空っぽになったあとで

学生の頃。悩みが多かった、不満が多かった、どうにもできない気持ちに溢れていた。それを、短い詩や、物語として、ただ書き続けていた。書くことで食べていけたら、と思っていた。


だけど。ある程度書き尽くしたり、悩みや不満が小さくなっていくと、書くことが難しくなっていった。書きたい気持ちはあるのに、書くことはなかった。


悩みや不満を作ればいいのだろうか?。書くために?。そんなの、不純じゃないか?。


書きたくて、どうにか書いていると。もうほとんど乾き切った雑巾を、力いっぱい絞っているような気持ちになった。ドリップコーヒーだとしたら、絞り出したらただ苦いだけの最後の一滴までを、飲もうとするようなものだ。そんな言葉に、力があるはずもなく。


書けなくなったとき、自分には才能がないんだなと思った。溢れ続ける泉や、降り注ぐ雨や、絶え間なく寄せる波が、自分にはなかったのだなと。今は、バカだったなと思う。才能がないのなら、努力をすればよかった。結局のところ、なかったのは才能だけでなく、努力をし続ける情熱だった。


大切なのは、空っぽになったあとで何ができるかだったのだと思う。空っぽになったときこそがスタート地点であったのに、私は、スタート地点をゴールにしてしまったのだ。スタートすら、できなかった。


今は、過去のそんな自分を、なつかしく思う。出版社の人に、何人かでの共同の自費出版を「趣味の思い出になりますよ」と勧められて、「趣味にしたいわけではないんです」と傷付きながら断った自分を、恥ずかしく、でも、バカでかわいかったなと、思える。歳を重ねるのも、悪くない。


そういえば。学生のとき、私が書いた物語を読んだ教授が、「岸田今日子が読んだらよさそうね」と言ってくれた。とてもうれしかった。もちろん、叶うはずもない話で、数年後に岸田さんが亡くなられたときに、叶うはずもない、はダメ押しされたわけだけれど。それでも、その教授の言葉は、私へのご褒美で、思い出すと今でもうれしいもののひとつだ。ありがとうございます、心から、遠くから。

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