第8話 死に対しての選択

 父の入院を気にしていると、関係ないはずなのに、自分も体調が悪くなってきた。最近は胃の具合が悪くなることがあったので、通院を余儀なくされた。個人の胃腸科病院に通っていたが、胃潰瘍から手術を受けることを勧められたため、大学病院を紹介された。基本的には薬で散らすこともできるらしいが、腫瘍になっているので、手術が手っ取り早く、その方が金銭的にもお金がかからなくていいということで、手術を行ってもらうような病院に行って、検査入院をしている時、一人の男性と知り合った。

 その男性は、入院期間も長いらしい。しかも、何度か入退院を繰り返していて、まるで長老のようだと言って笑っていたような人だ。

 病気は、さすがに不治の病であったり、いきなり急変したりするような危ない病気ではないのだが、子供の頃から患っているもののようで、大人になっても完治しなかったことから、医者から、

「これからは、うまく病気と付き合って生きていくように考えていけばいいよ。何、子供の頃から続けている今の状態をそのまま続けて行けばいいだけだ。だから、危ないわけでもないので、入院すると言っても検査入院のようなものなので、気楽にしていればいいよ。だけど、検査を甘く見ているとそっちの方が危険なので、定期的に来なければいけないということだけを頭に置いて、生活すればいいよ」

 と言われているらしい。

 だから、

「俺は、家にいる時と病院にいる時と、そんなに変わらない気がするんだ。だから、病院が第二の故郷みたいな感じで、せっかくだから、病院の主にでもなったような気になっているくらいなんだ」

 というその人は年齢的には誠也よりも少し上くらいではないだろうか。

「名前は、十勝っていうんだ。年齢は二十五歳になったところ、君より少し上くらいかな?」

 と言っていた。

 十勝がいうには、

「僕は小学生の頃からずっとこの病院の世話になっているので、気分は主のような感じだよ。総合病院なのでいろいろな患者も見てきたし、先生も見てきた。十歳くらいの頃から入退院を繰り返しているので、人生の半分はこの生活だね。先生のいうように実際にこの生活には慣れてきたし、子供の頃は親が変に気を遣っていたんだけど、今から思えばそれが嫌だった。初めてこの病院に来てから今までの間で一番嫌だったことは、親が変に気を遣っていることかな? 親が変に気を遣うと、まわりの同級生の連中は詳しいことを知らないので、自分が甘やかされているというぁ。学校の先生からも贔屓されたりしているように見えるのか、まわりの目が辛かった。だから、僕はあの頃から親が嫌いだったんだ」

 と十勝は言った。

「君も親が嫌いなんだね?」

 と誠也がいうと、十勝は興奮したように、

「君もか? 僕は子供の頃から親のことを嫌っている人と話をしてみたいとずっと昔から思っていたんだ。だから、君と知り合いになれてよかったと思っているよ」

 と十勝がいうと、

「君はどうして、そんなに親を毛嫌いしたような言い方をするんだい? 僕の場合は、お互いに考え方が違って、僕にはどうしても相いれない結界のようなものが見えていて、その存在を親子だからありなんじゃないかと思うようになったんだけど、親はそれを認めようとしないんだ。だから、それを思うと、僕はいたたまれなくなってしまうんだよ」

 というと、

「なるほど、君の考えとしては、親だって自分と同じ世代を過ごしてきているはずなので、分かるはずだという思いがあるわけだよね? でも、それは逆にいえば、親から見れば、今の君の年齢から親の年齢までを知らないわけだろう? その先を知っている先輩として言っているのかも知れない。何しろ、人間は絶対に年齢を追いつくことはできないんだからね。一気に年を二つ取ったり、二年間で一つしか年を摂らなかったりできるわけではないからね」

 と言った。

 その言葉には目からうろこが落ちた気がしたが、同じように親が嫌いだと言っている人から言われたくはなかった。

「君は一体親の何が嫌いだというんだい? 僕とは違う気がするんだけど?」

 と聞くと、

「違うわけではないだ。ただ。親の理屈も分かったうえで、さらに俺は親のことが嫌いなんだ。だから、自分の方が悪いのではないかとも思うのだが、結界という部分に親子だからこそ、分からない何かがあるのではないかとさえ思うんだよな」

 と十勝は言った。

「僕の親はとにかく厳格で、まるで祖父がそうだったのではないかという思うがするほど、いかにも昭和を思わせる人なんだよ。昭和というのは、高度成長時代くらいの時代で、テーブルの代わりにちゃぶ台が置いてあるようなイメージのね。浴衣をいつも着ていて、、時々片手で、新聞を読んでいるその姿を思い浮かべるとちょうどいいかも知れない」

 実際に誠也もちゃぶ台など見たことはなかったが、長寿番組のアニメなどでは、いまだに時代はちゃぶ台が置いてある時代であり、テレビのリモコンなどもなく、チャンネルは、テレビのブラウン管の下にある丸くなったつまみ状のものを秘めるという、今では考えられないものだった。

 家の入口には玄関があり、その玄関は木でできたガラスがはめ込まれていて、スライド状になって横に滑る扉があった。今であれば、十分老朽化してしまっていて、ほとんどの家が建て替えられたりして、今では見ることのできないものになっていた。

 生まれた頃から、ほとんどがマンション住まいで、一軒家にすら住んだことのない誠也には、アニメのイメージは斬新なはずなのに、あまりにもイメージが湧かないせいか、画面上に映し出された光景が、すべてのように思うのだった。

 だが、今から思えば、昔風の造りの家に子供の頃に行ったことがあったような気がした。確か友達の家であったが、父親は少々名の通った会社の社長をしているようで、屋敷も和風と洋風の建物がそれぞれにあった。和風の方は、政財界の人の別荘をイメージして作られたようで、その建物を垣間見ると、子供心に見たことがあったわけではないのに、どこか懐かしさがあり、違和感がなかったのだ。

 そもそも違和感というのは、矛盾した気持ちの上に成り立っているものだと思っていることで、その時に感じたのは、

「矛盾というものを感じたわけではなかった」

 というものだった。

 そんな日本庭園のような家と対になって建てられている西洋館風の建物は、日本家屋と違った重々しさがあった。

 日本家屋は別荘の雰囲気で、庭も本当の日本庭園も模したもので、庭木の手入れも行き届いていて、奥には池もあった。

 そういう意味で豪華さによる重々しさと言ってもいいだろう。

 しかし、西洋館の方は、その名の通りの雰囲気による重々しさであった。

 絶えず綺麗に手入れされている日本家屋とは違い、コンクリートの壁が雨ざらしになっているかのようで、まるでツタでも絡んでいるかのようであった。

 こちらは別荘というよりも、まるで廃屋のような感じで、

「ここに人なんか住めるのか?」

 と思うくらいのところで、まだらになった壁が、重々しさを感じさせるのだった。

 中に入ったことがないので何とも言えないが、昔の映画のロケでもできそうで、映画のジャンルもホラーであろう。

「そうだ、昔の隔離病棟というのをテレビで見たことがあったような気がする」

 と、これは当時思ったことではなく。今思い出すと、感じることであった。

 ただその時は、

「こんな建物、以前にも見たことがあったような気がするな」

 と感じたのだったが、日本家屋とのギャップにどんな意味があったのか、聞くに聞けないこととして感じていたので、後になって気にするくらいだったら、

「どうして、あの時に聞いておかなかったんだろう?」

 と感じた。

 あの時に聞いていて、今すっきりできるような回答が得られたという気はしない。

 むしろ、

「何が納得できるような回答なんだろう?」

 と感じさせるほどで、大人になってから、数多くの納得できなかったことが大人になって解決されたことも数多い。

 だが、あの時、何を知りたかったのか、それは思い出せなかった。それでもあの光景は時々思い出す。

 脳裏の奥にある光景を思い出してみると、今でも、あの時、

「初めて見る光景ではないような?」

 という意識がよみがえってきて、その感覚を思い出すためと、

「何が納得できるような回答なんだろう?」

 とが、交錯しているように思えるのだ。

 今から思えば、その建物が記憶に残っているわけではなかった。建物というよりも、そのまわりの光景がどうも以前に行ったことがある光景で、その光景の中にむしろその建物がなかったことで、却って記憶に残ったのではないかと思った。

 印象に残った部分が記憶に残っているのであればいざ知らず、それ以外の記憶が何か頭の中の記憶を打ち消しているのではないかと思わせるのだった。

 だが、今回思い出したのは、まわりの景色への記憶は重複したものだが、建物に関しては初めて見たものだったのだ。だから、余計に印象としては強く残っていたのだろうが、その記憶に残り方は、まわりの風景を含めた一つのものとしての記憶なのか、建物だけが独立した記憶なのか、そこまでは分からないが、たぶん、忘れてはいけないものだという意識が残っていたのかも知れない。

 そうでなければ、こんなに何年もしてから記憶の奥から引っ張り出されるわけもない。ただ、一度しか見たことがないはずなのに、記憶の中では複数回見たと感じるのは、他の景色に既視感があるからなのか、それとも、覚えていないだけで、夢の中で何度か見たという意識があって、それが既視感を抱かせているものなのか、そのどちらかではないのかと思うのだった。

 そんな奇妙な西洋館を思い出させるまでに、日本家屋を思い出させ、そこに持っていくためにちゃぶ台を連想さえ、今は訊くこともなくなったちゃぶ台という言葉さえ懐かしく思うほど、そのどれかに、誠也は思い入れがあったのではないだろうか。

 そんなことを考えていると、この間、入退院を繰り返している病院で、聞こえてきた話が気になってしまったのだ。

 その時の会話をしていたのは、一人の老人と、その息子に当たるのか、五十代くらいの男だった。

 誠也がその二人を意識したのは、その息子と思しき人が、自分が子供の頃の父親にソックリだったからである。それは顔が似ているという意味で、実際には性格はまったく違っているようで、むしろ、正反対なくらいであった。

 その男の父親は、痛々しいくらいの衰え方であった。髪の毛はすべてが真っ白であり、禿げ上がってはいないが、中途半端に残った白髪が痛々しさを醸し出していた。伸びすぎて、くせ毛になっているわけではなく、ドライヤーを使ってもどうしようのないほどの中途半端な長さを見ると、まず、髪の毛から痛々しさがこみあげてくるのだった。

 腰は完全に曲がっていて、まともに立ち上がることができないようだ。車いすに乗っていて、喫茶室に来て車いすから普通の椅子に乗りけえるのを息子が手伝っているのを見ると、ひとりではすでに何もできなくなっているのを感じ、さらに救いようのない侘しさが襲ってきたのだ。

「見るんじゃなかった」

 と思うほどの憔悴感があったが、見えてしまった以上、その二人から目が離せなくなった自分を感していた。

 老人が車いすから乗り換えたのは、その車いすが極端に低く作られているからだった。そのために椅子に腰かけなおさないと、顔がテーブルの下に来てしまい、そこでは何もできないからだった。

 その老人は、息子に抱えられ、何とか移動できたが、無言でしかもさりげなく行われている光景は、まったく力が入っていないようだった。すでに慣れ切ってしまっているのではないかと感じると、哀れさを感じさせた。それだけ、毎日のように違和感なくできるようになっているということは。果たしてこの息子は父親の介護をどれほど長く続けているというのだろうか。他人事であるが、身につまされる気がした。

――俺だったら、とっくにやめてるだろうな――

 と思った。

 一体どれだけの期間、こんなことを続けているのかと感じた時、この建物が急に寂れ方が激しくなってくるのを感じた。

 それは、まるで、これから数年後を想像しているのではないかと思ったのだ。

 その時、この二人はどうなっているというのか?

 相変わらず、今と同じ光景を示しているのではないかと思うとぞっとする。父親はどこまで疲弊してしまっているか。そして、それ以上に息子の変わりようを想像したくないと思っている自分を感じた。

――やはり、この息子に将来の自分を見ているのだろうか?

 と感じると、自分が父親の面倒を見ていることを想像できなかった。

 突き放してしまっているのを感じるが、面倒見ることは自分にとっての屈辱感を煽ることであり、そもそもそんな屈辱感を自分に植え付けたのは、父親ではないか。息子を頼れないような人間にしてしまったのは、父親の自業自得というものだ。

 しかし、放っておくわけにもいかない。面倒を見るという行為自体が嫌だというわけではなく。相手が父親だということで、子供の頃から許せないという意識を持ち、それをもベーションのように生きてきた自分にとって、手放しで父親の面倒を見るというのは、敗北感しかなかった。

 普通であれば、敗北感などあるはずはない。

 俺に面倒見てもらわなければいけないくらいに老いぼれた親に対して、これからは思う存分、これまでの分も上から目線で見れるんだ。『俺がいなければ生きていけないくせに』という思いを持つことで、積年の恨みを少しでも張らせたような気がするからだった。

 目の前の二人は、いつもの行動をとっているのだが、何か違和感があった。その違和感がどこから来るのか最初は分からなかったが、すぐに気が付いた。それは二人の間にまったく会話がなかったから。

 いつもであれば、会話がないまでも、息子が親を椅子に移しかえるその時に、

「よいしょ」

 などという掛け声のようなものが聞こえてきていたような気がしていたからだ。

 いつもなら、その声がないことにすぐに気付きそうな気がしていたのに、その日気付かなかったというのは、誠也自身まで、目の前の光景に意識が慣れてしまったということなのか?

 そんなに毎日のように見ているわけではないと思っていたが、意識していないだけで、本当は自分が思っているよりも頻繁にこの光景に遭遇していたのかも知れない。

 だが、会話がないと思った瞬間、まるで自分が会話がないということに気づくのを待っていたかのように、父親が口を開いた。

「おい、お前。俺が死んだら、骨を俺の田舎にある墓地の裏手の山から散骨してくれないか?」

 というではないか。

 その声は初めて聴いたような気がした。いつもは、

「よいしょ」

 という言葉くらいしか聴いたことがなかったと、いまさらのように思ったことで、さっき会話がないと感じたのは、この瞬間のことを予知していたからではないかと思ったのだ。

 それにしても、病院という場所で、死んでからの話をするというのは、リアリティがあって、生々しさが感じられる。

 息子はそれに対して、少し返事をしなかったが、

「分かった」

 と一言答えた。

 すると、親父の方は、

「これはわしも自分の父親から頼まれて、このわしも、親父の骨を散骨したものさ。だから、うちの墓に入っている骨には、誰も頭蓋骨がないのさ。頭蓋骨部分だけ別にして、砕いて散骨できるようにしてもらっているんだ。これは、生前の本人の意志なので、認められることなんだ」

 と言っていた。

 どうやら、この家は代々、そうやって死者を葬ってきたようだ。どこからそういう発想が生まれたのかは分からないが、その土地全員がそういう風習を受け継いできたのだとすれば、十分にありえることではないだろうか。

 田舎には、まだまだそういう風習が残っていると聞いたことがあるが、実際にそんなことを考え、伝承してきている人というのを初めて見た気がした。

 その時にも、確か古びた西洋館を意識したような気がする。それが日本家屋と同じ敷地内にある西洋館だという保証はないが、そんな珍しい佇愛の光景を、いくつも記憶しているとは思えない。やはり同じ場所の同じ建物であると考えるのが、妥当ではないのだろうか。

 誠也は、二人の会話を訊いて、何か恐ろしいものを感じた。かなり衰えているとはいえ、すでに死後の世界のことを考えている父親。もし自分がこれくらいの年齢になった時、死後の世界のことまで考えるだろうか?

 人生の最後の瞬間を思い浮かべるかも知れないが、そこから先は想像を絶するものだと思うのか、それとも、歩かないか分からないものを考えても仕方がないとして、ドライな考えを抱くのか、自分でもよく分からなかった。

「人間、先が見えてくると、きっと過去を振り返ってみる時間が長く感じれ、それ以外の時間があっという間に感じるんじゃないかな? だから、年を取るにつれて、どんどん時間が早く感じられるようになるって話を、以前誰かから聞いたことがあったな」

 と言っていたのは、十勝だった。

 その言葉を、親子を目撃したその時に思い出した気がしたのだが、その時にすでに、十勝からその話をされた後だったという意識がハッキリとしていなかったので、誠也は、

「どちらかがとってつけたかのような都合のいい意識として存在しているのではないだろうか?」

 と感じたような気がしていた。

「その時にだけど、父親の方がボソッと口にした言葉で、尊厳死という言葉があったんだ?」

「尊厳死?」

「ああ、人間というのは、生まれてくる時は親や環境は選べないだろう? だけど死ぬ時くらいは本人の意志を尊重してもいいのではないかという考え方だね。だけど一般的に使われるのは、安楽死を基本にした考え方だよね」

 と、十勝氏は言った。

「確かに生まれてくる時は、まったく選べないですよね。生まれながらにお金持ちであったり、国家元首でであったりする場合もあれば、貧困夫婦の間に生まれてみたり。ましてや、不倫の末に生まれてきたりした子供であったり、親が犯罪者などというと、スタートラインにも立てないまま、負を背負って人生を歩まなければいけない人もいる。それを思うと、やり切れない気持ちにもなりますよね」

「まったくそうだよね。だから、死ぬ時にも自由がないというのは、どういうことなのかって思ったりもする。宗教的には、なるほど、人間が人の死を決定してはいけないと言われているけど、それって、民主主義、自由主義と言っているのであれば、今際の際に自由がないというのはどういうことなんだろうって思うよね。安楽死だって、事前に本人が希望すれば、叶うような法律にしておけばいいような気がするんだけど」

 と十勝氏がいうと、

「でも、そうなると、故意に死を早める人も出てくるんじゃないですか? 遺産相続なんかが絡めば、昔のミステリーなどでは、殺し合いが起こったりするくらいなので、安楽死を装うくらいは、十分にありえることではないかと思いますからね」

「そこが難しいところなんだけど、安楽死で不公平に感じるのは、あくまでも、本人だけの問題に限りすぎているような気がするんだ。例えば植物人間になって、目を覚ます可能性はほとんどないと言われている人をいたずらに生命維持装置によって生きながらえらせていると、世話をしている家族の負担は計り知れないものがあるんじゃないですか? 肉体的にも精神的にも、さらに金銭的にも、どれをとってもいっぱいいっぱいですと」

 と十勝氏がいう。

「でも、判例とかでは、そこまでは規定していないんですよ、あくまでも、病状と本人の意志、そして、本人の苦しみ具合のすべてが満たされた時だけ、積極的な安楽死は認められていますからね」

 と誠也がいうと、

「この問題はかなり大きなものであり、しかも微妙なところがあるので、ここで話をしても結論は出ないと思うんだ。そこで、この間私が訊いた尊厳死という言葉だけど、親が息子に、自分が意識府営に陥ったら、そのまま楽にしてほしいと頼んでいたんだ」

 というではないか。

「それは、親権にそう言っていたんですかね?」

 と誠也が訊くと、

「それはそうでしょうね。こんな話を冗談で言えるわけもないし、実際に、やつれ切っていて、いつどうなるか分からないというオーラを醸し出している人ですからね。冗談ではにないと思いますよ」

 という十勝氏の話を訊いて、少し唸って上を見上げた誠也であったが、

「十勝さんの聞きたいのは、僕だったらどうするかということが聞きたいんでしょうか?」

 と聞くと、

「本音はそうだね。でもそこまでは求める気はないんだ。君の考え方を聞きたいだけなんだ」

 と言われたが、

「それは逆ではないですか? 自分の考えというものを明らかにする方が、自分ならどうするということを考えるよりも、よほど難しいような気がするんですけどね」

 というと、

「なるほど、君はそう思うんだね。でも、僕は逆なんだ。自分の意見や考え方があっての行動ではないかと思うんだけど、違うだろうか?」

「それは、普通の時であれば、それでもいいかも知れないけど、こういう究極の選択を迫られている時はむしろ逆で、考えをまとめる方が先であり、行動はその後だとという考えだとすれば、まず考えることとしては、自分の出した結論で『後悔をしないこと』じゃないかと思うんですよ。その考えがあるから、何かをする前に、考えがまとまったうえでないと、もし想像したことと違う事態が起こった時、対応できないですからな」

 と、誠也は言った。

「誠也君は、後悔をしたくないから、僕が先に考えをまとめてから行動だと思っているわけだね?」

 というので、

「本音はそこじゃないかと思うんです。だけど、それを悪いことだと言っているわけではありません。それが当然のことであり、その考えがなければ人間は簡単に行動に移る時に余計なことを考えすぎて動けなくなる。人間という動物は、無限の可能性の中から、無難な答えを見つけ出すことに関しては、驚異的な能力を持っていると思うんですよ。どんな動物にもできない。そしてこれから開発されるであろう電子頭脳であったり、ロボットなどには不可能なことではないかと思うんですよ」

 と、誠也は言った。

「じゃあ、どうして、誠也君は僕と意見が違うのかな?」

 と十勝氏に訊かれて、

「人間というのも、一つの動物の一種だという考え方です。動物というのは、その存在において、他の動物にはない特殊なものを、必ず一つは持っているものだろう? 人間に関しては。それが頭脳であり、考えることであり、判断することだと思うんだ。でも人間には他の動物のように本能が存在する。目立たないが、他の動物と同じくらいの力があると思っているんだ。だから、まず先に行動してから考えたとしても、それほど大きな失敗をしないものだろう? もちろん、失敗することもあるが、その場合は、自分の本能に対して、少なからずの疑問を抱いているからでhないかと思うんだよね。本当にできるんだろうか? と少しでも思うと、失敗する可能性はどんどん膨れ上がって、本能でも補えないのではないかという考えだね」

 と、誠也は言った。

「なるほど、今の話からすれば、確かに本能が考えよりも究極という考えは分かる気がする。でも、人間の他の動物にはない特化した能力と本能を比較するというのは、何か違う気がするんだ。この比較はあまり意味がないというか、平行線を描くようで、結論の出ない、数学でいう『解なし』なのではないかと思うんですよ」

 と、十勝氏は言った。

 だが、一つ言えることは、人間が思っているほど、本当に人間は、他のいかなる動物よりも高等な動物なのだろうかということである。知らないだけで、他にも人間よりも高等な動物はいるかも知れない。それが神というものではないかと思うのだが、誠也はその考えにも異論があった。

「神というものは、人間には見えないが、人間よりも高等な動物として君臨しているものではないか?」

 という考えであるが、誠也はそうではなかった。

「神というのも、しょせんは人間が創造したものであり、自分たちが同じ人間をコントロールする一種のプロパガンダとして、神という存在を作り上げ、そこに皆を誘導しようという考えではないか」

 ということであった。

 その証拠に、

「どうして、神がいるのに、戦争がなくならないんだ? しかも、今までに起こった戦争の原因として、宗教戦争がそのほとんどであることが証明しているではないか?」

 という意見であり、さらに、

「ギリシャ神話などの神話と呼ばれるものでは、存在する神は、人間よりも人間臭いところがある。つまり、人間のように嫉妬深く、自分お都合ばかりしか考えない存在」

 というイメージが中学時代に習った歴史で、最初からそう感じていた。

 さらに、聖書などの書物では、何度人間が粛清されているだろう。

「ノアの箱舟」

 は、一度人間を含めた世の中の生物をつがいを残して、そのほとんどを洪水によって死滅させるという発想である。

 いわゆる「浄化」というものであり、この発想は聖書だけではなく、他の宗教の聖典にはほとんどと言っても書かれている内容である。

 世界の動物を死滅させるなどという発想が、人間が慕っていて、戦争まで起こす原因となる神がそんなことをするのである。普通に平和な中で過ごしている人たちにとっては、考えられることではないだろう。

 そう考えると、人間の奥にある欲望が作り出したものが、神だと言えるのではないだろうか。

 自分たちの欲望を都合よく説明するという意味で、最初に神という架空の崇める象徴を作り出したうえで、自分の行動が非難されるようなものであれば、都合よく自分たちが作った神に責任をおっかぶせようという考えだとすれば、これこそ、

「人間臭い」

 と言えるだろう。

 神というのは、しょせんは人間が作り出した虚像であり、絶対に存在しないものだと確信していなければ出てこない発想ではないだろうか。

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