後編

 サトリが消えた。

 死んだのではなく、消えたのだとソニアは言う。

 町の人間で、彼女の不在に気付く者はいなかった。骨董屋の店主も、領主の一人娘も、教会の新米シスターも。誰もかれもが、彼女のことを綺麗さっぱり忘れていた。

 それでも私たちはサトリのことを覚えているし、この家には彼女の残り香が漂い続けている。名前を呼べばふらりと現れるんじゃないかってくらい、ずっと近くに。


 そして、私の体内にも。


 サトリの仕業なのだろうか、私は彼女の体質を継承していた。食事の量は日に日に減っていき、その裏で飢えと渇きに襲われる。何を食べるべきかは、本能的に察していた。

 葛藤はあった。それでも生理的欲求には逆らえず、私はソニアを使った。一日三回、それっぽい理由もなしに彼女を抱き締める。艶やかな髪に顔を埋め、節操なしに息を吸い込む。そんな私を、ソニアは何も言わずに受け止めていた。



 感情の味わい方もその口触りの違いも分かるようになって、私はふと思う。サトリの最期、彼女が見せた恍惚とした表情。体内に納まりきらない快楽が、零れ出たような甘く濃い吐息。その味を私も、知りたいと思った。

 あの日の状況からして、真っ先に思いつくのが恐怖だ。しかし、食事のために彼女を怯えさすのも気が引ける。どうしたものかと頭を捻るうち、やがて思いもよらぬチャンスが訪れた。



 ある日、私たちの家に野盗が忍び込んだ。まあ、年頃は私たちと変わらない子供だったが。兄弟らしき二人は、身なりからして貧しい生活を送っていたのだろう。そこで町外れにある一軒家に目を付けたというわけだ。

 ソニアを人質取られた時には焦ったけど、いざ猟銃を手にしてしまえばそれまでだった。威嚇射撃一発と、実際に太ももを打ち抜けばすっかり腑抜けてしまった。雑な止血をしたのち拘束。ソニアに町の大人を呼んできてもらい、引き渡すことで事なきを得る。

 ソニアが帰ってくるまでの間、彼らで実験してみる。恐怖心を煽ることで、感情はおいしくなり得るのか。太ももに空いた穴に、彼らの持っていたナイフを突き立てる。ぐーりぐーり、ぐちゅ、ちゅちゅちゅ。罠に掛かったシカみたいに、薄い円を掘り進める。

 兄であろうその男の子は、歯を食いしばって声を我慢している。弟に不安を抱かせないためであろうか、涙ぐましい努力だ。しかし次第に恐怖に押し潰され、涙ながらに懇願するようになる。そんな彼の目の前で、ナイフをくるくると回して遊んでみる。

 はてさて、そうして得られた感情は何とも言えないくどさがあった。喉にへばりついて離れない、後味の悪さ。ロクに体を洗ってないのであろう体臭も相まって、彼らからの食事は断念した。

 どうも暴力や血液が「おいしさ」に繋がるわけではない。だったら一体何が、サトリをあんな表情にさせたのだろう。


「……ちゃん。ねえ、ラトリアちゃん」


 ソニアが呼んでいる。ひと段落着いて気が緩んだのか、人質になっていた時よりも輪にかけて、彼女の瞳は潤んでいる。


「ありがとう。ラトリアちゃんはいつも、私を助けてくれるね……」


 抱き着かれ、背中をペタペタと触られる。

 近い。彼女とのスキンシップは地下生活の頃から続いているが、この距離感は初めてだ。少し身じろぎすれば、おでこが……もう当たっている。近い。

 ここ最近で確信に変わったのだが、ソニアは私に対して友情以上の感情を持っている。


 ——不純だなぁ。まったく誰に似たんだか、可愛いやつめ。


 不覚にもそれを「使える」と思った私を、記憶の中のサトリが咎める。ほんとにその通りだ、誰に似たんだか。ほんの少し、彼女に近づけた気がする。


「ソニア、ちょっといい?」


 トロンとした目のソニアを引きはがす。


「あなたにも、自衛の手段を持ってもらわないといけない。今回のことでよく分かった」


 懐からナイフを取り出し、ソニアに握らせる。自然と包丁を持つ手つきになるのを笑いつつ、彼女の手を取る。


「こうやって両手で握るの。全体重を掛けるくらいでやらないと、私たちの力じゃ致命傷にはならない」


 重なっているソニアの手は赤く、熱い。ちゃんと話聞いているのだろうか、この子は。

 まだへっぴり腰だけど、形になってきたので次の段階に移る。

 ソニアの正面に回り、おもむろに両手を広げた。


「じゃあ次にどこを狙うかだけど……」


 魔女からの受け売りで、体の部位を指していく。人体の中で、太い脈が通っている部分。首筋から、太ももの内側まで。そして最後に、分かりやすい急所を指差す。


「それで、ここが心臓ね」

「あ、危ないよ?」


 ソニアの手首を掴み、切っ先を私に向けさせた。そのままじりじりと距離を詰め、心臓へと近づける。


「ほんとにっ、危ないって……」


 狼狽するソニアは今にもナイフを取り落としそうだった。誤って足元に落としてもいけない。彼女の手を覆い、固定させる。

 試してみたいことがあった。あの夜、私は操られていたのだと思う。サトリの能力が受け継がれているのなら、私にだって可能なはずだ。


 ——ごめんね、ソニア。


 心の中で謝る。すると、「謝るくらいなら最初から……」と理性を司る部分が不満を言い出した。だけど残念、理屈で動けるほど私の頭は賢くないんだ。


「……えっ」


 チクリ、というよりはサクリ、といった感触か。おそらく第一関節くらいの深さ、ナイフが胸に侵入した。


「えっ。な、なんでっ!? ちが、私……」


 狼狽するソニアは顔を真っ青にしながら、それでもナイフを引き抜こうとする。

 させない。

 ナイフの刀身を掴む。手のひらに浅くない傷が入り、血を滴らせた。


「離して! 血が出てるよ! 早く手当しないと、死んじゃう……」


 ソニアは大げさだなぁ。このくらいじゃ死にはしないだろうに。

 私は無意識のうちに、空いている左手でソニアの口を塞いだ。声にならなかった感情が、代わりに涙となって溢れてくる。


 ——あっ。


 その瞬間に流れ込んできた感情は、今までに味わったことのないものだった。何色もの糸が織り合わさった複雑な構造でありながら、一つの画を形作る刺繡のような。濃厚で、色鮮やかな風味が細胞に行き渡る。

 サトリの残り香が、一段と強く部屋に漂いだす。

 欲望に忠実すぎる彼女の血は、私の細胞の中で確かに息をしていた。

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