私の中で笑うのは戦士だった

各務あやめ

第1話

 夜、10時。

 私は自室の隅っこでリュックに教科書を詰めていた。翌日の時間割を確認しながら、一冊一冊、本棚から抜き取ってリュックに入れる。それは私がこの世で最も嫌う作業のひとつだ。明日、自分が学校へ行くことを、それは暗示するのだから。

 意味も分からない涙が出るようになったのは、一体いつからだろう。

 リュックの底を覗き込む。そこには真っ暗な、真っ暗な闇が広がっていて、光なんて到底入り込む隙がない。私は明日も、朝、目を覚まして顔を洗って朝食を食べて髪を梳かして、この重たいリュックを全身で背負って、外に出る。

 想像するのも耐えられなかった。逃げるようにリュックのファスナーを勢いよく閉める。まだ準備は終わっていない。本棚には明日連れて行かれるはずの教科書や参考書がずらりと並んでいる。それでも今は、今だけは忘れたい。


 自室を出てリビングに行くと、そこには母がいてテレビを観ていた。母は私に気がつくと「ねえねえ、みっちゃん」と弾んだ声で話しかけてきた。

 「来週、試験あるでしょ? それ終わったら、お母さんと一緒にご飯食べに行こうか」

 私はその笑顔に応える気力もなかったが、母は私の浮かない表情にも気づかない様子で、楽しそうに続ける。

 「駅前に新しいレストランがオープンしたんだって! イタリアン、みっちゃんも好きでしょ?」

 母の声がやけに遠くで聞こえる気がする。食事か。ぼんやりと考えようとするけれど、まるで頭が働かない。思考の網に何かが掠りはすれど、そのまま通り抜けていくような感覚。口を開いても、うん、好き、と冴えない返事しか思いつかなかった。

 それでも母は意気揚々と続ける。

 「だからテスト、頑張―」

 って、という声は、突然気になり出したテレビの音と重なって、私は最後まで聞けなかった。出来ることなら、小さな子供みたいに耳を塞いでしまいたかった。

 テスト頑張って。

 もう何度言われてきたか。母の頑張れ頑張れと言う声を聞く程、私は何も出来なくなる。

 聞きたくない。何も、言いたくない。

 体は固まりきっている。何とか小さく顎を動かして、私は頷いた。母はその何倍も大きな動きで、力強く頷いた。

 見たくない。

 身を翻して、私はリビングから出る。

 お休み、と母が私の背中に向けて言った。

 お休み。

 

 逃げるように自室を出たのに、結局また戻ってきてしまった。照明のスイッチに手を伸ばしかけて、私はやめた。暗い部屋の中で、そのまましばらく棒立ちになる。

 私がこんなに怯えていることを母は知らない。私はいつだって、体裁だけは母の期待に応えるからだ。だから母は知らない。

 今、こうして泣いていることも。 

 頬を伝う涙の温かさに、また涙が流れてくる。   

 楽しみが出来たら、喜べばいい。応援してもらったら、そのままそれを力に変えてしまえばいい。

 それなのに何故、自分にはそれが出来ないのか。

 人に頑張れと言われる度、私は自分が結果を残せなかった時を想像してしまう。頑張ったね、と褒められる度、次に頑張れなかった時を恐れてしまう。

 私は先月の試験のことを回想する。採点された答案を先生から恐る恐る受け取り、震える手でそれを裏返した時、目の前が真っ暗になった。こんなこともあるよな、と一瞬自分を励まそうとして、すぐに母の顔が脳をか掠めて。―思い出すだけで、目が眩みそうになる。

 勉強じゃなくたって、私は昔からそうだった。いつだって、外見、人目を気にして。母に教わった常識や礼儀を過剰に日常で気を付けて、いつしか自分の本音を包み隠さず言える場所を失った。私は家族にも、友人にも、ありのままの自分を見せるのを怖がるようになった。

 私は暗闇の中で、よく目を凝らす。見ようとしても、明かりのない部屋ではほとんど何も捉えられない。もう私は、何をするにも行動出来ない。

 耳を澄ます。窓の外から、風が吹く音がする気がする。びゅうびゅうと、風が辺りを吹き荒らしている気がする。

 ガチャリ、と後方から音がした。

 私は驚いて振り向く。母の顔がそこにはあった。

 「ちょっと、電気点けてないの?」

 あ、と私が何か言う前に、母が照明のスイッチを押す。

 パッ、と部屋が明るくなった。私は思わず目を細める。

 「今夜、台風来るんだって。窓閉めてるよね?」

 「……閉めてるよ」

 さっきの風の音は、気のせいじゃなかった。風は、だんだんと強くなっている様だった。

 母は部屋の窓をぐるりと見渡して、ひとり満足げに頷く。

 「もし明日天気が悪くても、学校には車で送ってあげるからね、心配しないで」

 「……台風で、休みになればいいのに」

 小さな呟きだったけれど声に出して言ってしまってから、はっとした。母がこちらを振り向く。

 待って、違うんだよ、と何も違くないのに言おうとしたが、母の方が早かった。先程とは打って変わった低い声で、私に言葉を突き立てる。

 「何言ってるの、来週試験なんだし、授業がなくなって困るのはあなたでしょう、それとも体調が悪いの? 違うでしょう」

 早く寝なさい、と扉をパタンと閉めて部屋を出て行く。私はまたひとりになる。

 ―母は正しい。本当に正しい。

 でも、それならば私のこの気持ちは、間違ってるのか。

 間違ってる、あんたはただの意気地なしなんだよ、と自分を一蹴するには、私は弱いし、頭でっかちだ。

 母が点けた電気は煌々としていて、眩し過ぎた。


 ふと、私は思い当たる。

 勉強机の引き出しから、ファイリングされた前回の試験の解答用紙を取り出す。

 一番最初に目についたのは数学の解答用紙だった。90点、とそこには大きく書かれている。

 問題は点数なんかじゃない。きっと人は点数しか見ないけれど、私はその数字の裏でずっと頑張ってきた。でもその頑張りは、きっと自分の為じゃない。

 この紙切れ一枚が、今の自分をこれ程までに苦しめているのかと思うと、どうにもやり切れないのだ。

 こんな紙切れ一枚に、全てが委ねられているのが。

 両方の手で、紙をつまむ。いっせーの、と声を出すまでもなく、私は思いきり腕を引く。

 ビリッ、と脳内で音が響いた。

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