空知らぬ雪の物語

天くじら

空知らぬ雪の物語

「君はいいよな」

そう言って、わたしの隣にいる彼は笑った。

辞書をひけばきっと、笑うことは嬉しいことと一緒である、と書いてあるだろう。それでもわたしには、彼の笑い方が悔しそうに、悲しそうに見えてならなかった。

わたしには、こうやって彼に寄り添って立っていることしかできない。彼に励ましの言葉をかけることも、彼の心の内を想像するのも難しい。

「人と関わらなければ喧嘩はしなくて済むけど寂しいし、逆に関わったら関わったで面倒なことがたくさんある。どうしたらいいの?」

彼の口調は投げやりだった。

わたしの横を風がするりと通り抜けて行った。少しずつ季節が移り変わり、風が暖かくなっているのがわかる。

彼に何があったのか、わたしは知らない。わたしに何があるのかも、彼は知らない。そんなちょっとおかしな関係だけれど、今の彼にはそれがちょうどいいのだろう。わたしはただ、背の小さな彼を見下ろした。

「聞いてよ、ねぇ……」

彼は小さな身体を震わせて、ただ涙を流していた。沈んでいく夕陽の日差しが柔らかい。彼は静かに口を開いた。

彼は毎日、放課後、ここにやってくる。そして、決まっていつも面白いことを教えてくれた。わたしはそんな彼の話を聞くのが大好きだった。

彼の話をまとめるとこうだ。人を笑わせるのが好きな彼は、将来お笑い芸人になりたいのだそうだ。だから、学校でもギャグを言って、周りを楽しませている、つもりだった。つもりだった、というのは、そうでない人がいたからである。彼が軽くいじっただけだと思っていた友人が、それを苦にして学校に来なくなったという。しかも、そのせいで彼は何度も先生に怒られた。「人の気持ちを考えなさい」、と。

自分が誰かを楽しませようとやっていることが、誰かを傷つけていた。その事実が、まだ小さな彼に重くのしかかっている。

「どうしたらいいの? 僕はもう、何も喋らない方がいいのかな。そしたら君みたいに、誰かを傷つかなくて済む?」

できることなら、思いっきり首を振ってやりたかった。だって、言葉を発しないということは、人を救えないことでもあるから。本当に助けたい大切な人がいるのに、何もできない時があるから。

彼にはその元気な言葉で、また誰かを救ってほしい。だって、わたしも彼に救われている一員なのだから。

「ねぇ、答えてよ……」

ほら、こういう時だよ。心の中で彼に言う。わたしの一番、大切な人。

「人間は、誰かを傷つけてばっかりだよね」

ふいに彼のポケットから、ブルブルと電子機器の震える音がした。お母さんが家で待っているのかもしれない。心配だ。それでも、彼は無視して続けた。

空はますます暗くなっていき、はっきりと見えるのは近くにいる彼の顔だけだ。

「だってさ、君だってみんなに傷つけられてきたでしょ?」

そうなのかもしれない。わたしはみんなの言う、傷つくが何なのかはわからない。どうしようもないこの気持ちが、傷つくってことなのかもしれない。

「今だってさ……」

彼の言葉が夜空に溶けていく。そろそろだなと、わたしは覚悟を決めた。

「おーい、そこにいる坊や。危ないから、離れなさい」

そんな声が遠くから聞こえてきた。彼とのお別れの時間が迫っている。

「ヤダ! なんで、なんでそんなことするの?」

これ以上ここにいたら、わたしは君を傷つけてしまうから。

「傷つけることが、大切なことだってあるんだよ。みんなを守るために、仕方ないことだってある。それは、いけないことじゃなくて、誰も苦しまないようにするためなんだよ」

トラックから降りてきたお兄さんが、そう言って彼を抱き上げた。一緒に見ようか、と泣きじゃくる彼に話しかけている。

「この桜の木は、もう古くなって、倒れてしまうかもしれないんだよ。だから、切らないと、もしかしたら誰かが怪我をしてしまうかもしれない」

少年は泣きじゃくりながらも、お兄さんの声にこくりと頷いた。

「それにしても、今年の桜の花は綺麗だなあ」

そうでしょ、と言いたくなった。今年は頑張ったんだ。大切な彼に、感謝を伝えるために。

ようやく泣き止んだ彼が、わたしからひとつ桜の花を摘み取って、手に乗せる。

「バイバイ、桜の木さーん!」

今度はちゃんと、彼の元気な声だった。それ以降は聞こえなかったけれど、どうか笑っていて。今度は、あんなに悲しい笑いじゃなくて、楽しい笑いで。

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