離陸

風原 嶺

離陸

 タービンエンジンの発する轟音が高まり、耳を聾する風圧となって駐機場に満ちる。

「いい音だ」

 夜通しの整備点検作業で凝り固まった背を伸ばし、村上は遥か頭上から吊り下げられた四基の巨大な金属の筒を見上げた。各翼のフラップが順にはためき、コックピット内で離陸前点検が進みつつあることを物語っている。ランディングギアから車止めが外され、その役目に似つかわしくないほど華奢に見える牽引車に繋がれて、機内のカーペットから外壁の塗装まですっかり磨き上げられたボーイング747はゆっくりとタクシーウェイに身を乗り出していった。

 主翼の向こうに現れた機首の上、ぐっと力強く盛り上がったコックピットの端の豆粒のようなスライド窓が引かれて白い手袋が大きく一振りされると、横一列に並んだ整備士たちは思い思いに腕やら布切れやらを振り回して応えた。射し初めた朝日が尾翼を舐める。そこに赤い国鳥のマークが無いことに未だ慣れない村上は、一抹の寂しさを覚えて目を細めた。

「おやっさん」

 焼け付く金属臭を残して先刻までの主が去った駐機場を、班長補佐の谷口が小走りに横切って来る。

「あれ、なんか不備ありましたかね」

 開口一番顔色を伺ってくる谷口に、昨夜来の疲れも手伝って村上は舌打ちしそうになった。

「何でだ」

「いえ、その」

 谷口が訝かしむのも無理はない。辺りを見回せば、夜を徹しての総点検をやり遂げた控えめながらも充実感を湛えた笑顔ばかりなのだ。

「これ、旅客課から届いてました」

 不機嫌な上司の予測不能なカミナリを避けるべく、彼宛ての社章入り封筒を両手で捧げ持ち目の前に差し出した。ああ、ともうう、ともつかない唸りを洩らして、村上はのろのろと封筒を手に取った。両手が空くや否や谷口は姿勢を正し、帽子をとって素早く頭を下げた。

「おつかれっした」

 叫ぶように挨拶すると、もう一度ちらと村上を見やってから、さも忙しいという様子で走り去ったが、手元の封筒を苦々しげに見下ろす村上はそんな部下の姿に気付く由もなかった。


「何言ってるの、北海道まで電車だのフェリーだのって、そんなの嫌ですよお父さん」

 極力さり気なく切り出したつもりが、妻には冗談にでも聞こえたらしく、一言の下に却下された。昨日の出勤前のことだ。

「ねえ、あちらはもう寒いかしら。空港に着いたら雪、なんてこともあるんでしょう」

「そんなこと、俺が知るわけないだろう」

 彼にとっては切実な提案をあっさりと退けられたことに憮然とした態度を隠し切れない愛想の無さで村上が応えれば、その顔を振り返りもせずに、長年の連れ合いは洋服箪笥をせわしなくかき回し続けている。

「そうねえ、もうこのコートも古くなったし、この際だから夫婦揃って新調するのはどうかしら。ねえ、お父さん」

「勝手にしろ」

 会話の噛み合わなさ加減など毛ほども気に留めず、心は既に明日の買い物で占められている妻を尻目に、村上は苦悩の溜息をこぼした。ついに、長年恐れていた事態が起きてしまったのだ。

「そうそう、飛行機の切符、なるべく早く予約して来てくださいよ。赤ちゃんていうのは、あっという間に大きくなっちゃうんだから」

 まるで一日遅れたら大人にでもなっているような言い草だ、と忌々しく思いながら、それでも遠く北海道に嫁いだ娘と生まれたばかりの初孫のことを考えると、照れくさいような、誇らしいような笑みが頬に湧いてくるのを村上は抑えられなかった。


 問題は、交通手段である。

 国内航空路の心臓部とも言える空港に四半世紀余りも勤めておりながら、村上は機上の人となった経験がないのだ。偶然ではない。頑なに避け続けてきた、努力の成果だ。

 村上は、航空機を愛している。そして、『ジャンボジェット』と称される巨大旅客機の運行の一翼を担っていることに、現場責任者として数年を経た今でも、身の引き締まるような緊張と歓喜を味わい続けている。

 幾千、幾万にも及ぶ小さな部品が精緻に組み合わさり、一分の狂いもなく作動することで四百トンを越える巨躯が空に駆け上がる様を仰ぎ見る度に、畏敬の念すら抱くほどだ。

 数々の難関試験を突破して、ジャンボ機の整備士としての資格を手にした時、空襲を経験したことのある村上の父親はその機体を製造した会社の名を聞いて辛そうに顔を背けたものだったが、戦後十年以上が過ぎてからこの国に生まれた村上にとって、その会社名は輝ける最新技術の殿堂を意味する以外のものではなかった。

 しかし、輝ける最新技術の結晶を整備して無事に飛ばせることと、それに乗り込み目的地まで宙を飛んでいくことでは意味が違う。

 いや、意味も理由もどうでもいい、ただ恐ろしいのだ。

「叩き上げの、オニ班長のおやっさんが、たかだか北海道まで飛べなくてどうするってんだ」

 ひとり残された駐機場の片隅、誰が聞くこともない強がりをこぼす村上の手の中で、二枚の航空券がぴりぴりと震えていた。


「おやっさん、明日からの有給、お孫さんに会いに行かれるんですよね」

 ざわざわと人の出入りする、昼下がりの整備士詰所。マーカーのインクと機械油で薄汚れたホワイトボードに来月の勤務シフト表を貼り出しながら、谷口が陽気に声をかけて来た。

「誰に聞いた、そんなこと」

「三班の杉田班長からです。おめでとうございます、これでついにおやっさんも爺さんに昇進ですね」

「てめえ、谷口、調子に乗りやがって」

 顔をしかめようとしたが、苦笑いにしかならない。初孫を祝われるのがこうも嬉しいものだとは。

「杉田のヤロウ、よけいなこと言いやがって。しょうがねえなぁ」

 照れ隠しに呟くと、既に目を通し終えた整備計画表をやたらとめくり返しながら谷口に背を向けた。

「大変だ、ナナロクが戻って来る」

 突然、詰所の扉が乱暴に開け放たれ、転がるようにして駆け込んで来た若い整備士が叫んだ。そう広くはない詰所が水を打ったように静まり返った。

「何便だ」

 一瞬の沈黙を破り、最初に動いたのは767担当の整備班長だった。

「福岡行き331便、およそ二十分前に離陸してます」

「原因は」

 首にかけていたインカムを耳にセットし直しながら、固い声で確認する。

「まだ不明、左エンジンが火を噴いたということです。交信は生きてます」

 悲鳴に近い上ずった返事が響く中、担当班のメンバーが駐機場に飛び出して行く。後を追いドアをくぐった村上の頭の中に、遠い過去の光景が広がっていった。



 その日、狭い詰所の中は立錐の余地もなく人で埋め尽くされていた。扉は開け放たれ、若い整備士たちは駐機場にまであふれ出し、じりじりと靴裏を炙る真夏の残照の中でただ呆然とことの成り行きを見守るばかりだった。

「ハイジャックじゃないのか」

 ベテランの整備士が部屋の中ほどで呟くのが部屋の外にいる者にもはっきりと聞こえた。

「なんで戻ってこない」

 反論するような、祈るような声が続く。応える者はいない。

 二十六年前の夏。沈む夕日と共に墜ちていった、切なる願い。村上は、ほんの駆け出しの整備士としてそこにいた。

 日が過ぎるに連れて、明けることの無い喪に服するが如き重苦しい空気の社内で、整備部門だけに異なる苛立ちが流れていた。

 墜落事故の原因は不明。政府からは、整備点検に万全を期せ、という厳重かつ一方的な勧告が出された。途切れることのない、一斉点検待ちの機体の列。いつ果てるとも知れない残業の日々。やがて伝えられた、事故機の製造会社社員による後部隔壁の修理ミス。なぜ、定期点検でミスを発見できなかったのか、安全基準が甘すぎたのではないか、押し寄せるバッシング。

 けれど、何があの機体の隔壁に、尾翼に大破壊をもたらしたのか、物言わぬ巨大システムと日々真向かい続ける技術者たちを納得させるに足る調査報告は、ついに伝えられることはなかった。



 安全神話はとうに失われた。フェイルセーフシステムには、穴が開いていた。

 滑走路脇の草地に並び、薄く雲の流れる南西の空を見上げる整備士の一団の中で、村上は額を流れるねばついた汗を作業着の袖で拭った。風はやや北西寄り、南からのアプローチには絶好の向かい風だ。

 慌ただしく駐機場を行き来する767担当の整備士たちの動きを見やり、村上は腕時計で時間を確認した。離陸からおよそ四十分。

滑走路を331便に譲るため、高度を上げて旋回に入る機影が上空を過ぎる。

 その時、傾きつつある陽光を受けて南西の空に現れた白く輝く小さな機影を、整備士たちの目は捕らえた。


 夕刻、格納庫で通常通りに点検作業を進める村上のところに、仕事上がりの杉田がやって来た。

「村上、聞いたか、331便のトラブルの原因」

「いや、まだだが」

「バードストライクだったそうだ」

「そうか」

 見合わせ、頷き合う二人の顔には、先刻までの張り詰め切った緊張の色はもうない。

 バードストライク。航行中のジェット機のエンジンに、鳥が吸い込まれて起きる事故である。航空機が高速で空を飛ぶものである以上、予測も避けることもできないトラブルだ。大事故に繋がる一因にもなり得るアクシデントではあるが、整備サイドのミスが原因ではないと言う事実は、現場責任者たちの心をほんの僅か軽くしていた。

「明日は北海道か、まあのんびりして来いや」

 そう言って帰っていく同僚の背中を見送りながら、村上は思いを巡らせた。

 航空機は、数え切れない人々の思いに支えられて飛ぶのだ。たとえ未知の事態に遭遇しようとも飛び続けられるようにと機材を設計する者の、巨大で複雑な航空機を持てる力の全てを尽くして目的地に向け操縦する者の、日常の心浮き立つ一場面として乗り込んでゆく旅客を見守る者の、彼らが通り過ぎてゆく空港施設を設える者の、錯綜する航空機を正しく安全な航路へと導く者の、次々と飛び立つ機体をひたすらに整備する者の手に支えられて、空へと駆け上がっていくのだ。


 翌日、真新しいコートを羽織った妻を連れ、自身も真新しい冬物のジャケットに身を包んだ村上は、お世辞にも颯爽とは言えない足取りで空港に現れた。

 一旅客として訪れるこの場所は、通い慣れた職場に繋がっているとは思えないほどよそよそしく改まった顔で彼らを迎えた。荷物を預け終えると、これから始まる試練への恐怖に手持ち無沙汰も加わって、落ち着かないことこの上もない。

 上階の通路を見渡せる吹き抜けのロビーにくぐもった搭乗案内が流れ、気の早い冬物の衣服に顔を上気させた旅客たちが機内へと通路を移動して行く。少しでも気持ちを落ち着けようと村上は窓側の席に陣取り、窮屈な窓から覗く目に馴染んだ景色に助けを求めでもするように視線を漂わせた。

 手に汗を滲ませて待ち構えることしばし、ついに離陸の時が来た。ゆっくりと景色が動き出し、誘導路に向けて大きく舵が切られると、窓の外に背後の駐機場が見えて来る。そこに、腕やら布切れやらを盛大に振り回す、作業着姿の小さな列。その列は、いつもより倍近く長かった。

 やがて、村上を乗せた機体は速度を上げ、雲ひとつない空へ悠々と駆け上がって行った。




-2008年作-


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離陸 風原 嶺 @ryoKazahara

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