感じ続けることができるということは、自分の中に、相手には負けない何かがあるということを自覚していないとできないことだとも思う。だから、君もそんなに怒りを感じる必要はないと思うぞ」

 と十勝氏は言った。

「しかも。そのコンプレックスというのは、劣る部分と勝っていると思っている部分が表裏であって、結構違うものに感じるけど、実はすぐ裏に潜んでいたりするものなんだよ」

 と一瞬考えている誠也を抑えて、十勝氏は続けた。

「それは、短所と長所は紙一重と言われるけど、それと同じような発想なのかな? 僕は長所と短所を表裏の関係だと思っているので今の話を訊くと、コンプレックスの原因は、長所と短所を短所の方から感じた時に生まれてくる発想なのではないのかな?」

 というと、それを訊いた十勝氏は、

「そうなんだよ。君がコンプレックスを親に感じるということは、長所と短所を分かってもらいたいという無言の訴えなのではないかと思うんだ。つまりは、君は自己主張が高く、特に家族に対して、分かってもらえることを前提に考えているのではないか? それもありだとは思うのだが、強すぎるのはどうかと思うぞ。過ぎたるは及ばざるがごとしというではないか」

 と、いう意見であった、

 もし、この話は自分でなければ分からないだろう。

 もし、他の人では分からないというのは、理由は微妙に違っているようだが、お互いに親に対して苛立ちを持っている人間だからである、

「類は友を呼ぶ」

 というが、まさにその通りであろう。

 そんなことを考えていると、

「俺は真剣、親を殺そうと思ったことがあったんだ」

 というではないか。

「それはどういう時なんだい?」

 と誠也が訊くと、

「それが、今から思うと、何でそんな大したことのないどうでもいいような理由で殺そうなんて思ったのかと思ったんだよね」

「というと?」

「要するに、どうでもいい時の方が、急に怒りがこみあげてくることがあるので、よく親を殺した子供が、放心状態になって、まるで自分がやったことではない他人事のような顔になっているというのも、分かる気がするんだ。意外と行動に出るという時は、衝動的なことが多いのではないかと思うんだよ」

 と十勝氏は言った。

「きっと、いろいろ計画し、考えている時は時間の経過とともに、感情が和らいでいって、実際に手を下すことの恐ろしさを自覚できるようになるんじゃないんでしょうか?」

 と誠也がいうと、

「それは言えると思うね。そういう意味では殺人などの凶悪犯罪の中で衝動的な犯罪というのは、後になって犯人がその時のことを思い出せないというけど、それも無理もないことだと思うんだ。本人に殺意があったのかどうかも定かではないほどで、だから、逆に立ちが悪いと思うんだ。何しろ殺意がないと認定されると、情状酌量されるわけでしょう? それって、被害者側からすれば、溜まったものではないですからね」

 と、十勝氏は言ったが、まさにその通りだと、含みを持って頷いて見せた。

「でも、十勝さんは結局、殺さなかったんですよね? それは思いとどまったということなんですか?」

 と、誠也が訊くと、

「思いとどまったという言い方とは少し違っているような気がするな。思いとどまっているわけではなく、途中で、本当の怒りがどこなのか分からなくなったんだよ」

「何かきっかけがあったんですかね?」

「ああ、きっかけはあった。それは、自分の怒りと、殺してしまった時のリアルな感情を比較しようと思って、そのどちらをも思い出そうとして、それができなかった時に、感じたのが、親を殺したとしても、そこに何の意義があるのかと感じたのがきっかけではなかったかな?」

 と言った。

「じゃあ、これが尊厳死だとすると、どうしますか?」

 と訊かれて。

「やるわけはないさ。嫌いな人間のために、なんで自分がリスクを負わなければいけないんだ?」

 と十勝は言ったが、そのトーンは明らかに低かった。

「だけど、実際にその場に居合わせたら……」

 と小さな声で呟いた。

「理屈はどうであれ、実際に目の前で苦しんでいる人を見ると、放ってはおけなくなるだろうと思うんだ。それは自分に置き換えて考えるからであって、自分がこの人だったらどう思うだろう? と感じるからであって、苦しみから救ってほしいと思うのが分かれば、何とかしたいと思うかも知れないな。とにかく、その場面になってみなければ、何とも言えない」

 と、十勝氏は言った。

「十勝さんも、ずっと入退院を繰り返してきているので、苦しんでいる人を少なからず見てきているんでしょう? それを思うと、身につまされる思いですよ」

 と誠也がいうと、十勝氏は少し考えながら、

「これはいくら他人のそういう悲劇的な場面を見たとしても、自分の本心が分かるわけではない。血の繋がりを真剣に信じているわけではないが、この場合は血の繋がりのある人でないと感じることのできないものではないかと思う。本当に感じることができるのは、親ではないかと、悔しいがそう思うんだ」

 と、苦み走った顔で、少し興奮気味にいうのであった。

「誠也君は、父親を殺したいと思ったことはあるかね?」

 と訊かれて、

「ええ、ありますよ。でも、すぐにどうしてそう思ったのかということを考えようと思った瞬間に、そんなことを考えていたことがまるでウソだったように思うんです。そして、考えたきっかけを考えるのって、いつも一番最初なんです。だから、意識を感じる前に収束してしまう感覚に、まるで最初から何も感じていないかのように思った時、急に懐かしい感情に陥るんです」

「それは、デジャブに似たものなのかも知れないね。以前に感じたことのある思いだと訳もなく認識するという感覚だよね。でも、そう想うと、最初に感じようとしたのとほぼ同時に感じる正反対の感覚で、思おうとしたことを打ち消す感覚、それは最初からなかったということでありながら、一瞬でも孫座下思いのどちらが強かったのか、あるいは、引き合ったどちらに強く向いた時に感じるものなのか、それらを一瞬にして感じようとした思いが、さまざまな意識として心の中に渦巻いたことで、多すぎる感覚を制御できなくなってしまったのではないだろうか」

 と十勝氏は答えた。

 誠也も結構的を捉えて話をしているように感じていたが。それにしても、十勝の発想は誠也の想っている感覚の二つくらい先を歩んでいる。

「そういえば、以前読んだ小説の中で、『五分前を進んでいる自分』という発想の本を読んだことがあったな。自分はそのもう一人の自分の存在を知っていて、自分の彼女のところに行くと、最初の頃は、また来たの? と訊かれて、今日初めてだというと、訝しい顔をしていたが、そういうことが何度かあると、次第に何分か前の自分が存在していることに気づくんだ。そして、二人の自分を知っている彼女は次第に疑心暗鬼に陥ってくる。性格も雰囲気もまったく同じ人間が別に存在していて、二人がいつも同じ時間差で現れる、そのうちに、一人しか現れなくなり、彼女は大いに不安に感じるのだった。それは、彼女が自分の気持ちの中で一人の、どちらかの自分を抹消したからであって、抹消できてしまったことに彼女は恐ろしさを感じていたというものなんだ」

 と十勝が言った。

「面白そうな話ですね。でも、何が言いたいんだろう?」

「結局、どちらかの主人公を自分の中で殺すということは、結果的にはどちらも抹殺することになると思っていたんだ。だけど、結局、抹殺なんかすることはできないので、自分の意識から出てこないようにしただけである。それを抹殺したように思うということは、無理に自分の尺度で図ろうとしても、結局自分の中での本性は自分のことが分かっているように、理解できるよう、都合をつけてくれる。この世の中で理解できないことは本当はないのだけれど、自分が理解できないと思っていることがネックとなって、無理をさせられないという意識が、辻褄を合わせるようにするのかも知れない」

 というのが、十勝の考え方だった。

 話は難しそうに聞こえたが、どんなに簡単に話しても、難しくなってしまうので、それも仕方のないことだった。

 その時、

「少し関係のない話なんだけど」

 と言って、少し愚痴っぽい話を十勝氏はしていた。

 それは数年前に、謎の伝染病が流行り、世界的な感染爆発が起こっていた頃の話だという。その伝染病は、ほとんどが飛沫感染によるもので、マスクや消毒をしていれば、完全ではないが、防げるということで、そもそも特効薬もなかったので、それしか方法のない時期だった。

 十勝氏は、馴染みのカフェがあり、その伝染病が流行り始める前からの常連だったという。しかし、一度落ち着いても、一月もしないうちにリバウンドして、気が付けば前に流行ったときよりも人が増えていたりした。

 店には国から時短営業を要請され、飲食店などは、感染対策をしていたのだが、ある日、普段通りに、店に寄った時、入店してからしばらくしてから、店員が一枚の紙を持ってきて、申し訳なさそうな顔で、こう言った。

「すみません、これをお読みください。そして、申し訳ないんですが、お会計を」

 というではないか。

 こちらは、何か店に迷惑でもかけるようなことでもしたのかと思ってビックリしていると、何と、

「お客様は咳を何度かされているので、他のお客様に迷惑が掛かったり、うちのスタッフが安心して対応できませんので、咳を治してからご来店ください」

 と書いてあったという。

「俺はちゃんと、マスクもしていたし、アルコール消毒、毎日の検温、さらに、ソーシャルディスタンスも保っているのに、どういうことだ」

 と言って、愚痴を言っていた。

 さらに、彼は、

「その店は政府の指示する感染対策も中途半端だった。手のアルコール消毒はするが、検温はしないし、カウンター席にもテーブル席にもアクリル板が一つもない。こんな中途半端な対応しかしていない店から言われたくない」

 ということを言っていた。

 それに彼はその時、自分が一番感染対策を催していると自負していたようだ。それだけに、まさか自分が店を追い出されることになるとは思ってもみなかったという。

 それはそうだろう。中途半端なことしかしてないやつから、咳を何度かしたと言っても、ちゃんとマスクもしているし、蜜にならないように、決してカウンターには座らないようにまでしているし、食事の時も口に食べ物を入れる時だけマスクをずらすということまで徹底していた。

「そこまでする必要はないよ」

 と言われていた自分が、一度入店している店から、追い出されるとは思わなかったという。

「ひょっとしたら、俺はその店で嫌われていたのかも知れないな。本当は来てほしくない客で、咳をしたのを幸いに因縁をつけて、気分が害させてこないようにさせようと企んだのかも知れないな」

 と言っていた。

「まさか、そんなことはないかも知れないがね」

 と言いはしたが、当時の世の中は未知のウイルスに対してナーバスになっていた。

 そのせいもあってか、しばらく、気分の悪い時期が続いたという。だが、十勝氏はそれまでは結構温和な性格だということで有名だったと、自分で言っていたが、それがそんなことがあってから、飲食店にいくつかの種類の店に対して、偏見を持つようになった。

 だから、人に誘われてもいくことはない。

 実はこの話を、よほどネットに乗せて呟いてやろうかと思ったが、実名は出せないし、呟いたとしても、賛否両論あり、極端な意見も少なくはないので、自分も死ぬくらいの覚悟がなければ、ダメだろう。

 つまりは心中である。

 それを思い出した時、ここでの尊厳死、あるいは安楽死というものも、加担するのであれば、当然のことながら、問題が発生した時、自分にすべての批判が向くかも知れないということを覚悟しておかなければいけないと思った。まさか、自分が、あれだけ対策を取っていた自分が言われるのだから、それは冗談ではないことである。

 暴露すれば、少しは留飲が下がるかも知れないが、一歩間違えれば、自分も死ぬことになる。心中ではないが、もろともという意味での、

「心中ずるくらいの覚悟」

 という言葉がピッタリであろう。

 さすがに心中する覚悟もないのと、大人としての態度が、いわゆる常識になるということで、誠也は、それ以上を、

「屈辱的な経験の一つ」

 ということで、記憶の奥に封印することにした。

 尊厳死というものと、五分前の自分という発想で、五分前の自分の存在を考えた時、どうしても意識するのが、ドッペルゲンガーというものの存在だった。ドッペルゲンガーというものは、いくつかの存在条件があるという、そのうちの一つに、

「ドッペルゲンガーというものは、喋らない」

 と言われていることが、今回の五分前の自分には当てはまらないことだった。

 自分の彼女は、その人と会話をしたという。しかも、まったく同じ行動を自分がするので、五分後の行動パターンが分かるというので、対応が取りやすいという。

 しかし、彼女には一つ懸念があった。

「今は、五分後にあなたが叶わず現れるから、五分前のあなたが、その時の存在していると分かるんだけど、もし、五分後にあなたが現れなければ、どういうことになるのかを考えてみると、これほど怖いことはないのよ」

 というではないか?

「どういうことなの?」

 と聞くと、

「五分後にあなたが現れることで、あなたの存在が五分後になって、間違いではなかったと感じるのよ。でも、もし、五分後にあなたが来なかったら、あるいは別の行動をとったとすれば、あなたか、私のどちらかに問題が生じたことになる、つまり、ひょっとすると、私はその瞬間、五分後の私と入れ替わっているかも知れないし、あるいは、立場が逆転しているか何かで、あなたが、今度は二人の私を意識するようになるのかも知れないと思ってね」

 と彼女はいうではないか。

 つまり、時間を飛び越える存在の自分は、ドッペルゲンガーではありえないということだ。むしろ、二人とも本当の自分であり、どちらかが、どちらかの自分の生殺与奪の権利を持っているのではないかと思う。

 発想がかなり奇抜であるが、そもそもドッペルゲンガーというのも、発想としては奇抜なものであり、同じ空間で同じ時間に存在できるはずのない人間の存在を表そうとするのだから、理屈だけでは理解できない何かが存在しているのではないかと思うのだった。

 そこで考えたのが、今回、屈辱的な思いをした例の伝染病であるが、それは菌ではなく、ウイルスであった。

 流行り始めて、ちょうど一年くらいが経っていたので、第三波が収束したかと思えば、落ち着く間もなく第四波が襲来してきた。

 その頃には、

「変異種株」

 と呼ばれるものが出てきて、追いかけてきたものが姿を変えて、レベルアップしているのだ。

 ウイルスとしても、必死で生きようとするので、変異しても不思議ではない。それはまるでウイルス対策ソフトと、コンピュータウイルスとの闘いのようであり、毎回逃げれば追いかけるというような、距離の縮まらない競争を日夜繰り広げている永遠に終わることのない戦いに似ていた。

 さらにそれに尊厳死の考え方を当て嵌めると、尊厳死を認めるかどうか、確かに考え方は人それぞれであるし、尊厳死というものに対して、本当であれば、直面して自分がまとめなければいけない人たちが、ずっとその責任から逃れ、問題意識を取らないようにここまで引き延ばしてきたと言ってもいい。

 五分前の自分も、五分後の自分もどちらをも知っている彼女のような人が、尊厳死というものを、自分の関わるべき問題だとして考えたとすれば、その結論は意外をすぐに見つかるもののように思えてならなかった。

 五分間というものが、長いか短いかというと、一番中途半端な時間に感じられる。そういえば、最近の誠也は、中途半端という考えを、何かをテーマに考察している時、感じているような気がした。

 その中途半端という発想も微妙で、何に対して中途半端なのか、そして、その元になるものが本当に中途半端ではない、限りなく、完全に近いというものではないかと考えるのだった。

 そのことを考えていると、ずっと先を見ているつもりで、気が付けば、時間が戻ってしまっているのではないかと思うことがあった。それこそ輪廻の考え方で、ウイルスソフトの発想、さらには屈辱的な経験、そして、五分前の自分とに結び付いてくる。

 限りなく中途派のはない状態にして、繰り返している自分を意識の中で捉えることができると、尊厳死というものへの発想が、本当は正解ではないかと感じるように思えるのだった。

 さらに、父という人間が、ひょっとすると、数十年後の自分だと考えることが、どうしても自分であってほしくないということで、必死でその存在を消そうと思いながらも、逆らうことのできない運命のようなものを感じるのだろう。

 今、尊厳死であったり、安楽死という発想を抱いている時、まわりからそんな話を訊かされたのは、まるで自分の願望を促進しているかのようだった。聞いたという話も実は自分の心の声を他人の口を介して改めて聞かされたかのように思えるのは、一体どういうことなのだろうか?

 しばらくして父親が亡くなった。死亡原因に関しては、病院は公表しない。死因に関しては報告書に命じされていたが、どこかに疑えばいくらでもおかしな部分はあるようだった。

 だが、誰もそれに関して言及しようということはない。知らぬふりをしていると言ってもいいだろう。影のようなウワサが燻っているが、まるで都市伝説の類だった。

「この病院には、昔からそういうのがあるのよ」

 と看護婦は話していたが、どうやら、入院患者のほとんどが、それを知っていてわざとこの病院に入院しているようだ。

 それにはいろいろ理由があるというが、そのほとんどは、この世に残す家族の幸せを祈るなどということはなく、天国だか地獄だか分からないが、すべてをあの世に持っていくというものであった。これも一種の尊厳死とでもいうのだろうか? 親子、家族の確執を、凝縮した思いを持って、この病院で最期を迎えた人は、一体何を、あの世で考えているのだろう……。


                 (  完  )

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

尊厳死の意味 森本 晃次 @kakku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ