心だけやさしくても

若いとき。バスや電車で、うまく席を譲れなかった。譲りたい気持ちはあるのに、恥ずかしいのかなんなのか、行動にうつせなかった。その度、人にやさしくできない自分に、自己嫌悪を感じていた。


そんなとき、新聞か何かで同じような悩みを打ち明けている人に、回答者がこんな風に答えているのを読んだ。


「譲りたい、と思っているあなたは、すでにやさしい人です」


その、誰かに向けられた言葉が、私を救っていた。譲ろうと思わないよりは、譲りたいと思える自分は、価値があるのだと。


だけど。やはり、心の中だけでやさしくても、ダメだ。


心の中で席を譲りたいと思っても、それは、目の前に立っている誰かのからだを労りはしない。年老いた人の、妊娠している人の、子連れの親御さんの、怪我をしている人の助けには、ならない。


譲りたいと思いはしても譲らない人の行動よりも、譲りたくはなくてもそれでも譲った人の行動は、やさしい。心の中だけでやさしい人の言動よりも、心の中では悪態をついているかもしれない人のやさしい言動が、世界をやさしい方向へと導くことは、ある。


心の中で100回ゴミを拾っても、道はきれいにはならない。1回ゴミを拾えば、その分、道はきれいになる。


10回物語を書きたいと思っても、1回書き始めた人には敵わない。1000回物語を書きたいと思っても、1編書き切った人には敵わない。


心の中で、やさしくてもいい。

心の中で、夢を描いてもいい。

ただ、その続きが、外の世界につながるものであるように。


そうしていくのは、自分だ。

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コップの中に水がある しゆき @o_shiyuki

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