第2話

 その音は壊れていた。

 私は手に持っていたもの全てを床に投げ捨てる。真っすぐに部屋を突き進み、窓を開けた。

 瞬間、暴風が外から噴き出した。ばーっ、と雨粒が交じった風が、勢いよく頬を叩きつける。冷たい空気を、私は思い切り吸い込む。

 気持ち良かった。

 辺りはもう、すっかり暗い夜だ。目の前に広がる道路には、人影がほとんどない。街灯が薄く光を灯すだけだ。

 誰もいなくていい。真っ暗でいい。外の光なんて、そんなものは何もいらない。そう思った。

 きっと今、人に正気かと聞かれたら、私は自信を持って正気だと答えるだろう。

 正気で、冷静。

 多分、音に気づいて母がここに来るまで、そんなに時間はない。今にもこの部屋に飛び込んでくるかもしてない。

 それでもいい。

 たったの数秒間でもいい。

 例え世界は夜でも、この瞬間が、私にとっての朝だ。


 バタバタと部屋の外から音がする。母が階段を登ってきているのだろう。その激しい足音だけでも、焦りと怒りが伝わってくる。

 いつもの私だったら、きっと固まって縮こまる。けれど、何故だか今日は何も怖くなかった。私は落ち着いて窓を閉める。

 バンッ、と後方から音がした。母が部屋のドアを開けたのだ。

 「何っ……! してるのっ……?!」

 「何も?」

 平然と私が返すと、母は愕然としたように表情を固めた。

 怒っている母と、冷静な私。我が家では初めて見る構図だ。誰かが怒っている時、私がこんな風に堂々としていることは、今までになかったから。

 母は窓に目をやる。私がさっき閉めたばかりの窓。その周辺には、雨粒が細かく散っていた。

 掃除、大変だろうな。でも別に嫌じゃない。

 不思議な時間が流れる。母は言葉が見つからないのか、無言で私を見つめる。私は何食わぬ顔で立っている。

 やがて、はあ、と母があからさまに溜息をついた。私に背を向け、何も言わずに部屋を去っていく。

 それを確認して、私は先程投げ出したリュックのファスナーを引く。そこに勉強道具を手早く放り込んでいった。永遠に終わらないように思えた準備も、今度はあっけなく終了した。

 このくらい許してね、お母さん。私は別に、あなたに真正面から対抗しようって訳じゃないんだから。

 ここは多分、私の檻だ。この世にひとつしかない、私の空間。そして今は夜だ。この場所で自由に過ごせるからこそ、私は明日も外で息が吸える。逃げ場があると思えば、もう何も怖くない。

 全てはこの夜の闇が、飲み込んでくれるのだから。

 私は窓の付近を丁寧に拭いていく。窓を開けていたのが短い間だったからか、案外濡れていなかった。

 ひんやりとした空気と、全てを吹き飛ばしてくれるような雨と、何もかもを流していった雨水。

 この感覚は、きっと忘れちゃ駄目だ。外に出た時、私はこの光景を思い出して、前を向くのだから。

 逃げ場がないなら、作る。誰が何と言おうと、それは現実逃避なんて簡単な言葉では片付けられないはずだ。もし誰かがそう言うのなら、私はそいつを絶対に許しやしない。

 私は頭の中で、明日起きてからやることを整理する。明日も朝早くから授業がある。起きたらまず天気を確認して……。可能な限りひとりで学校に向かうけれど、無理そうだったら、母に送ってもらおう。

 そこまで考えて、床に目をやる。

 そこには、いつかの試験結果が散乱していた。点数だけはいい数学の解答用紙。

 少しも破られていない解答用紙が、床に落ちている。

 私は一枚一枚、それらを拾い上げる。

 別に思い切りが足りなかったわけではない。ただ、明日を殺すために今日があるのではないから、私は自分を潰さない。

 それでももし、また苦しくなったら私は再び窓を開ける。例えひとりでも、私のことは私が知っている。

 最低な明日を想像して、最高な明日の夜を夢に見て。

 私は静かに、眠りについた。

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私の中で笑うのは戦士だった 各務あやめ @ao1tsuki

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