大人はらから

香久山 ゆみ

大人はらから

「間宮さん」

 玄関から声を掛けると、奥の方から「おう」と返事がした。いつも通り、ぶっきらぼうな野太い声。私は小さく息を吐いて、靴を脱ぎ、家に上がる。部屋の奥から熊のような顔を覗かせた間宮さんが、「てきとうでいいから」と言ったきり、二階へ引き上げていく。もさもさの髪と髭は、この一週間でまた伸びたようです。私は腕まくりをして、台所に立ち、まずは食器洗いからはじめる。間宮さんが何をしている人なのか、私は知りません。が、預けられた通帳に定期的に入金があることから、なんらかの職業人ではあるようです。

 間宮さんと私ははらからです。

 なのになぜ、「間宮さん」と呼ぶのか。姓が違うからです。家族どころか、知人というほどにも彼のことを知らないからです。

 私が間宮さんを知ったのは、五年前、私が成人した時。母から聞かされました。私には兄がいると。天涯孤独となった兄の世話を定期的にしてやってほしい、私にはそんな資格がないからと、母にさめざめ泣かれては仕方ありません。しかし、それ以上の事情が、母の口から語られることはありませんでした。

 見知らぬ兄の世話係を引き受けた理由、そこにはほのかな期待がありました。少女漫画のようなかっこいい兄が現れるのではないか。つまらない私の人生に、なにか素敵な変化が起こるのではないかと。

 しかし、現実とはつまらないものです。

 淡い少女の期待を胸に訪問した兄の家。出迎えてくれたのは、熊のように無愛想な三十男でした。体毛が濃くて、恐らく毎日は風呂に入っていないのであろう男のにおい。私がなんとなく男嫌いになった理由は間宮さんのせいだと抗議したい。

 間宮さんは私にまるで似ていません。私の両親にも。だから、もしかすると私は担がれているのではないかと疑いました。実の兄の存在を二十年間も知らずにいるということがあるかしら。それとも。私と間宮さんが孤児であったという可能性もあります。

 私はこっそりと、役場で戸籍謄本を取得しました。確かに、間宮さんも私も両親の実の子のようです。間宮さんは、私が生まれる前、彼が五歳の時に養子に出されて除籍されていました。そして、当時彼が養子縁組した先の姓は「間宮」ではありませんでした。彼がこれまでどんな人生を歩んで今に至るのか、私には分かりません。とても複雑な事情があるのか。私には分かりません。

 間宮さんは私のことをどう思っているのでしょう。初めて間宮さんを訪れた時、彼はただ「おう」と言って、扉を開けました。

 初めて呼び掛けた時、私がどれだけ苦心したか、彼は知らないでしょう。一通り家の間取りを説明して二階の自室に戻ろうとした彼の背中、何をしたらいいかと私は声を掛けようとした。でも、なんて? 「ねえ」では馴れなれしすぎるし、初対面で「お兄ちゃん」というのも……。遠ざかっていく背中に、私は精一杯の勇気を振り絞って声を掛けました。「まみや、さん」と。彼は立ち止まって振り返り、「おう」と返事しました。それ以来ずっと、「間宮さん」と呼んでいます。

 それから現在まで、週に一度ほど、私は間宮さんの家を訪れます。郊外の小さな一軒家。歓迎されるわけでも、拒絶されるわけでもなく。私は家に上がって、間宮さんの一週間分の洗濯物や掃除を片付けます。訪れた時、間宮さんがいてくれた方がいいのか、それとも不在を望んでいるのか、自分でもよく分かりません。けれど、この場所は足を運ぶにつれてなんだか居心地良く、仕事や家で嫌なことがある度に、私は家事に託けて間宮さんの家を訪れるようになりました。静かなる受容、そんな雰囲気がここにはあります。

 間宮さんの優しさは、父に似ている。本当は、彼は一人で生活できます。五年前に初めて訪問した時、ここは整頓の行き届いた家でした。けれど今は、訪れた私が持て余さないように、適度に雑然とした部屋と洗濯物が待っている。私の弱さは、母に似ています。一人では生きられない、不安で仕方がない。兄の存在を知った時、私の中に生まれた安心感を誰が知るでしょうか。私はずっと不安でした。父が亡くなって以来、精神的に脆い母との二人暮らし。職場と家と、その二つが私の生活のすべて。将来、母を亡くした時に、一体私には何が残るのだろうか。

 五歳で家を出た間宮さんに、両親の記憶はあるのか。彼が私の中に母の面影を見ることもあるのだろうか。私には分かりません。だから、私たちは語らわねばならない。大人とはもどかしいものです。私たちは子どものように無邪気に信頼を育む時間を逸しました。五年間、私たちきょうだいは、ただ戸惑いの中にいました。その中で、私たちはただ互いがはらからであるという微かな空気を感じ得た以上には、何も得なかった。初めて私が彼を呼んだ時、私は望んでいました。振り返った彼が、「兄貴でいいよ」と言ってくれるのを。けれど、彼は優しい兄ですが、勇気のある人ではないようです。だから。

 私には分かりません。その結果がどうなるのか。でも、呼んでみようと思います。私のはらからを。「間宮さん」ではなく、「お兄さん」と。

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